【山県(飯富)昌景】
山県 昌景/山縣 昌景(やまがた まさかげ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての
日本の武将です。
甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。
後代には武田四天王の一人に数えられています。
【生涯】
武田家の譜代家老である
飯富虎昌の弟とされていますが、
甥であるとも言われています。
戦国時代の飯富氏の一族で
は武田信虎家臣である
飯富道悦の子息とみられている「源四郎」が
永正12年(1515年)10月17日に
西郡の国人・大井信達との合戦で死去しています。
この「源四郎」は山県昌景の
仮名と一致するため、
「源四郎」は虎昌・昌景の父親に
あたると考えられています。
「甲陽軍鑑」によりますと、
山県昌景は、はじめ武田信玄の近習として仕え、
続いて使番となっています。
「甲陽軍鑑」では晴信期の
信濃侵攻における伊奈攻めにおいて
初陣を果たし、神之峰城攻めで
一番乗りの功名を立てたとし、
天文21年(1552年)、
信濃攻めの功績により
騎馬150持の侍大将に抜擢されます。
その後も飯富虎昌に勝るとも劣らない
武者振りを発揮し、
「源四郎の赴くところ敵なし」
とまで言われたとされています。
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【初見史料】
確実な初見史料は弘治2年(1556年)8月2日で、
山県昌景は飯富源四郎として
水科修理亮に対し与えられた
信濃善光寺との往来に関する
諸役免許の朱印状奏者を務めています。
【300騎持】
永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗ります。
その後も順調に戦功を挙げて、
譜代家老衆に列せられて
300騎持の大将となったということです。
永禄7年(1564年)7月には
飛騨国に侵入し、江馬氏、三木氏を降しています。
(「江馬家後鑑錄」)
【武田義信事件】
永禄8年(1565年)10月、
武田信玄の嫡男である武田義信と
彼の傅役だった飯富虎昌が謀反を起こし、
同15日に飯富虎昌は成敗されたということです。
(義信事件、高野山成慶院「甲斐国過去帳」)。
「甲陽軍鑑」では、山県昌景は血族である
飯富虎昌が関与している事を承知の上で
これを武田信玄に訴えたという逸話を記しています。
【赤備えと山県姓】
この功績により飯富虎昌の
赤備え部隊を引き継ぐとともに、
飯富の姓から武田信玄の父である
武田信虎の代に断絶していた
山県(山縣)氏の名跡を与えられて
山県昌景と名を改めたといわれ、
永禄9年8月時点での改姓が確認されています。
山県昌景は原昌胤ともに
武田家の政治職である
「両職」を務めたとされていますが、
文書上からは確認はされてはいません。
【側近として軍事・外交・実務と活躍】
その後も西上野侵攻における箕輪城攻略戦、
駿河今川領国への侵攻、
甲相同盟の破綻後の小田原北条氏の戦いなどに
参加したとされていますが、
文書上では主に武田信玄側近として
諸役免許や参陣命令、
寺社支配など武田氏朱印状奏者としての
活動が確認されるほか、
美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、
三河国徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏、
室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、
横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めています。
永禄12年(1569年)には
駿河江尻城代に任じられています。
【遠江・三河侵攻】
元亀2年(1571年)に武田氏は
大規模な遠江・三河侵攻を行い、
山県昌景は山家三方衆ら
奥三河の国衆を服属させ、
抵抗した菅沼定盈に対しては
同年4月28日に居城・大野田城を押し潰し、
菅沼定盈を退散させ、
さらに吉田城を攻囲したとされています。
近年はこの元亀2年の侵攻は根拠となる
文書群の年代比定が天正3年に下り、
一連の経緯は長篠の戦いの
前提である可能性が指摘されています。
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【三河侵攻・三方ヶ原の戦い】
「当代記」によりますと、
元亀3年(1572年)10月、
武田信玄が「西上作戦」を開始すると、
秋山虎繁とともに別働隊を率いて
信濃から三河に侵攻したということです。
武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏など
奥三河国衆は山県の指揮下に
組み込まれていたため、
これらに先導させて三河東部の長篠城経由で
浜松方面へ進軍を開始しました。
三河八名郡の柿本城、更に越国して
遠江の井平城も落とし南進し、
浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で
信玄本隊に合流しました。
同年12月22日には武田勢と
三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生。
「甲陽軍鑑」では山県勢が崩れかかったところを
武田勝頼が助けたとする逸話を記しています。
【武田信玄の死去】
元亀4年(1573年)4月12日、
武田信玄は信濃伊那郡駒場において死去しました。
「甲陽軍鑑」では、武田信玄は
「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、
「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託され、
馬場信春とともに重鎮の筆頭として
武田信玄の嫡子となった武田勝頼を
補佐することになりました。
しかし、武田勝頼との折り合いは悪く、
疎まれたということです。
【長篠城の後詰の指揮】
武田勝頼の家督相続後、
天正元年(1573年)8月21日には
三河長篠城(愛知県新城市)への
後詰の指揮を命じられています。
【東美濃侵攻・明智城】
明知年譜によりますと、
天正2年(1574年)、
武田勝頼の東美濃侵攻における
明智城をめぐる戰いでは、
救援に来た織田信長本隊3万人に対し
山県昌景は6000人の別働隊を任され、
山岳地帯の地形を利用して撃退しました。
戦闘では退却する織田信長軍を追撃して
4里退かせ、織田信長の周囲を固めた
16騎のうち9騎が打ち取られて
7騎が逃げ出すなど、一時は
織田信長を瀬戸際まで追い詰める
場面もあったということです。
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【長篠の戦い】
「甲陽軍鑑」「当代記」によりますと、
天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いでは山県昌景や内藤昌秀、
馬場信春、原昌胤らが撤退を進言しましたが、
武田勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)・
跡部勝資が決戦を主張し、
武田勝頼は決戦を決断したということです。
そして5月21日の設楽原決戦では、
「甲陽軍鑑」や「長篠合戦図屏風」によりますと、
内藤、原らと武田軍左翼の中核を担ったということです。
「甲陽軍鑑」では、山県昌景は300騎を率い、
駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、
相木依田氏、大熊氏、三河の田峯菅沼氏、
長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、
孕石氏らの国衆を相備にしていたということです。
【長篠の戦いでの戦死】
「信長公記」「松平記」「大須賀記」によりますと、
武田勢の攻勢は九ツ始め(午前11時)に始まり、
左翼の山県勢が徳川軍を襲撃したということです。
「信長公記」では山県勢は「一番」に
攻撃を仕掛けましたが敗退し、
「信長公記」「松平記」では、
武田勢は未刻(午後2時頃)には退却し、
山県、真田信綱ら武田勢の武将は
追撃戦の最中に戦死したということです。
山県昌景は享年47歳でした。
高野山成慶院「甲斐国供養帳」には
山県昌景の戦死時刻を「未ノ刻」
と記されているとのことです。
長篠合戦屏風に、
戦死した山県昌景の首級を
家臣の志村又左衛門が
敵に奪われない様持ち去る
描写があるとのことです。
【武田家重臣の筆頭格】
「信長公記」の長篠の戦いの部分で、
討ち取った首の表の筆頭に
上げられているのは、
山県昌景の名前です。
それほど彼の名は敵方にも
広く知れ渡っており、
武田家重臣の筆頭格であったのでした。
武田四天王、武田二十四将の一人に
数えられています。
【赤備え】
山県隊は部隊の軍装を
赤一色に統一し編成したことから、
「赤備え」として
諸大名から畏怖されていました。
赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら
震え上がったと言われています。
山県隊があまりにも強すぎたことから
赤備えは最強部隊の代名詞となり
諸大名に大きな影響を与えたのでした。
なお、山県昌景の死後、
徳川家康の重臣である井伊直政や
真田昌幸の次男である
真田信繁(真田幸村)らも
赤備えを採用しているのを見ても、
その強さがいかに畏敬されていたかが伺えます。
【風貌は小柄で身軽で細見】
武勇に優れる山県昌景ではありましたが、
風采は冴えなかったとされています。
身長は130cmから140cmの小柄で、
体重も軽く、痩身で兎唇の醜男
だったと言われています。
けれども「校合雑記」では、
山県昌景のことを以下の様に記されているとのことです。
袴腰と頭との間、僅か四、五寸ならでは
無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、
立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。
信玄家臣の中でも股肱の大将かな。
戦にては信玄の小男出たりと
恐怖しける程の侍大将に有りける也
— 校合雑記
【飯富虎昌の弟?甥?】
飯富虎昌(飯富兵部)の「弟」
とされることが多いですが、
年齢差も大きいことから
「甥」とする説もあります。
この説の根拠としては、
安芸国の戦国大名である
毛利氏に伝わる萩藩閥閲録、
「萩藩諸家系譜」等々の記述となります。
同書によりますと、山県昌景の父は
安芸武田氏に使えた安芸国の国人で、
壬生城の城主であった山県重秋とされ、
兄に山県重房がいるとのことです。
それによりますと、山県昌景の母は
飯富虎昌(飯富兵部)の姉とあり、
11歳の頃、出奔した山県昌景が
叔父を頼って甲斐国に赴いたとあります。
最も、確実な山県昌景関係史料からは
山県昌景が西国出身であることは
確認されてはいないとのことです。
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【娘婿たち】
娘婿には足軽大将の三枝昌貞がおり、
三枝昌貞は山県姓を名乗っていることが
文書上からも確認されています。
山県軍団の相備衆を担っていた
相木市兵衛や、
江戸幕府の直参旗本となった
横田尹松も娘婿となります。
【逸話】
<1>
川中島の戦いの際、上杉方の猛将、
鬼小島弥太郎と一騎討ちを行った逸話があります。
又、その最中、武田信玄の嫡男の
武田義信が窮地に陥るのを見て、
山県昌景は弥太郎に
「主君の御曹司の窮地を救いたいために、
勝負を預けたい」と願い出たところ、
弥太郎が快諾したとのことです。
山県昌景は弥太郎を
「花も実もある勇士」
と称賛したということです。
(甲越信戦録)。
<2>
武田信玄の異母弟である
一条信龍が山県昌景に対して、
「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、
「訓練も重要ですが、それだけではなく、
一番大切なのは戦に臨む心がけであり、
いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で
慎重に策を練り、勝てると思っても
確信しない限り戦わないように
しているからです」と答えたということです。
(翁物語)。
<3>
飛騨攻めをした際、
疲弊で士気が下がっていた
軍勢の前に現れた一匹の猿に
導かれるように温泉に入って
疲労回復したという伝説があり、
これが平湯温泉開湯とされています。
【現代の子孫】
現在、信継の子孫が山梨市で
「山県館」という旅館を経営しています。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
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演じられます。
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