【神西城】
【所在地】
〒699-0823 島根県出雲市東神西町
【別名】
龍王山、竹生城、高倉城
【城郭形態】
山城
【天守構造】
不明
【築城主】
神西氏
【築城年】
不明
【主な城主】
神西氏
【廃城年】
不明
【遺構】
郭、堀切
【神西氏について】
築城時期は不明です。
神西氏の居城で
尼子十旗の一つに数えられています。
神西氏は武蔵七党の小野氏を祖とし、
鎌倉時代に小野高通が幕府から
地頭職に任ぜられ、
出雲国神門郡の神西へと
下向したのが始まりとされています。
戦国時代の神西元通が著名であるそうです。
【遺構】
現在は公園として整備され、
3つの登山ルートが整備されています。
山頂の主郭部の他にも
広範囲に郭が分布していますが、
大半の郭の加工が不十分です。
現在、自動車道の建設中です。
【交通アクセス】
JR山陰本線出雲神西駅~徒歩
山陰自動車道出雲インターチェンジ
【神西元通】
神西 元通(じんざい もとみち)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
尼子氏の家臣で尼子十旗神西城主。
神西氏は、武蔵七党の小野氏を祖とし、
鎌倉時代に小野高通が鎌倉幕府から
地頭職を任ぜられて
出雲国神門郡の神西へと
下向したのが始まりとされています。
神西庄波賀佐村・久村・清松村を
領していたとされています。
その後、美作国に4660石加増されています。
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【戦国大名としての尼子氏滅亡】
出雲の戦国大名尼子氏に
足軽大将として仕えていました。
永禄6年(1563年)、
毛利氏による出雲侵攻に対し降伏しました。
永禄9年(1566年)に月山富田城は落城し、
戦国大名としての尼子氏が滅亡しました。
神西元通は本領ではなく
伯耆国末石城主に任命されています。
【尼子再興軍に参加】
永禄12年(1569年)、
目賀田幸宣らの尼子旧臣が反乱を決意し、
これに山中幸盛(山中鹿介)が擁する
新宮党遺児である尼子勝久を中心として
尼子再興軍を結成します。
山中の誘いに乗った神西元通は
毛利家から目付として付けられていた
中原就久を討ち尼子再興軍に参加します。
元亀元年(1570年)に、
毛利輝元率いる毛利軍と、
山中幸盛を大将とする
布部山の戦いにて再興軍は敗走し、
共に京へと逃亡しました。
天正5年(1577年)、
尼子再興軍は毛利攻めをする
織田氏の家臣である羽柴秀吉の配下に加わり、
播磨国上月城へと入城します。
これに対して毛利氏が
6万という大軍を率いて上月城を包囲します。
この軍勢に劣勢な秀吉は救援を送れぬまま、
別所長治の三木城攻めへと転進しました。
遂に救援の望みを絶たれた尼子再興軍は
尼子一族の自害と引き換えに城兵の助命嘆願し、
上月城を開城することになったのでした。
【尼子一族と共に自害】
天正6年(1578年)、
尼子勝久以下の尼子一族と共に自害しました。
主君であった尼子勝久と同じく、
神西元通の供養塔が上月城に
今でも残っているとのことです。
【神西氏の子孫】
子と推測される神西又三郎は、
小早川隆景に仕えて、
その偏諱を賜って神西景通と名乗ったそうです。
小早川隆景の死後は毛利家に仕えて、
文禄・慶長の役にも従軍しました。
慶長15年(1610年)に没しているとのことです。
月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は天空の城、日本五大山城です。
三笠(牛尾)城跡・島根県~尼子十旗で尼子再興軍の拠点の城。城主は牛尾氏。
玉造要害山城・城主の湯氏は、宇多源氏佐々木一族で、戦国の知将にて辣腕大名の亀井茲矩のご先祖です。
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