【伝堀越御所跡】
伝堀越御所跡(でんほりごえごしょあと)は、
静岡県伊豆の国市寺家にある史跡です。
国の史跡に指定されています。
「堀越公方」と呼ばれた
足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、
日本各地で戦乱が起こっていました。
とくに関東地方は、
京都にある室町幕府に従う勢力と
対抗する勢力とが激しく争っていました。
応仁の乱や慈照寺銀閣の建立で有名な
室町幕府8代将軍足利義政は、
長禄元年(1457年)、
対立していた関東の足利氏(古河公方)に対抗するために、
直接関東地方を支配するため、
兄弟である足利政知を還俗させて
鎌倉公方として伊豆の韮山に下向させました。
けれども、足利政知は戦乱のため
関東(鎌倉)まで行くことができず、
韮山の堀越(四日町の一部)の地、
ここの守山北麓一帯は北条氏の屋敷でしたが、
室町幕府によって、その跡に堀越御所が構築されました。
これにより足利政知は「堀越公方」と呼ばれました。
延徳3年(1491年) に足利政知が病死すると、
その子である茶々丸が堀越公方と名乗りましたが、
屋敷内が相続問題でもめている中、
伊勢盛時(北条早雲)に攻め込まれ、
33年間続いた御所は滅亡してしまいました。
これは後に伊勢盛時(北条早雲)の子孫
である小田原北条氏が戦国時代の関東で
台頭した先駆けともいえる事件でした。
足利茶々丸の墓は、現在は願成就院にあります。
日本の中世の歴史を物語る重要な遺跡ということで、
国の史跡に指定されています。
発掘調査によって、御所に伴うと考えられる、
遣り水や滝口などの池跡、井戸跡、
鉄釘、貨幣、白磁や青磁の陶磁器類などが見つかっています。
伊豆韮山の地で公方が都風な生活をおくっていたことがわかる
貴重な遺跡との見方があります。
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発掘調査後は埋め戻されて、現在は芝生広場になっています。
その入り口には説明看板が建てられています。
一部の土地は伊豆の国市の所有ですが、
周辺は私有地や住宅地であり、
本格的な整備や調査が実施できないようです。
【「伝」の理由】
「伝堀越御所」としているように、
に「ここが堀越御所であった」という確証は
まだ得られるには至ってないようです。
建物の遺構は今現在見つかってはいません。
すぐ近くには北条氏邸・円成寺跡があり、
その関係も考えられないわけではない、とのことです。
【所在地】
〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町字御所ノ内932
【交通アクセス】
伊豆箱根鉄道「韮山駅」下車、徒歩15分。
国道136号線から韮山北条簡易郵便局の横を入る。
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