【古宮城】
古宮(ふるみや)城は武田信玄が三河侵攻の拠点として、
家臣の馬場信春に築かせた城です。
城将として小幡又兵衛、
甘利左右衛門、大熊備前守らが駐屯しました。
「長篠の戦い」に先立つ天正元年(1573年)、
奥平貞能・貞昌父子は
武田氏を離反して徳川氏に帰属します。
その際に古宮城は徳川・奥平氏によって
攻められ落城しています。
現在も土塁や竪堀などがきれいに残っています。
丘全体を要塞化した信春の縄張りがよくわかります。
見学駐車場は白鳥神社鳥居の先で
小型車なら3台ほど駐車出来るスペースがあります。
立地としては、飯田から設楽を経由して
新城へ抜ける作手街道が城の西側を南北に通り、
城の南側には伊奈街道へ続く
脇街道を結ぶ位置にある標高560m、
比高30m程の丘陵を城塞化した城です。
スポンサーリンク
当時は北・東・南の三方が
巨大な湿地に囲まれており、
城域は東西250m、南北200m程になります。
馬場信春に築いたあとは、
小幡又兵衛、甘利左右衛門、
大熊備前守らが守備しました。
元亀4年(1573年)、
三河へ侵攻していた武田信玄が野田城で死去すると、
三河・亀山城の奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は
従属していた武田氏から離反し、
徳川家への寝返りを決意します。
この時、作手地区にある城の大半は
武田軍が駐屯していたため、
奥平氏は本拠地である
三河・亀山城を放棄し、
亀穴城(滝山城)へと逃走を図ります。
武田軍は奥平貞能・奥平貞昌父子を追補するべく、
古宮城から軍勢を出して逃亡する
奥平軍に肉薄した所、
奥平軍の別動隊が手薄の古宮城を
攻撃すると見せかけ、城の南側で放火を行います。
背後に燃え上がる火煙を見た武田軍は
古宮城が落城したと思い込み、
軍勢は大混乱に陥り、
奥平氏とその援軍に駆け付けた
徳川軍の手により、古宮城は焼失。
武田軍は作手の地から撤退したと伝わっています。
古宮城には看板が立てられてはいますが、
縄張り図はありませんので、
登城する前には
作手歴史民俗資料館に寄って、
縄張り図を貰っておくといいでしょう。
城跡に3台分の駐車場はありますが、
トイレは設置されていないため、
民俗資料館か、
近隣の三河・亀山城に隣接する
道の駅でトイレを済ませてから
訪問すると良いと思います。
なお、古宮城の敷地うち大半は
個人所有の土地です。
所有者の皆様のご好意によって見学を許されています。
ゴミは持ち帰り、個人の敷地に入らないなど、
訪問する際はマナーを守って見学をしてください。
【縄張形態】
平山城
【標高(比高)】
560m( 45m )
【築城主】
馬場信春
【築城年】
元亀2年(1571年)頃
【廃城年】
天正3年(1575年)頃
【遺構】
土塁、曲輪、横堀、竪堀等
【指定文化財】
市史跡
【交通アクセス】
<車>
東名高速道路「豊川IC」
【所在地】
〒441-1414 愛知県新城市作手清岳宮山31
【古宮城のスタンプ設置場所】
新城市作手歴史民俗資料館
飯田線の新城駅から、古宮城の先にあります。
火曜日休みです。
スタンプは火曜日NGです。
更に古宮城の御城印も販売されています。
【所在地】
〒441-1423 愛知県新城市作手高里縄手上35
所要時間:30分~
奥平貞勝と亀穴(滝山)城~松平氏・今川氏・織田氏・徳川氏・武田氏と戦国の世を渡り歩き84歳まで生きた。
亀山城~群馬からやってきた奥平氏が築城し、やがては山家三方衆と呼ばれる有力土豪になった。
石橋城(慈昌院)~石橋奥平氏の居館跡で奥平貞勝に対して謀反を企むも逆に討ち取られる。
塞之神城~古宮城に隣接する山城で築城は奥平氏とも奈良時代の米福長者とも武田氏とも云われています。
長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。
奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
亀姫(徳川家康の長女)、母は築山殿で夫の奥平信昌との間には4男1女を授かりました。
この記事へのコメントはありません。