【摂津晴門】
摂津 晴門(せっつ はるかど)は、
戦国時代の武士です。
足利将軍家の家臣で政所執事でした。
【政所執事とは?】
なお、政所執事とは、
幕府の財政と領地・民事に関わる訴訟を
司る役所で執事はその長官となります。
頭人とも呼ばれています。
佐々木氏、二階堂氏、京極氏らが
任じられましたが、
天授5年/康暦元年(1379年)の
伊勢貞継の任命以後は
伊勢氏の世襲となっていました。
【出自】
摂津氏は鎌倉幕府の時代からその崩壊後、
さらに南北朝時代を経て室町幕府にも
参画していた中原氏の一族です。
元は摂津守に叙任されていたことから
姓を摂津へと改めています。
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【足利義輝・義昭に仕える】
摂津元親(後に元造)の子として誕生しました。
足利幕府第12代将軍である足利義晴より
偏諱を受け晴直(はるなお)、のち晴門を名乗りました。
足利義晴の子である室町幕府第13代将軍の足利義輝と
15代将軍の足利義昭の兄弟に家臣として仕えました。
足利義晴の時代である享禄元年(1528年)に
従五位下中務大輔に任ぜられています。
【父の地位を受け継ぐ】
摂津元造の養女である春日局(日野晴光室)は
13代将軍である足利義輝の乳母を務め、
摂津晴門足利は義輝にとっては
義理の伯父にあたっていました。
父の摂津元造は足利義晴の死去時に出家。
(直前には異例の従三位に叙せられる)
其の後も
官途奉行・地方頭人・神宮方頭人を務めて
摂津晴門がこれを補佐していましたが、
永禄5年(1562年)頃に摂津元造が死去。
これらの地位を継いだのでした。
【敵対していた伊勢貞孝の職に就く】
永禄7年(1564年)には敵対していた
政所執事・伊勢貞孝に代わって、
新たな政所執事として起用されました。
政所執事は長く伊勢氏が独占していた職で、
足利義輝に近く、
官途奉行や地方頭人・神宮方頭人を歴任して
三好氏や京都の要人との人脈を持っていた
摂津晴門がその代わりに相応しいと
考えられたとみられています。
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【永禄の乱で一転す】
けれども、その翌年には永禄の変が起こり、
二条御所にて足利義輝以下
数十名の家臣が殺害されました。
また、この永禄の変で嫡子である
13歳の糸千代丸も死亡しています。
永禄の変後も摂津氏が世襲していた
官途奉行などの地位は
安堵されていたとみられていましたが、
三好氏らが推す次期将軍候補であった
足利義栄が伊勢貞為(伊勢貞孝の孫)の
出仕を認めた事に反発し、
永禄9年(1566年)5月以降、
京都を離れたのでした。
【足利義昭に従う】
永禄11年(1568年)2月にあった
足利義栄への将軍宣下に際しては出席を拒みました。
同月に行われた足利義輝の弟である
足利義昭の元服の奉行を務めていることから、
この時には足利義昭に従っていたとみられます。
【政所執事として】
永禄11年(1568年)10月には、
織田信長と浅井長政の上洛軍に警護されて
上洛した足利義昭が将軍に就任しました。
兄であった足利義輝と同じように、
足利義昭も再び摂津晴門を
政所執事として起用します。
その後、元亀2年(1571年)1月まで
活動の記録があるとのことです。
【怒りを買い、逼塞す】
同年7月に神宮方頭人を兼ねていた
摂津晴門が藤波康忠に相談なく
伊勢神宮の禰宜職に関する
武家執奏を行ったとして
足利義昭の怒りを買って
逼塞(ひっそく)を命じられています。
同年11月には伊勢貞興(貞為の弟)が
政所執事に任じられています。
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【お務めの最後の記録】
翌年の元亀3年(1572年)、
「お湯殿の上の日記」
(元亀3年8月6日条)に
よりますと、
足利義昭から
朝廷への使者を務めていたことが
確認されているとのことです。
それが記録上の最後の登場となり、
間もなく死去したかあるいは
引退したとみられています。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
片岡鶴太郎(かたおかつるたろう)さんが
演じられます。
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