武田氏

真田昌幸~武田信玄を敬愛し「表裏比興の者」は死しても徳川家に恐怖を与えました。

上田城



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真田昌幸

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。

甲斐国の武田信玄の家臣となり
信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、
真田幸綱(幸隆)の三男です。
武田信玄武田勝頼の2代に仕え、
武田氏滅亡後に自立しました。
織田信長の軍門に降り、
滝川一益の与力となりましたが、
本能寺の変後に再び自立し、
近隣の北条氏や徳川氏、
上杉氏との折衝を経て、
豊臣政権下において所領を安堵されました。
上田合戦で2度にわたって
徳川軍を撃退したことで、
徳川家康を大いに恐れさせた逸話で
知られておりますが、
関ヶ原の戦いで西軍についたために
改易されました。

子に真田信之(上田藩初代藩主)、
真田信繁真田幸村)らがいます。

【出自】
天文16年(1547年)頃に、
真田幸綱(真田幸隆)の三男として
生まれたとされています。
生誕月日は不明です。
幼名は源五郎。

真田昌幸は三男であり、
同母兄に真田信綱真田昌輝がいたため、
生まれた時点では真田氏の家督相続の権利は
ありませんでした。

【武田信玄の時代】
天文22年(1553年)8月、
甲斐武田家への人質として
7歳で甲斐国へ下り、
武田晴信(武田信玄)の
奥近習衆に加わっています。
なお、「甲陽軍鑑
(以下『軍鑑』)によりますと、
この時の奥近習衆は真田昌幸の他に
金丸平八郎、曽根与一、
三枝勘解由、三枝新十郎、
曽根総次郎が挙げられています。

【武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ】
真田昌幸は永禄年間に
武田信玄の母系である
大井氏の支族である
武藤氏の養子となり、
武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、
その軍役は騎馬15騎、足軽30人とも
伝えられています。
なお、武藤氏は武藤三郎左衛門尉の時に
実子の武藤与次が早世したため、
真田昌幸を養子にとったとされています。

永禄7年(1564)頃に、
山手殿を妻に迎えています。
村松殿、真田信之、真田信繁らの母)
山手殿は公家・菊亭晴季の娘と
されていますが、
晴季の生年などから
否定的見方がなされており、
出自には諸説があるとのことです。

【第四次川中島の戦い】
初陣は[
「甲陽軍鑑」によりますと、
永禄4年(1561年)9月の
第四次川中島の戦いに、
足軽大将として
武田家奉行人にも加わったと
言われています。
ただし「軍鑑」以外の史料が無く、
真田昌幸が川中島に出陣したか
どうかの傍証はありません。
最も真田昌幸は15歳であり、
元服前後の年齢で
出陣していた可能性も
否定はできないとのことです。

永禄9年(1566年)春、
甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には
奥近習衆として武田信玄の配膳役を勤めました。
永禄10年(1567年)11月に
武田勝頼の嫡男である武田信勝
生まれた際には山県昌景馬場信春
内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に
武田信玄の使者として
高遠城の武田勝頼の下に出向いています。
真田昌幸以外の顔ぶれはいずれも
武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、
この頃の眞田昌幸は武藤氏を継いで
既に重臣クラスかそれに準ずる
地位にあったと見られています。
ただし出典が「軍鑑」のみで
傍証がありません。

【武田信玄の小田原攻め
永禄12年(1569年)10月6日、
北条氏康・氏政・氏照親子との
三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への
使番を務めました。
「軍鑑」によりますと
北条氏との戦いで
一番槍の高名を挙げたとされています。




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【武田信玄の駿河侵攻】
武田信玄は真田昌幸の父である
真田幸綱にも劣らぬ才能を
見抜いていたともいわれています。
「軍鑑」によりますと、
元亀元年(1570年)に武田軍が
伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、
北条氏政が援軍の指揮を執り
箱根を越えて三島に着陣し、
武田信玄は決戦を主張しました。
これに状況を見極めるべきではと
慎重論を唱えた馬場信春に対して、
「信玄の両眼の如き者たちを
物見に派遣しておる」と
武田信玄は答えたとのことです。
諸将が武田信玄の両目に比肩される武将は
誰なのかと訝しんでいると、
まもなく曽根昌世と真田昌幸が帰還して
報告をして、その両名が
両眼であることがわかったとのことです。
この話に出てくる昌世がそうであるように、
真田昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、
武田二十四将にも数えられる事があり、
父と兄弟3人が武田二十四将に
数えられるような家は、
この真田家だけであるのです。

【武田信玄の西上作戦】
元亀3年(1572年)10月から
武田信玄の西上作戦に参陣し、
12月の三方ヶ原の戦いにも参加しています。
この際に真田昌幸は浜松城に敗走した
徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に
反対したとされています。
「甲陽軍鑑」によれば、
真田昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、
足軽30人」の指揮を執って
出陣したとされています。
当時の真田昌幸の所領の場所や
規模は明らかではありませんが
、武田家の親族衆である
武田信玄の弟である
武田信実が真田昌幸とほぼ同じ
規模の兵を保有しており、
武田信実は397貫文を
知行としていたため、
真田昌幸も同等かそれより上くらいと
推測されているとのことです。
なお、この頃には養父の
武藤三郎左衛門尉は
戦死していたとされており、
真田昌幸がその遺領を
継いでいたと見られています。

なお、武田信玄の晩年には
武田氏の奉行人に列されており、
元亀3年(1572年)2月4日の
佐久郡岩村田の龍雲寺宛の
竜朱印状の奉者として
確認できるとのことです。

【武田勝頼の時代】
元亀4年(1573年)4月、
武田信玄が病死すると
家督を継いだ武田勝頼に仕えました。
天正2年(1574年)には
父・幸綱が死去しました。
この時、既に真田氏の家督は
長兄・真田信綱が継いでいました。
けれども天正3年(1575年)5月21日の
長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が
討死したため、真田昌幸は真田氏に復して
家督を相続しました。
これには武田家の重臣で
川中島の海津城主であった
高坂昌信の支援があったとされており、
武田勝頼も昌幸の復姓と
家督相続を認めたとされています。
なお、真田昌幸も長篠合戦には
参加してはいましたが、
武田勝頼旗本衆として
参加していたため、
戦死は免れたのでした。
武藤家の家督は
武藤一族の武藤常昭が
継承したと考えられており、
武藤領と真田領を併せて
相続したわけでは無かったようで、
所領に関しては一万五千貫ともいわれる
真田領のみの相続であったとのことです。




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家督相続後、真田昌幸は
真田領の仕置のために在国し、
あるいは武田勝頼への
甲府出仕も多かったとされ、
本領と甲斐を往復する事を
繰り返していたとのことです。
真田氏の本拠の展開は
戸石城を中心とした一帯を
掌握したことを第一の画期としており、
居館を核としてはいますが、
山城(詰の城)・寺院・市町などは
いずれも多元的で家臣の集住は
ほとんど見られないことから、
真田昌幸の支配領域では
兵農未分離のまま、
在地の中小領主層が
戦国期以来の郷村支配を続けており、
上田に移住するまで真田昌幸は、
小県郡と西上野に独自の領域支配を
展開していくことになるのでした。

天正6年(1578年)3月、
越後の上杉謙信死後に
御館の乱を経て甲越同盟が成立しますが、
この時の上杉景勝との交渉は
親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂
勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、
真田昌幸は蚊帳の外に置かれていました。
この同盟成立により、
天正7年(1579年)9月,
真田昌幸は武田勝頼の命令で北
条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻。
真田昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、
叔父の矢沢頼綱沼田城を攻めさせ、
一方で現在の利根郡みなかみ町にある
名胡桃城鈴木重則
小川城の小川可遊斎を誘降させて
両城を手に入れました。
そしてこれらを拠点にして
沼田城を攻撃しましたが、
北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退。
天正8年(1580年)閏3月から
沼田城攻撃を再開し、
金子泰清藤田信吉らを投降させて
5月に沼田城を開城させました。
この時、同時に利根郡みなかみ町にあった
猿ヶ京城も攻め落としました。
同年、武田信勝元服祝儀の名目で
喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許されました。
この時点では、武田勝頼から与えられた
私称となります。
これは、北条方の上野担当である
藤田(北条)氏邦が、
安房守を受領名としていたことへの
対抗であるとのことです

天正9年(1581年)には、
武田勝頼の命で新たに
韮崎へ築城された新府城のr
人夫動員を通達しています。
新府城築城に関しては真田昌幸は
作事奉行であったとする説もありますが、
真田昌幸は麾下の諸将に
人夫動員を通達しているに過ぎず、
作事奉行であったとする見方を
慎重視する説もあるとのことです。
同年、元沼田城主・沼田景義が
旧領奪回を図りましたが、
真田昌幸は家臣の金子泰清に命じて
沼田景義を討ち取っています。




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天正10年(1582年)3月、
織田信長・徳川家康連合軍による
甲州征伐が開始され本格的な
武田領国への侵攻が行われました。
お江戸期編纂の文書に拠れば、
このとき真田昌幸は武田勝頼に
甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に
逃亡するように進言し岩櫃城
迎える準備をしていました。
けれども武田勝頼は
郡内領主・小山田信茂の居城である
岩殿城を目指して落ち、
その結果途中で小山田信茂の裏切りに遭って
最期を遂げることになったと言われています。
このような武田家への忠誠を示す
逸話が知られおりますが、
一方で武田滅亡以前から
北条氏邦、徳川家康、
上杉景勝との接触を示す史料もあり、
北条氏邦からは北条への降伏をするよう
返信を受けていたのでした。

武田氏滅亡後、
天正10年(1582年)4月8日、
真田昌幸は織田信長から、
旧領のどの部分かは不明ですが安堵をされ、
織田政権に組み込まれ、
織田氏の重臣・滝川一益の
与力武将となっています。
また沼田城には滝川益重が入りました。
真田昌幸は次男の真田信繁を
人質として滝川一益に差し出しました。

天正壬午の乱
織田氏に従属してから僅か
3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に
本能寺の変で織田信長が横死しました。
甲斐・信濃の旧武田領は
この事変で騒然たる状態となり、
森長可、毛利秀頼、道家正栄ら織田信長から
旧武田領の統治を任されていた
織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、
甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた
河尻秀隆は殺害されました。
こうして無主となった旧武田領を巡り、
徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが
熾烈な争奪戦を
繰り広げることになったのでした。

真田昌幸もこの好機を見逃さず、
信濃小県郡や佐久郡における
旧武田家臣の取り込みを画策します。
織田信長の苛烈な仕置のために
武田家臣の多くは潜伏していましたが、
本能寺の変により彼らは
自由の身となったのでした。
しかし主家である武田家は
既に滅亡しており、
彼らは6月12日に
小県郡海野郷に鎮座する
白鳥明神の祭礼に事寄せて
神前で会合し、
酒を酌み交わしながら
将来について話し合ったとのことです。
真田昌幸はこの会合には
参加してはいませんが、
会合参加者の一部を
この時に既に調略しており、
この会合で調略していた一部が
真田昌幸を総大将に仰ぐ事を
表明すると他もそれに
続くようになったとのことです。
そして彼らの代表者が岩櫃城にいた
真田昌幸の下を訪れ、
真田昌幸は快諾して砥石城に移り、
彼らと主従の契りを結びました。
この2日前の6月10日には
真田領の四阿山白山神社の
宝蔵院に寺領を寄進し、
武田家臣時代の与力衆だった
吾妻衆の家臣団化を推し進めています。




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6月19日、
北条氏直が上野に侵攻し、
滝川一益を破ったという
神流川の戦いが起こりました。
この時、真田昌幸は滝川一益を
諏訪まで送り届けました。
真田昌幸は滝川一益がいなくなり
上野も無主になると、6月21日に
叔父の矢沢頼綱を送り込んで
沼田城を奪回し、
嫡男の真田信幸を岩櫃城に送って
上野方面の守備を固めました。

同時期、越後の上杉景勝も
北信に進軍し、6月24日に
長沼城に入りました。
これに対し、真田昌幸は
まず上杉景勝に臣従し、北条氏直へ。
7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、
上杉景勝と対峙しましたが決戦を避け、
徳川家康が侵攻した甲斐に向かいました。
一方、上杉景勝は新発田重家に対処する為に
越後に帰国します。
沼田城に戻った真田昌幸は
佐久郡において北条氏直に抵抗していた
春日城主・依田信蕃を介して
徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切ります。
依田信蕃と連合軍を形成して
小諸で軍事行動を行いますが、
依田信蕃と組むのは北条氏を裏切った
証として徳川家康から求められていたものでした。
北条(藤田)氏邦は沼田城を攻めましたが、
成功しませんでした。
これが契機となって、若神子で
徳川軍と対陣する北条氏直は
和睦の途を選択します。
けれども、北条氏との同盟を選択した
徳川家康は
北条氏直に和睦の条件として
上野国の沼田領を譲渡するという
条件を出したのでした。
真田昌幸は自力で獲得した
沼田割譲について代替地が
不明瞭だったことに反発し、
徳川・北条と敵対していた
越後の上杉景勝に臣従します。




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【徳川家康との対立】
天正11年(1583年)、
真田昌幸は上杉氏に対する
千曲川領域を抑える城が必要になり、
徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの
自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、
その周囲に当時流行の城下町も築きました。
また、同時期には北条氏と通じていた
一族である根津昌綱を懐柔、
近隣の屋代秀正、室賀満俊らを調略し、
丸子氏を滅ぼしています。

天正12年(1584年)3月に
小牧・長久手の戦いが起こります。
徳川家康は主力の指揮を執り
尾張国に向かい、
真田昌幸は越後の上杉景勝を
牽制するために信濃に残留しました。
真田昌幸は家康の注意がそれたのを見て、
吾妻衆に上野白井城を計略を以て
攻めさせ、沼田城周辺で
北条氏と小競り合いを
繰り返している間に、
知行宛行状を濫発して
沼田・吾妻の所領を改めて確保し、
さらに室賀正武を殺害し、
徳川を刺激しないため
室賀正武の妻子の命は助けて、
上杉に引渡しました。
この事件は真田による謀殺ではなく、
真田昌幸を暗殺しようとした
室賀を返討ちにした事件として
噂が広められたのでした。
こうして沼田・吾妻・小県を完全に
真田領として掌握したのでした。

徳川家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで
尾張から撤兵します。
そして北条氏直から
和議の条件の履行を迫られたため、
天正13年(1585年)4月、
甲府に軍を進めて真田昌幸に対し
沼田領を北条氏に引き渡すように
求めますが、真田昌幸は
相応の替地が宛がわれない限りは
引き渡しに応じないと拒否し、
徳川家康は浜松城に引き返しました。

真田昌幸は徳川家康との手切れを決断し、
徳川軍の侵攻に備えて
次男の真田信繁を人質にして
上杉景勝に従属しました。




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【第一次上田合戦】
閏8月、真田領の制圧を狙った
徳川家康と北条氏直は、
鳥居元忠大久保忠世平岩親吉
約7千の兵力を真田昌幸の居城・上田城に、
北条氏邦を沼田城に侵攻させました。
真田昌幸はわずか2千の兵力で
徳川軍に1300人もの
死傷者を出させるという
大勝をおさめたのでした。
この上田合戦を契機に真田氏は、
武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として
豊臣系大名の間で認知
されることになったのでした。
一方徳川家康は上田の敗戦を受けて、
北条氏との同盟強化に
乗り出さなければ
なりませんでした。
また、北条氏直は沼田攻めを手掛けるも、
落とせなかったのでした。

【豊臣政権時代】
天正13年(1585年)冬、
次男の真田信繁が上杉景勝の人質から、
盟主である豊臣秀吉の人質として
大坂に出仕し、真田昌幸は豊臣家に臣従しました。

天正14年(1586年)5月25日、
北条氏直に沼田城を攻撃されますが撃退。
11月4日、豊臣秀吉の命令で
真田昌幸は徳川家康の与力大名となりました。

天正15年(1587年)2月に上洛。
3月18日に真田昌幸は
小笠原貞慶とともに駿府で徳川家康と会見。
その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、
名実ともに豊臣家臣となりました。

天正17年(1589年)には
豊臣秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、
北条氏には利根川以東が割譲され
真田昌幸は代替地として
伊那郡箕輪領を得ます。
この頃、昌幸は在京していましたが、
11月には北条氏家臣の猪俣邦憲
名胡桃城を攻め、
これが惣無事令違反とみなされます。
この名胡桃城奪取事件の際、
真田昌幸から同城代に任命されていた
鈴木重則は昌幸に対して
責任を取る形で自害。
この名胡桃城奪取事件は
天正18年(1590年)の
小田原征伐の原因となるのでした。




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小田原征伐に際しては、
天正18年(1590年)1月8日、
豊臣秀吉から3か条の条目を
与えられています。
3月上旬には上杉景勝・前田利家
北陸の豊臣軍と共に
北条領の上野に攻め入り、
北条家重臣の大道寺政繁が守る
松井田城を攻めます。
松井田城攻略後は
上野における北条家の属城を次々と落とし、
北陸軍は上野・武蔵など関東北部の
北条属城を落としながら南下。
石田三成の指揮下で
大谷吉継らと忍城攻めに加わったと
伝えられ、浅野長政らと
持田口攻めを担当したものの、
甲斐姫らに撃退されたとされています。

北条家が降伏すると、
徳川家康は関東に移され、
関東の周囲には豊臣系大名が
配置されて徳川家康の牽制を担いました。
真田昌幸は秀吉から旧領を安堵され、
同じく家康牽制の一端を担っています。
なお安堵された領地の内、
沼田領は嫡子の真田信幸に与えられ、
真田信幸は家康配下の大名として
真田昌幸の上田領から独立しました。

文禄元年(1592年)、
文禄の役では肥前名護屋城に在陣しました。
が、渡海命令を与えられる事の無いまま、
徳川家康と共に
文禄2年(1593年)8月29日に
大坂に帰陣しました。
大坂に帰陣した後、
渡海しなかった代償として
真田昌幸らには豊臣秀吉の隠居城である
伏見城の普請役の負担を命じられました。
そのため真田昌幸は上京してその指揮を務め、
資材や労働力を負担しましたが、
この間に豊臣秀頼が生まれたため、
一応は完成していた伏見城の
更なる拡張工事を命じられて
普請に当たりました。

この軍役や普請の負担の功労により、
文禄3年(1594年)11月2日に
豊臣秀吉の推挙で
真田信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、
真田信繁に従五位下左衛門佐と
豊臣姓が与えられました。
なお、真田信繁はこの頃になると
真田昌幸の後継者としての地位を
固めつつあったとのことです。
また、同年4月には、
真田昌幸は自称だった
安房守に正式に任官されました。
(従五位下安房守)




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慶長2年(1597年)10月、
豊臣秀吉の命令で
下野宇都宮城主の
宇都宮国綱が改易されると、
その所領没収の処理を
浅野長政と共に担当しました。
時期不明ですが、
豊臣秀吉から羽柴の名字を
与えられたのであろう
「羽柴昌幸」の文書が残っているとのことです。

関ヶ原合戦】
慶長3年(1598年)8月18日、
豊臣秀吉が死去しました。
死後の豊臣政権においては
五大老筆頭の徳川家康が台頭し、
影響力を強めていきます。
真田昌幸は表向きは徳川家康に
従っていたようであり、
徳川家康が大坂城西の丸に移ると、
真田昌幸も他の諸大名に伴って
伏見から大坂に移る支度をしている旨の書状を
国許にいる真田信幸に向けて送っています。

慶長5年(1600年)7月、
徳川家康は出仕を拒否する
上杉景勝に討伐軍を起こして
関東へ下り、在京していた真田昌幸も
これに従っています。
徳川家康の留守中に
五奉行の石田三成が挙兵し、
諸大名に徳川家康弾劾の
13ヵ条の書状を送り
多数派工作を始めます。
真田昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で
書状を受け取ったと言われています。
この時、真田昌幸は
真田信幸・真田信繁と去就を
決めるため会議を開き、
真田昌幸は宇多氏を通じて
石田三成と姻戚にあった関係から
次男である真田信繁と共に西軍に、
真田信幸は正室の小松姫
本多忠勝の娘である事を理由に
東軍に与することとなり、
真田家存続のために父子訣別しました。
上田城へ引き返した真田昌幸は、
その途上で、真田信幸の居城である
沼田城を奪おうと画策し、
沼田の留守を預かっていた小松姫に、
「孫の顔が見たい」として開門を要求しましたが、
小松姫は、これを拒絶しました。
真田昌幸は、「さすが本多忠勝の娘」と笑って
沼田を通り過ぎたという逸話があります。




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【第二次上田合戦】
徳川家康の三男である
徳川秀忠が率いる約3万8千の部隊が
江戸を発して中山道を下り、
9月6日(10月12日)には
上田城攻略を開始し、真田昌幸は
2千の兵力で篭城して迎え撃ったのでした。
徳川秀忠はまず、真田信幸と
本多忠政を使者にして
真田昌幸の帰順を勧告しています。
けれども真田昌幸はこの交渉で
帰順すると思わせぶりな
態度を見せながら土壇場になって
態度を翻して抗戦の意思を示して
徳川秀忠を挑発。
秀忠軍を城攻めに集中させる手をとりました。
真田昌幸は真田信幸が上田の支城である
戸石城に攻めてくると、
真田信幸に功を挙げさせるためと
同族の流血を避けるため、
同城の守備を担当していた真田信繁に
城を放棄させて上田に撤退させました。

真田昌幸は徹底した籠城策を取り、
時には出撃して奇策を用いて
秀忠軍を散々に翻弄し、
徳川秀忠は城攻めに手を焼いて
9月9日に小諸に撤退しました。
この際の徳川軍の惨敗ぶりは
徳川方の史料にも
「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」
と伝えられています。
中山道制圧の任にあった秀忠軍は
8月29日付で徳川家康から上洛を命じられ、
上田攻略を諦めました。
この時、上洛を命じる徳川家康の使者は
利根川の増水で到着が遅れ、
秀忠軍は9月15日(10月21日)の
関ヶ原の戦い本戦に遅参となりました。

一方「真田家文書」によりますと、
従軍していた真田信幸に対して徳川秀忠は、
8月23日付の書状で真田昌幸の籠もる
上田城を攻略する予定を伝え、
小県郡に集結するように命じている上、
小山を出陣してからかなり
のんびりした行軍を重ねて
小諸には9月2日に着陣しているとのことです。

ただし第二次上田合戦の
大規模な合戦と秀忠軍大敗を裏付ける
当時の史料は無く、
家譜類に刈田を起因とする
小競り合いが記載されるのみです。
また森忠政宛秀忠文書から
秀忠が上洛の報を受けたのは
8日の上田で、その後に撤退したとのことです。

その後、関ヶ原での
石田三成敗戦の報が届いても
すぐには降伏せず、
海津城主である森忠政の
家臣である城代・井戸宇右衛門配下の
兵の守る葛尾城に対して
上田城から9月18日と23日の2度に渡って
真田信繁を出撃させて夜討ちと
朝駆けの攻撃を加えています。
けれどお西軍の敗北は明らかで
同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。

【配流】
関ヶ原の戦後処理において、
徳川家康より昌幸・信繁父子には
上田領没収と死罪が下されました。
真田昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めますが、
東軍に属した長男の真田信幸(後の信之)と
その舅である本多忠勝の
助命嘆願で助命され、
高野山への蟄居が決められました。
(「上田軍記」)。
信濃上田の真田領に関しては
真田信幸に与えられ、
真田信幸は沼田2万7千石、
上田3万8千石、加増3万石の合わせて
9万5千石を領する大名となり、
真田家の存続に尽くしました。




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昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に
上田城を発して高野山に向かいました。
真田昌幸の正室は上田に残留し、
次男の信繁とその妻子、
さらに池田長門・原出羽・高梨内記
小山田治左衛門・田口久左衛門・
窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・
河野清右衛門・青木半左衛門・飯嶋市之丞・
石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・
大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従いたました。
(「滋野世記」)
真田昌幸の去った上田城は
徳川方に接収され、
徳川家康の命令を受けた
諏訪頼水らによって破却。
なお真田信之(信幸)と
別れの対面をした際に、
恐ろしげな目からはらはらと涙を流して
「さてもさても口惜しきかな。
内府(家康)をこそ、
このようにしてやろうと思ったのに」
と無念の胸中を語ったと伝えられています。
(「真田御武功記」)。

【配所ライフ】
高野山での真田昌幸の配所は
1里ほど麓の細川という場所でした。
間もなく配所は九度山
(現・和歌山県九度山町)に代わります。
流人ではありますが真田昌幸・
信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、
家臣の屋敷も近くに造られるなど、
普通の流人よりは
かなり厚遇されていたようでした。
真田昌幸の生活費に関しては
国許の信之、関係の深かった蓮華定院
和歌山藩主の浅野幸長からの
援助で賄われていました。
しかし生活費に困窮し、国許の信之に
援助金を催促するため
10年余の間に
20余通の書状を出しています。
真田昌幸が上田を去った後も、
真田信之との関係が疎遠にならず、
親密な仲を維持していた事が窺えます。

【最期】
10年余り続いた流人生活は
真田昌幸の気力を萎えさせました。
晩年の3月25日付(年次不明)の
信之宛書状では
「此の一両年は年積もり候ゆえ、
気根くたびれ候(中略)、
ここもと永々の山居、
よろず御不自由御推察
なさらるるべく候」とあります。

また配流当初には
真田信之を通して
赦免運動を展開し、
慶長8年(1603年)3月15日付で
国許の信綱寺へ宛てた書状があり、
その内容から赦免されて
国許に帰還する希望を
持っていたことが伺えます。
また国許の家臣との関係も親密で、
家臣が真田昌幸を頼って
九度山に逃れてきた事もあるとのことです。




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最晩年の真田昌幸は病気がちでした。
真田信之宛の書状では
真田信之の病気平癒の祝言を
述べると共に自らも患っている
事を伝えています。
また書状では
「此の方別儀なく候、
御心安くべく候、但し此の一両年は
年積もり候故、気根草臥れ候、
万事此の方の儀察しあるべく候」とあり、
さらに「大草臥」と繰り返しており、
配流生活は年老いた真田昌幸を
心身ともに苦しめたのでした。

慶長16年(1611年)6月4日、
九度山で病死しました。
享年は65歳とも67歳ともされています。

【逸話・人となり】
<表裏比興の者>
「表裏比興の者」と言われていました。
これは天正14年(1586年)の
上杉景勝の上洛を
秀吉が労う内容の文書で、
同日付で豊臣家奉行の石田三成・増田長盛
景勝へ宛てている添書条に記されています。
「くわせもの」あるいは「老獪」と
いった意味で使われ、
武将としては褒め言葉でありました。
これは地方の小勢力に過ぎない真田昌幸が、
周囲の大勢力間を渡り歩きながら
勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と
場合によっては大勢力との
衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない
手強さ(武勇)を合わせて
評したものであるとのことです。
実際、昌幸を「比興の者」と評したと
目される三成は、真田家と縁を結んでいます。

<知略・統率力>
真田昌幸は現代の歴史小説において
「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が
非常に根強いです。
この従来の人物像の基礎に
なっているのは江戸時代中期の
享保16年(1731年)に
成立した松代藩士・竹内軌定の
「真武内伝」です。
そのため、確実な一次史料の存在が乏しく、
昌幸の人物像や個性に関しては
不明な点も少なくないとのことです。
真田昌幸の策略は常に少数の味方で
「真武内伝」では真田昌幸は
策略において常に楠木正成
手本にしていたとされています。
また策略だけではなく、
家臣や領民を糾合して
大敵に当たった真田昌幸の統率力は
高く評価されています。

<武田信玄に対する忠義・敬愛>
真田昌幸は最初の主君である
武田信玄を生涯において敬愛し、
絶対の忠誠を誓っていました。
天正13年(1585年)12月に
真田昌幸は武田信玄の墓所を
自領である真田郷内に
再興しようとしました。
また「真武内伝」では真田昌幸は
武田信玄に幼少期から仕え、
武田信玄全盛期の軍略や
外交を見て模範にしていたと
されています。
同書によりますと、
秀吉と昌幸が碁を打っていた際、
秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」
と評したとか。
それに対して昌幸は
「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、
合戦に手を取る事なくして
勝ちを取ったもので、
敵に押しつけをした事は一度もない」
と答えたと伝わっているとのことです。




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<豊臣秀吉に対する恩顧>
昌幸は大名となる過程で
秀吉の支援を受けていたため、
秀吉に対して一定の恩顧心が
あったとされています。

<筆まめ>
昌幸は非常に筆まめだったとのことです。
大名時代から信之、家臣の河原氏などに
対する書状が確認され、流人時代には
信之や近臣に頻繁に書状を
送っていることが確認されています。
流人時代には彼らから
生活の援助を受けており
答礼を記したものもありますが、
書状の中では旧主として
振る舞っているようにも見られ、
昌幸の芯の強さが窺えるとのことです。
一方で昌幸は我が子を愛しており、
死去する1か月前には
信之に何としても会いたいという
気持ちを吐露する書状を送っていました。

<関ヶ原>
徳川秀忠が西軍についた
真田昌幸の篭る上田城に
前進を阻まれていた時、
秀忠は冠が岳にいる先陣の石川玄蕃、
日根野徳太郎に連絡する必要に迫られ、
島田兵四郎という者を
伝令として出したとか。
島田兵四郎は地理が
よくわからなかったうえ、
上田城を避けて迂回していたのでは
時間がかかりすぎると思い、
なんと上田城の大手門前に堂々と
馬を走らせ、城の番兵に向かって
「私は江戸中納言(=秀忠)の家来の
島田兵四郎という者。君命を帯びて、
我が先陣の冠が岳まで
連絡にいくところです。
急ぎますので、どうか城内を通してくだされ」
と叫んだとのこと。
味方に連絡するために、
現在交戦中の敵城を通してくれ、
というのだから、常識で考えると
とんでもないないことです。
番兵たちもあまりのことに
仰天してしまい、真田昌幸に報告すると、
「なんと肝っ玉の太い武士だろう。
通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。
門を開けてやれ」と門を開けるように指示。
「かたじけない」と城内を駆け抜け
裏門を抜ける際、
島田兵四郎はちゃっかりと
「帰りももう一度来ますので、
また通してくだされ」と言ったとか。
その言葉通り、再び島田兵四郎が帰りに
城に立ち寄った時、真田昌幸はいたく感服し、
島田兵四郎に会い、
「そなたは城内を通過したので、
我が城内の様子を見ただろう。
しかし様々な備えはあれど、
それは城の本当の守りではない。
真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ」と、
自ら直々に案内して城内を
詳しく見せてやり、その後門を開けて
帰してやったという逸話があるそうです。

【墓所】
真田昌幸の葬儀に関しては不明です。
死後、遺体は九度山に付き従った
河野清右衛門らによって火葬にされ、
慶長17年(1612年)8月に
分骨を上田に運んだといわれています。
墓所は長野市松代町松代の
真田山長国寺で、
上田(長野県上田市)の
真田家廟所である真田山長谷寺に
納骨された経緯が記されているとのことです。
また九度山(和歌山県伊都郡九度山町)の
真田庵にも法塔が造立され
昌幸墓所とされており、
後に尼寺である佉(人偏に「去」)
羅陀山善名称院が開かれています。
別称の真田庵というのは、
大安が建立した善名称院の事で、
いつの頃からか、
後世に真田庵と
呼ばれるようになったとのことです。




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【徳川家を恐れさせた存在】
真田昌幸の死後、真田信之はその葬儀について、
徳川家康の側近である本多正信に尋ねました。
それに対して本多正信からは
「昌幸は重罪人であるから
幕府の意向を確かめてから
対応するように」と忠告されたとのことです。
亡くなっても、真田昌幸は
容易に許されなかったのでした。

徳川家康は大坂の陣に先立ち、
「真田が大坂城に入城した」
との知らせを受けると、
「親の方?子の方?」
と訊ねたと言われています。
これは当代随一の戦術家である
真田昌幸の病死を徳川家康を始め
当時の武将達が疑っていたことを
示唆しているとのことです。
またその時、徳川家康の手は
震えていたと伝えられ、
徳川家康がそれだけ
真田昌幸に恐怖していたとされています。
実際は真田昌幸ではなく、
当時は無名の真田信繁と知って
安堵したとも伝わっています。

【真田家の家臣たち】
真田昌幸期の真田家家臣団は
矢沢氏や常田氏などの一族衆や
譜代層を中核としていますが、
武田氏滅亡後の旧領国再編成や
豊臣大名化の過程で
真田氏の領主制が拡大したことにより、
徳川家・上杉家とともに
武田旧臣の受け皿の一つとなったほか、
吾妻領や沼田領支配において
寄騎衆となっていた吾妻衆や沼田衆、
小県領支配において
帰属した領主層などが
外様衆として加わっています。

【印象的な「真田昌幸」役】
ドラマの中での
「真田昌幸」といえば
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」で
草刈正雄さんが演じられたことが
記憶に新しいかと思います。
私も全話リアルタイムで欠かさず視聴していました。
イケオジでお茶目で飄々と抜け目のない
けど憎めない愛され「昌幸パッパ」でしたね。
で、その「真田丸」での草刈さんは
時にある方の面影を宿していました。
それは1985年のNHK新大型時代劇
真田太平記」で「真田昌幸」役を
演じられた丹波哲郎さんです。
私は当時高校生でしたが、
リアルタイムで全話欠かさず
視聴していました。
「丹波哲郎」≒「真田昌幸」でした。
抜け目がなく飄々としていながら
虎視眈々と機会を狙い、策略・知略を
張り巡らし、局面で圧倒的な存在感を見せつけ
「草の者」との関係は
精神的に対等で現代でも
「理想の上司」だなと
当時高校生の自分でも
思ったものです。
そんな「真田昌幸」ですが、
家族を想い、そして好きになった女性を
とことん愛します。
当時だから数人いるのは
仕方がないのですが
それでも惚れっぽくて好きな女性の前では
とことんお茶目で可愛らしい。




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ドラマの中で晩年、九度山で
小山明子さん演じる「山手殿」との
シーンがあるのですがこれがまた良かった。
10代の女子高校生でも
グッと心に刺さりました。
で、このドラマで次男の真田信繁、
真田幸村の役名でしたが、
幸村を演じていたのが
「草刈正雄」さんでしたね。
「真田丸」初回放送は感無量でした。

この「真田太平記」。
若くして他界された2人のアイドル、
「岡田有希子」さん
「堀江しのぶ」さんが出演されていました。
再放送や再々放送ではいろいろな意味で
これまた涙が出ていました・・・。

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「どうする家康」では
佐藤浩市(さとう こういち)さんが
演じられます。

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