本能寺の変を成功させるも、山崎の戦いにて豊臣秀吉に敗れて命を落とした、明智光秀の「子孫」に関して、追ってみました。
まず、明智光秀の子孫、また明智一族の子孫とされる家柄は、少なくとも10家残っているようです。
ただし、本能寺の変で、イメージが悪かったのか?、どの家も、明智姓(あけち)ではなく、違う姓名となっています。
もちろん、明智を称していれば、豊臣家から根絶やしにされる恐れもありますので、明智とは名乗れない訳です。
よって、ご子孫は明智さんではない状態が多いとも言えますが、現在、日本全国に明智姓を持つ方は約1200人おられますので、決して一概には言えません。
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なお、家系図から辿っていく訳ですが、日本の場合、洪水などの自然災害や、太平洋戦争で空襲もあったことから、歴史上の文献などの多くは、失われています。
そのため、なかなか手がかりが残っていないと言うこともあります。
クリス・ペプラーさん
ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つのが、クリス・ペプラーさんです。
落ち着いた美声を活かして、テレビ番組のナレーション、FMラジオでのDJなどでご活躍されています。
幼い時から母方の祖母より「明智光秀の子孫」と聞かされており、祖父・母からもそのように言われていたそうです。
その母方の祖母の姓(苗字)は「土岐」だったとのことです。
このクリス・ペプラーさんの母方の祖母は、美濃・守護大名である土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝わっているようです。
土岐頼芸は、斎藤道三から追放された大名で、晩年は甲斐にいて、武田信玄・武田勝頼の世話を受けていました。
1582年、本能寺の変の直前に、甲斐へ織田信忠が侵攻した際に、発見されて、旧臣・稲葉一鉄の手助けで美濃に戻りましたが、半年後に死去しています。
その次男・土岐頼次は、豊臣秀吉に馬廻衆となっており、のち徳川家康に従うと、徳川家の旗本として存続しました。
その長男が土岐頼勝と言う事になります。
最後の美濃守護である土岐頼芸の孫が、土岐頼勝と言う事になりますね。
これをそのまま捉えれば、明智家は、だいぶ前に、土岐家から分家した家柄ですので、クリス・ペプラーさんは、明智家の末柄ではなくても、土岐家の子孫であることは間違えないようです。
土岐氏(ときし)は、そもそも平安時代の武将である摂津源氏・源頼光の子である源頼国の子孫ですので、付け加えさせて頂きます。
もっとさかのぼれば、第56代・清和天皇の子孫となります。
ただし、土岐頼勝は、明智光秀の実子であったとする説もあります。
でも、明智だったと言うよりは、土岐氏の方が格上(名門)ですので、土岐氏の子孫で良いのではと感じてしまいます。
そんな中、名門・土岐氏ではなく、あえて明智光秀の末柄と、長年伝承されてきたと言うのであれば、本当に、土岐頼勝は、明智光秀の子であった可能性も否定できないような気が致します。
明智光秀の子
明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リストでも触れていますが、明智光秀の子、特に男子に限ってみれば、下記の子供がいます。
明智軍記によると・・。
長男・明智光慶(明智十兵衛)
次男・明智光泰(明智十次郎)
三男:明智乙寿丸
岸和田・本徳寺を開いた南国梵桂(なんごく-ぼんけい)が、一説では明智光慶と同一人物とされます。
明智光慶は、山崎の戦いの際に、坂本城または亀山城にて亡くなったとされますが、生き延びて出家すると、妙心寺の塔頭・瑞松院に住みました。
妙心寺には「明智風呂」と言う蒸し風呂があり、国の重要文化財になっています。
この瑞松院は、のち江戸初期になると、明智光秀の妻・明智煕子の出身である旗本・妻木氏が檀那になっています。
また、南国梵桂の師は大心院の三英瑞省で、明智光秀の三女・珠(細川ガラシャ)の夫である細川忠興が檀那になっています。
このように、明智光慶が南国梵桂になったとする説があります。
また、千葉(上総)には、桔梗紋が刻まれた明智光秀側室の墓との伝承があり、脱出したとする明智十五郎の名もあるようです。
鈴木叢書の「明智系図」では・・。
長男・明智玄琳(妙心寺の僧)
次男・明智安古丸(山崎の戦い討死)
三男・明智不立(天龍寺の僧)
四男・明智十内(坂本城が落城した時に死亡)
五男・明智自然(坂本城が落城した時に死亡)
六男・内治麻呂(喜多村保之、喜多村弥平兵衛)
不明・明智定頼
となっています。
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なお、明智光秀の子孫としては、下記の武将の名が見受けられます。
織田昌澄(おだ-まさずみ)の父は、近江・大溝城主の津田信澄ですが、母が明智光秀の4娘ですので、明智光秀の外孫にあたります。
大坂の陣で、豊臣秀頼に味方して大坂城に入りましたが、藤堂高虎の仲介にて助命されており、徳川秀忠の旗本となり存続しました。
細川忠隆(ほそかわ-ただたか)の父は、小倉藩主となった細川忠興で、母はご存知「細川ガラシャ」となります。
細川ガラシャ(明智玉)は、明智光秀の3娘ですので、のち熊本城に入って熊本藩主となった細川家は、明智光秀の血を継いでいます。
そのため、衆議院議員だった細川隆元さん、評論家の細川隆一郎さん、総理大臣も務めた細川護熙(ほそかわ-もりひろ)さん、ジャーナリストとして活躍する細川珠生さんなどは、明智光秀の子孫とも言えます。
ただし、江戸時代の細川家8代・細川治年は、男子がみな早く亡くなったために養子を迎え、ガラシャの血統は細川本家では絶えています。
しかし、総理大臣にもなった細川護煕さんの祖母は、細川忠利の兄である細川忠隆の末裔のため、少なくとも明智光秀の血が流れていると言えます。
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他には、幕末の英雄である坂本龍馬も、坂本城に由来すると言う事から、明智光秀の子孫ともされますが、可能性は低いです。
歌手の明智ハナエリカさんは、母はイタリア系メキシコ人で、明智滝朗さん、明智憲三郎さんも、可能性はありますが、系統不明のご子孫と言えるでしょう。
→明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト
→明智煕子(妻木煕子)とは
→坂本城・要所かつ豪壮華麗な明智光秀の居城~琵琶湖の浮城~
→小見の方 (おみのかた) 斎藤道三の正室になった明智家の女性
→明智光秀の家臣一覧表・明智一族・明智家臣団リスト
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