鎌倉殿の13人

丹後局(高階栄子)~中流官僚の妻から後白河法皇の寵愛を受け、政治家として権勢を振るった美女

平等院鳳凰堂



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丹後局(高階栄子)】

高階 栄子(たかしなの えいし(よしこ)、
仁平元年(1151年)?⇒ 建保4年(1216年))は、
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての女性。
父は法印・澄雲とも上座・章尋とも言われています。
母は、建春門院の乳母である
平正盛の娘・政子(若狭局)とする説があります。
通称は丹後局でした。

【丹後局(高階英子)の生涯】
後白河法皇の側近であった平業房の妻となりました。
この間に権中納言となる
山科教成(藤原実教の猶子、山科家の祖)ら
数名の子供を生みました。
けれども治承3年の政変で
平清盛によって後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されると、
後白河法皇の側近であった平業房も解官の上、
伊豆国に流罪となりました。
けれど平業房は脱走しようとしたため、
怒った平清盛の捜索によって捕らえられ、
福原において処刑されてしまいました。

平業房の死後、丹後局は鳥羽殿に幽閉された
後白河法皇に近侍します。
もともと美貌の持ち主だったらしく、
たちまちのうちに
後白河法皇の寵愛を得たとのことです。
養和元年(1181年)10月には
後白河法皇の皇女である覲子内親王を産んでいます。
同年閏2月の平清盛の死去もあって、
これを契機に丹後局は
後白河法皇の寵愛と信任を得た
第一人者となり、
政治にも介入するようになりました。
「玉葉」では右大臣藤原(九条)兼実が
丹後局のことを「朝務は偏にかの唇吻にあり
(この頃の政治は彼女の紅唇ひとつに左右される)」
と言及していました。
朝廷の公卿達には
楊貴妃に異ならない有り様であると
例えられるほどでだったそうです。

寿永2年(1183年)7月、
源義仲の攻勢の前に平氏が
安徳天皇を奉じて都落ちしました。
8月、法皇は安徳天皇を廃して
新たな天皇を擁立しようとします。
このとき後鳥羽天皇を立てるように
進言したのが丹後局であったと言われています。
平氏滅亡後の文治2年(1186年)からは
鎌倉の源頼朝との顔役となり、
大江広元と何度も交渉に当たっています。
文治3年(1187年)2月には従三位に叙されました。
建久2年(1191年)6月、
覲子内親王に院号宣下があり、
「宣陽門院」となると、丹後局は従二位となりました。

【後白河法皇の崩御後も政治に介入】
建久3年(1192年)、
後白河法皇が崩御すると、丹後局も出家しました。
後白河法皇の遺言により
山科に所領(山科荘)を与えられた丹後局は
同じく遺言により長講堂領を与えられた
宣陽門院と共に、なおも政治に介入しました。




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【九条兼実派と対立】
後白河法皇の死後、
朝廷では源頼朝を後ろ盾とする
九条兼実が権勢を誇りましたが、
この九条兼実に反発する一派が
土御門通親や丹後局らと手を結んで対立します。

【建久七年の政変】
丹後局は源頼朝とも親密な関係にあったようです。
源頼朝とは常に進物を贈りあいしているという
強かさもありました。
けれども源頼朝が娘の大姫
後鳥羽天皇に入内させようと
したことには消極的でありました。
そして土御門通親と共に
元々源頼朝と懇意であった
九条兼実を失脚させることに成功したのでした。

【朝廷の実権を握る】
その後、朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって
丹後局と土御門通親が掌握しました。

【丹後局の失墜】
建仁2年(1202年)に土御門通親が死去。
さらに後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、
丹後局の威信は急速に失墜していきます。

【浄土寺】
その後、丹後局は朝廷から去り、
亡き夫の平業房の所領にあった
浄土寺に住んだそうです。
このため、「浄土寺二位」と称されたということです。
浄土寺は現在はなく、
その寺の跡地に今は浄土院があります。
場所は銀閣寺の山門横、とのことです。
この浄土院の本堂脇にある小堂に
丹後局(高階栄子)の木像が安置されています。

【丹後局の没年】
没年は異説も多いですが、
建保4年(1216年)2月(もしくは3月)説が
有力とのことです。
遺領の山科荘は次男の教成が相続し、
これ以降、教成の子孫は
山科家の家名を名乗るようになりました。

【一族と建春門院滋子との深い関係】
高階栄子の伯母にあたる若狭局は、
後白河天皇女御であった
建春門院平滋子の乳母でした。
彼女は平滋子が女御となった時以来、
正式に内裏女房となっており、
滋子崩御ののちでもなお、
「東宮・安徳(滋子の孫)の乳母の如し、
執権の人なり」といわれるほど
権勢の地位にあったそうです。

また、若狭局と同じく高階栄子の伯母の
大和、肥後、肥後の娘の三河(建春門院の寵愛を受けた)、
高階栄子の姉の周防、従姉妹の武蔵、武蔵の娘の常陸、
和泉、伊賀の少なくとも8人が建春門院付きの女房でした。




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【丹後局(高階栄子)の凄さ】
結婚して、子供産んで(6人)、夫が処刑され、
でも、そこで終わらず、そこからが
人生の第二幕の始まりだったのです。
夫が仕えていた
最高権威に等しい人の寵愛を受け、
更に政治に介入し、院政で権威を振るう。
しかも美女。
凄すぎます!!
今の時代の女性は、結婚か仕事か。
仕事か子育てか。
なにかを選択したら別のなにかを捨てる・・。
若い頃は強迫観念みたいに縛られてきました。
いやいや全部やったらいいのです。
そう思えてきた今日この頃、
はるか昔にそれをやってのけた女性がいたのです。

【強かで積極的な女性達】
しかも、決してひとりではないのです。
この時代は実は女性が強かで活躍していました。
現代女性よりもはるかに強かで賢く、
持ちうる「武器」を余すことなく使って
自分の望みを叶えていくことに積極的な
この時代の女性達。

女性の活躍を!と叫ばれて久しい現代ですが、
どこか白々しくもあります。
けれども800年以上も昔に活躍した
鎌倉の北条政子と、
京の丹後局(高階栄子)。
2人の偉大な女性政治家の生き方を
もっと知るべき時なのかもしれません。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
鈴木 京香(すずき きょうか)さんが演じられます。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

土御門通親~村上源氏の嫡流で九条兼実を失脚させ、やがては朝廷政治を掌握します。

九条兼実~九条流の祖、正しき政治体制を目指した厳格さを持つ人物で「玉葉」の著者。

大姫~源頼朝と北条政子の長女~生涯をかけて愛を貫いた儚くも一本気な姫、静御前と心を通わせる

三幡(乙姫)~源頼朝と北条政子の次女、父親と同じ年に14歳にて早世した姫

北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。

大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。

中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

高階貴子~身分は高くないが和歌と漢詩に秀でた才媛で藤原道隆の嫡妻、百人一首54番の情熱的な和歌が有名。

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