【海老ケ島城】
海老ケ島城は茨城県筑西市松原にある平城です。
松原集落の周囲は
現在でも田地が取り囲んでおり、
戦国期も深田で守られた
水城的な防御体制だったと
考えられています。
【縄張形態】
平山城
【築城主】
結城成朝
【築城年】
寛正2年(1461年)
【廃城年】
慶長7年(1602年)か
【主な城主】
結城氏
【遺構】
土塁、堀
【城の築城】
海老ケ島城は、
結城成朝の子である
海老原輝明の居城として
知られています。
最初の築城は、1461年とされ、
結城成朝が築いたとのことです。
この結城成朝)は、
下総・結城氏13代の当主です。
【築城の経緯】
しかし、その結城家は、
1441年に結城合戦(ゆうきかっせん)で
室町幕府側に敗北すると
没落していきました。
その後、成長した結城成朝は、
鎌倉公方・足利成氏の助けを受けて
復活を果たし、海老ヶ島城も
築いたと考えられています。
しかし、結城成朝は、
鎌倉公方から室町幕府に
臣従するようになったため、
多賀谷朝経によって1463年に
暗殺されました。
享年は24歳という若さでした。
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【10歳の城主・海老原氏】
1467年には、
結城成朝の子とされる
秀千代(10歳)が
海老ヶ島城主となって、
海老原輝朝(海老原輝明)と称しました。
その後、海老原氏は、
海老原輝朝、海老原俊朝、
海老原俊元(海老原俊之)と続きます。
【周囲の状況】
この城は、結城本領から離れ、
その宿老の下館の水谷氏、
下妻の多賀谷氏の外側に位置し、
桜川をはさんで
筑波山麓の小田・真壁両氏と
対陣する状況下にありました。
結城方と小田方との境界的位置に
出城的存在として、
結城勢の出撃拠点として
多数の軍兵が駐屯できるような
面積をもって形成されたように
考えられています。
【宍戸通綱に攻略される】
1546年、常陸・小田城の
小田氏に味方した
宍戸通綱(宍戸四郎通綱)が攻めてきます。
なお宍戸氏は八田知家を
祖としており小田氏と同族です。
板橋城主の月岡播磨守や
牛久城主の岡見治部太夫の
支援を受けましたが、
天文15年(1546年)に落城し、
一族は姻族の岡見氏のもとに
逃れたということです。
こうして海老原氏は滅びました。
その際、海老ヶ島城には
小田家の平塚長信が入ったとのことです。
【結城氏と小田氏の争奪戦】
【海老ヶ島城の戦い】
1556年、
結城政勝は北条氏康などの
援軍を得ると、
常陸・小田城の小田氏治を攻めました。
このとき、すぐ南にある山王堂の戦いで、
小田氏治は敗れると土浦城へ撤退しています。
こうして海老ヶ島城などは
結城氏の支配地と変わりましたが、
同年の間に小田氏治は小田城に復帰し、
更には海老ヶ島城も回復して、
再び平塚長信が海老ヶ島城主となりました。
【結城氏の領有】
1559年、
結城晴朝が結城家17代に就任すると、
小田氏治は再度、結城家を攻撃します。
しかし、結城氏に味方した小山高朝や、
真壁城の真壁氏幹らに阻まれて敗走し、
平塚長信(平塚自省)も討死したため、
海老ヶ島城は結城氏の領有になっています。
【小田氏の領有】
1560年、小田氏治は
佐竹氏・宇都宮氏との連合にて
結城城を攻撃すると、和議が成立します
こうして海老ヶ島城は再び
小田家のものになって
平塚大輔が城主となりました。
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【佐竹氏参戦】
【小田氏の本領が失われる】
1564年、
小田氏治が小田原城の北条氏になびくと、
佐竹氏は上杉謙信に出陣を求め、
小田氏治は山王堂の戦いにて、
上杉勢(柿崎景家、色部勝長、北条高広、
中条藤資)に敗れて常陸・小田城も
失ってしまいます。
このとき、海老ヶ島城の状況は、
史料にも記載がなく、不詳ですが、
信太治房も小田城にて討死、
小田氏は失領したものと推測されています。
【佐竹氏の領有】
1569年、
小田原城の北条氏の進出を防ぐため、
佐竹氏は海老ヶ島城を攻めてきます。
この時、佐竹義重は、
片野城の太田資正(太田三楽斎)、
柿岡城の梶尾政景、
真壁城の真壁氏幹、
多賀谷城の多賀谷重径らと共に攻撃しました。
そのとき、平塚行刑部大輔(平塚大輔)は
夜襲を受けて降伏し、
佐竹家は佐竹氏に属した
宍戸義長を城主に据えました。
【海老ケ島氏】
宍戸城主・穴戸義長は
弟(一説には子)の
宍戸義利を海老ヶ島城に入れると
海老ヶ島新左衛門と改名させています。
1573年、海老ヶ島新左衛門は、
常陸・藤沢城の小田氏治を攻めた際には、
討死しています。
【廃城へ】
1592年、宍戸義長が
海老ヶ島城に入ると、
城下町などの整備が行われました。
平城にしては、
規模もそれなりにあったようです。
関ヶ原の戦いのあと、
佐竹氏が秋田へ転封となると、
宍戸義長も従っており、
廃城になった模様です。
【現在の城跡】
現在城址は農地化・宅地化されていますが、
新善光寺周辺に土塁が残っており、
ほかにも断片的に土塁や水堀が
確認できるとのことです。
現在の龍泉寺の東南にも、
堀と土塁が残存しているとのことです。
【城跡の場所】
県道14号線と45号線とが交差する
松原十字路の東側一帯が
海老ヶ島城の跡であるとのことです。
現在はただの平地にしか見えませんが、
かつては西を西沼、南を平沼、
その他は深田によって囲まれた
島状の地形であったとのことです。
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【略年表】
<1461年>
結城成朝により築城。
<1467年>
結城成朝の子・海老原輝朝が初代城主。
<1546年>
小田氏方の武将・宍戸通綱が当城を落とす。
<1602年>
廃城となる。
【城の地形】
城郭の周囲は水が張られている湿地帯で、
水城とも言える構えだったようです。
そのため、城に出入する場合には、
船を利用したと伝わっているとのことです。
「島」と名がついているので、
まさに水に浮かんでいる
島のようだったかもしれません。
【所在地】
〒300-4541 茨城県筑西市松原427
【新善光寺・所在地】
〒300-4541 茨城県筑西市松原432
【交通アクセス】
(電車・バス)
関東鉄道常総線「下館」北口駅から
関鉄パープルバスに乗り「松原」バス停下車、
徒歩約8分
<関鉄パープルバス・路線>
下館駅北口→(メディカルセンター→明野高)
→明野支所前→筑波山口
関東鉄道常総線「黒子」駅から徒歩約100分
(車)
北関東自動車道「桜川筑西」ICから約20分
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)
「常総IC」から約30分
【駐車場】
城跡専用の駐車場はありません。
また周囲の住宅地の道は決して広くはないので
新善光寺の参拝者用の駐車場に
止めさせていただきました。
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