城跡

喜多見城及び喜多見陣屋跡~23区に存在した唯一の藩、須賀神社や慶元寺のある辺りがお城の主な推定地です。

慶元寺(喜多見城・喜多見陣屋跡)



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【喜多見城(喜多見陣屋跡)】

喜多見城(きたみじょう)は、
京都世田谷区喜多見にあった城址です。
都市開発と共に現在では
遺構は失われており、慶元寺にその一角が見られます。
喜多見城(喜多見陣屋)は、
元禄2年(1689年)2月に
改易によりお家取りつぶしにより
消滅してしまいますが、
現在の東京23区内に
唯一置かれた喜多見藩の藩庁です。

慶元寺 境内

【喜多見陣屋】
喜多見陣屋は喜多見氏によって築かれた陣屋で、
喜多見藩の藩庁でした。
喜多見氏はもともと江戸氏を名乗っており、
江戸城を扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に奪われると、
この地に移っています。
その後は世田谷城の吉良氏や
小田原北条氏に従っていましたが、
小田原北条氏滅亡後は
徳川家康の家臣となりました。

【喜多見氏に】
徳川家康の関東入封の際に
喜多見氏と改めたようです。
喜多見重政のときに喜多見藩を立藩し、
喜多見城跡に陣屋を置きましたが、
元禄2年(1689年)に
分家筋の喜多見重治が
浅岡直国と刃傷事件を起こしたために
改易、廃藩となりました。
現在は宅地化のために遺構はありませんが、
氷川神社や、喜多見氏の菩提寺である慶元寺、
須賀神社あたりが陣屋跡と推測されています。
なお喜多見藩は東京23区内に存在した唯一の藩でした。

<交通アクセス>
(電車)
小田急電鉄小田原線「成城学園前」駅から
タクシーで12分程度。

(クルマ)
首都高速3号渋谷線「用賀IC」から15分程度。

【喜多見須賀神社】
御蔡神は、素戔嗚命と、菅原道真公です。
土地の人は天王様(牛頭天王)と呼んで
病気平癒の神様として崇めていました。
またすぐ近くには第六天塚古墳があります。
この古墳は中世に第六天を
祀っていたとされており、
この古墳と喜多見須賀神社の関係が
深かったのでないかと思われます。
この神社は規模こそは大きくありませんが
名木百選に選定された見事な大椋木が目印です。

<喜多見須賀神社>
喜多見須賀神社

<大椋木>
喜多見須賀神社大椋木

<第六天塚古墳>
第六天塚古墳

<喜多見須賀神社の勧請>
喜多見須賀神社は、
承応年間(1652年~1654年)に
喜多見久大夫重勝が
喜多見館内の庭園に勧請したといい、
須賀神社の湯花神事は
世田谷区指定無形民俗文化財となっています。




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<須賀神社の湯花神事>
(世田谷区指定無形民俗文化財)
近郊では「天王様」とよばれ親しまれています。
湯花神事(湯立)は、
例大祭の8月2日に執り行われます。
社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、
笹の葉で湯を周りに振りかける行事です。
この湯がかかると、
一年間病気をしないといわれ、
今日も広く信仰を集めているとのことです。
湯花神事は浄め祓いの行事になっていますが、
湯立によって占いや託宣を行うのが
本来の姿であり、神意を問うことであったのでした。
素朴で普遍的な神事ですが、
世田谷区では唯一となり、
都内でも数少ない行事となったとのことです。
(世田谷区教育委員会掲示より)

<所在地>
〒157-0067 東京都世田谷区喜多見4丁目3

【慶元寺】
慶元寺(けいげんじ)は、
東京都世田谷区喜多見四丁目にある浄土宗の寺院です。

【慶元寺の概要】
創建は平安時代で江戸に因んで
名乗った江戸氏によって
現在の皇居周辺に造られた寺院でした。
江戸氏が室町時代に
現在の喜多見の地に転居したのを契機に
寺も移転しました。
江戸時代の寛永13年(1636年)には
徳川三代将軍徳川家光から
朱印状を賜り、格式ある寺院となりました。

現存する本堂は1716年の建築で、
世田谷区にある寺院建築物では
最古であると言われています。

慶元寺 本堂及び境内

長い杉の参道を進んで行くと、
山門の手前に江戸氏の2代目、
江戸太郎重長公の銅像が設置されています。
江戸重長は1186年に
慶元寺の前身である東福寺を
江戸の紅葉山に開山した人です。
昭和60年(1985年)11月3日に
慶元寺の開山800年を顕彰して
銅像が建てられました。

慶元寺 長い杉の参道

【歴史】
文治2年(1186年)に
江戸太郎重長により
江戸城(現:皇居)付近にて創建されました。
当初は岩戸山大沢院東福寺といい、
天台宗の寺院でありました。

武蔵平一揆の敗退などにより、
江戸氏は没落していき、
太田道灌に江戸城を明け渡し、
支配拠点を喜多見に移転します。
それに伴い当寺院も
応仁2年(1468年)に喜多見の地に移転します。
天文19年(1540年)に
真蓮社空誉上人により、
浄土宗に改宗されました。
寺院名も永劫山華林院慶元寺となりました。

江戸氏は江戸時代には喜多見氏と改姓して
徳川幕府に仕えました。
そして、喜多見勝忠により
寺は文禄2年(1593年)に再建されました。
その後、寛永13年(1636年)11月9日、
徳川家光より寺領10石の朱印状を受け
格式ある寺院となりました
以降元禄6年(1693年)に
お家取りつぶしになるまで
喜多見家の菩提寺として守られてきました。

宝永年間に火災にあい、
寺宝を失いましたが、
1716年に現存する本堂が完成しました。

現在当寺院には江戸氏(後の喜多見氏)
の歴代の墓があります。
史跡となっている墓所には、
中央の奥に江戸氏初代江戸四郎重継
(文治元年10月23日没)、
二代江戸太郎重長
(嘉禄元年8月12日没)の五輪塔があり、
そして両側に歴代の墓が並んでいます。

江戸氏・喜多見氏歴代の墓

江戸時代に造られた山門や鐘楼堂、
さらには喜多見古墳群中の
慶元寺三号墳から六号墳までの古墳があります。

現在では隣接して当寺院が経営する
慶元寺幼稚園があります。

行事としては、例年ですと
春には釈迦の誕生を祝う花まつり、
夏には御霊まつり、
秋には十夜法会が行われます。

<施設>
◆本堂
◆薬師堂
◆三重塔
慶元寺 三重塔

◆江戸氏累代の墓
◆徳川3代将軍家光以下家茂まで9通の朱印状
◆観経曼荼羅像・涅槃像・閻魔像
◆喜多見若狭守座像台座
◆江戸(後喜多見〉喜多見氏系図
◆慶元寺由緒書
◆江戸太郎重長追善供養のための五輪塔




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【交通アクセス】
小田急小田原線「喜多見」駅より徒歩約20分。

拝観は日中の時間帯のみ無料。

<駐車施設>
あるらしいですが、周辺の道路が狭いため、
須賀神社手前のコインパーキングに停めました。

【所在地】
〒157-0067 東京都世田谷区喜多見4丁目17−1

所要時間:30分~
(喜多見須賀神社~第六天塚古墳~慶元寺)

江戸太郎重長と武蔵江戸氏について~武蔵国の武家で秩父氏一族であり所領のあった場所が東京の地名に今も残っています

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江戸城~武蔵国江戸の最初の館は江戸氏、太田道灌が築城しやがて徳川家康が入城し開府しました。

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