【黒田長政】
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、
安土桃山時代から
江戸時代前期にかけての武将・大名。
筑前国福岡藩初代藩主です。
戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男です。
九州平定、文禄・慶長の役で活躍しました。
特に関ヶ原の戦いでは
東軍につき一番の功労者として
称えられ、徳川家康より
筑前国名島に52万3千余石の封を受け、
福岡藩を立藩し初代藩主となりました。
黒田長政も父の黒田孝高と同じく
キリシタン大名でしたが、棄教しました。
【出生】
黒田長政は
永禄11年(1568年)12月3日、
黒田孝高と正室・櫛橋光の嫡男として
播磨姫路城にて生まれました。
幼名は松寿丸(しょうじゅまる)でした。
当時、この名前は縁起の良い名前として、
武将の嫡子にはよくつけられた
名前であるとのことです。
当時の黒田家は御着城主・
小寺政職の家老として、
小寺姓を賜って名乗っていたため、
小寺吉兵衛とも呼ばれます。
【織田家の人質時代】
黒田長政の父である黒田孝高は
中央の織田信長に伺候し、
織田氏家臣の
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に
従っていましたが、
天正5年(1577年)10月15日に
黒田孝高は羽柴秀吉に対して起請文を提出し、
松寿丸を人質として秀吉に預けています。
これは織田信長が播磨諸侯に
人質の提出を命じたものの、
主君の政職が嫡子・氏職が
病弱であることを理由に、
松寿丸を代わりに
提出させたためとされています。
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【長浜城にて】
松寿丸は羽柴秀吉の居城である
近江長浜城にて、
秀吉・おね夫婦から人質ながら、
我が子のように
可愛がられて過ごしたということです。
このころ、別所重棟の娘と
婚約していましたが、
のちに破談となりました。
【有岡城の戦い】
天正6年(1578年)、
織田信長に一度降伏した
荒木村重が反旗を翻しました。
父の黒田孝高は、懇意であった荒木村重を
翻意させるために有岡城へ乗り込みますが
説得に失敗し逆に拘束されてしまいます。
この時、いつまで経っても戻らぬ黒田孝高を、
荒木村重方に寝返ったと見なした
織田信長からの命令で
松寿丸は処刑されることになりました。
ところが、父の同僚である
竹中重治(半兵衛)が
密かに松寿丸の身柄を
居城・菩提山城城下に引き取って
家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸に匿い、
織田信長には処刑したと
虚偽の報告をしたとのことです。
有岡城の陥落後、
父が救出され
疑念が晴らされたため、
姫路へ帰郷となりました。
【羽柴(豊臣)家の家臣として】
天正10年(1582年)6月、
本能寺の変で織田信長が
明智光秀の襲撃によって死去すると、
父と共に羽柴秀吉に仕えます。
【備中高松城の戦い】
羽柴秀吉の備中高松城攻めに従い、
初陣の冠山城の戦いなど
中国地方の毛利氏方と戦いました。
【初領地】
天正11年(1583年)、
賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、
初めて河内国内に450石の
領地を与えられます。
【小牧・長久手の戦い】
天正12年(1584年)、
小牧・長久手の戦いでは
大坂城の留守居を務め、
雑賀衆、根来衆、菅達長率いる
長宗我部水軍と戦いました。
その功績により、加増2千石を
与えられます。
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【九州平定】
【城井(宇都宮)鎮房の件】
天正15年(1587年)、九州平定において、
黒田長政自身は日向財部城攻めで
功績を挙げました。
戦後、父子の功績をあわせて
黒田孝高に豊前国中津に
12万5千石が与えられます。
けれども豊前の国人勢力を
懐柔するのは困難でした。
その中の有力領主の一人である
城井鎮房(宇都宮鎮房)は
豊臣秀吉の出陣要請に対して、
病気と称して自身は出陣せず、
息子の城井朝房に
僅かな手勢を付けて参陣させました。
けれども、このような城井鎮房の態度に
豊臣秀吉は不信を抱き、
以後の豊前国の治世の困難を憂慮して
九州平定後、城井鎮房に伊予国への
移封を命じます。
移封は加増を伴ったものでしたが
城井鎮房は先祖伝来の地に固執して
朱印状の受け取りを拒否し、
豊臣秀吉の怒りを買ったのでした。
このことから穏便に事を修めることは
もはや不可能と判断した黒田長政は
城井谷を攻撃しましたが、
地の利のある城井鎮房のゲリラ戦術に
苦戦したとのことです。
そこで黒田父子は付け城を築いて
兵站を断つ持久戦法をとり、
他の国人勢力を各個攻め下していきました。
これが功を奏しやがて形勢は逆転。
城井鎮房は12月下旬に13歳になる
娘・鶴姫を人質に
差し出すことを条件に和議を申し出、
それが受け入れられ
城井鎮房は恭順を誓います。
けれども、豊臣秀吉の承認を得ることは
出来ませんでした。
豊臣秀吉の承認を得ることが
できないと知った黒田長政は、
城井一族の誅伐を決心したとのことです。
【城井一族の誅殺】
天正16年(1588年)4月20日、
黒田長政は鎮房を中津城に招きましたが、
家臣団は城下の合元寺に
留め置かれました。
わずかな共の者と中津城に入った
城井鎮房は、黒田長政の手によって
酒宴の席で謀殺されました。
そして黒田勢が合元寺に差し向けられ、
斬り合いの末に城井の家臣団は
全員が討ち取られたとのことです。
さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せて
陥落させ、鎮房の父・城井長房を殺害。
また、城井鎮房の嫡男・城井朝房は、
黒田孝高に従い一揆鎮圧のため
出陣していましたが肥後国で
黒田孝高によって暗殺されました。
こうして城井氏の勢力の殲滅に
成功した黒田長政は、
人質の鶴姫を13人の侍女と共に、
山国川の畔、広津の千本松河原で
磔にして処刑したとのことです。
・・・なんだかなぁ・・・。
だまし討ちみたいな感じ・・。
親世代は仕方がないにしても
子供達にまで騙して残酷な仕打ち。
13歳の女の子に関しては
しかも侍女もろとも処刑とな??
しかも磔・・・。
何かとてつもなく嫌な奴だ・・・。
(あくまでも個人の感想です)
黒田親子共々イヤになりそう・・。
後味悪すぎる・・。
天正17年(1589年)、
父が隠居したために
家督相続を許され、
同時に従五位下、甲斐守に叙任しました。
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【朝鮮出兵・文禄の役】
文禄元年(1592年)から行なわれた
文禄・慶長の役では渡海しています。
黒田長政は5千人の軍役を課せられ、
主将として三番隊を率いて
一番隊の小西行長や
二番隊の加藤清正らとは
別の進路を取る先鋒となりました。
6月15日、大同江の戦いでは
朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた
宗義智の軍勢を救援し、
黒田長政は負傷するも
大いに奮戦し朝鮮軍を破ったのでした。
文禄2年(1593年)正月、
中央から派遣された李如松率いる
明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、
落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を
黒田長政は白川城に収用。
漢城に集中した日本軍は
碧蹄館の戦いで南下してきた
明軍を撃破し、戦意を失った明軍と
兵糧不足に悩む日本軍との戦いが
停滞する中で、黒田長政は
幸州山城の戦いにも出陣。
【和平交渉】
和平交渉が進み、日本軍は4月に
漢城を放棄して朝鮮半島南部へ
布陣を行いました。
6月には朝鮮南部の拠点である
晋州城を攻略し、
黒田長政配下の後藤基次が
先陣争いで活躍しました。
その後の南部布陣期の黒田長政は
機張城を守備します。
【交渉の破綻と再出兵】
慶長元年(1596年)9月、
日明和平交渉は大詰めを迎え、
豊臣秀吉による明使謁見で
双方の外交担当者による欺瞞が
発覚して交渉が破綻すると
豊臣秀吉は諸将に再出兵を命じます。
【朝鮮出兵・慶長の役】
慶長2年(1597年)7月、
元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、
反撃により漆川梁海戦で
朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は、
8月より主に全羅道から
忠清道へ攻勢を掛けます。
黒田長政は再度5千人の軍役を課せられ
加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して
黄石山城を攻略し、
8月に全州で左軍と合流し、
全州会議に従って各軍の進路を定めます。
黒田長政ら右軍は忠清道の天安へ進出。
派遣された明将の解生の軍と
黒田長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦となり、
激戦の末に毛利秀元の援軍もあり明軍を撃破し、
数日間稷山に駐屯しました。
駐屯中の黒田長政に対して、
解生は白鷹を贈るなどして
和議を求めたとのことです。
その後、黒田長政は毛利秀元、
加藤清正と鎮州で会議を行い、
梁山倭城を築城して守備につきました。
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冬営のために布陣していた日本軍に対し、
12月末から明軍が完成間近の
蔚山倭城へ攻勢をかけます。
加藤清正が苦戦すると
西部に布陣していた日本軍は
蔚山救援軍を編成して明軍を撃破。
黒田長政はこの救援軍に600人を
派遣しており、後にその不活発さを
豊臣秀吉から叱責されます。
明の攻撃を受けた諸将は
今後の防衛体制を整えるために
蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、
梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して
戦線を縮小する案を豊臣秀吉に
打診しましたが却下。
結局、黒田長政の
梁山倭城のみ放棄が認められ、
以後撤退命令が出るまで
黒田長政は亀浦倭城へ移陣しました。
【秀吉の死去と撤退】
慶長3年(1598年)8月18日、
豊臣秀吉が死去し、
日本軍が明軍を三路の戦いで
撃破すると黒田長政ら日本軍は
そのまま撤退したのでした。
このように朝鮮では
数々の武功を挙げたのですが、
吏僚である石田三成や
小西行長らと対立していくことになります。
【関ヶ原の戦いへ】
【離縁と再婚】
慶長3年(1598年)8月、
豊臣秀吉が死去すると、
石田三成ら文治派との
路線対立から五大老の徳川家康に接近し、
先に結婚していた蜂須賀正勝の娘である
糸姫と離別し、徳川家康の養女の
栄姫(保科正直の娘)を新たに
正室に迎えたのでした。
【徳川家康との同盟】
慶長4年(1499年)閏3月、
前田利家が死去すると、
黒田長政は福島正則や加藤清正ら
武断派(いわゆる七将)と共に
石田三成を襲撃しました。
このころ、根岸兎角ら優秀な
鉄砲の遣い手を多数召抱えています。
また、井伊直政と交渉し、
徳川家と同盟を結ぶまでに
関係を強めていったのでした。
【関ヶ原の戦い】
【一番の功労者】
慶長5年(1600年)、
徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を
起すと徳川家康に従って出陣し、
出兵中に石田三成らが大坂で
西軍を率いて挙兵しますと、
黒田長政も東軍の武将として
関ヶ原の戦いに臨むと決めました。
まず、去就に迷う武将らと交渉し、
福島正則といった大名を東軍につけました。
本戦では石田三成本陣と激戦の最中、
黒田長政家臣・菅正利率いる鉄砲隊が
側面から鉄砲で攻撃し、
石田三成の家老・島清興(島左近)を
討ち取る功績を挙げました。
さらに父・如水譲りの調略においても
親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、
西軍の小早川秀秋や吉川広家など
諸将の寝返りの工作を行いました。
それらの戦功により戦後、
徳川家康から御感状
(福岡市博物館所蔵)を賜り、
関ヶ原の戦い一番の功労者として
子々孫々まで罪を免除するという
お墨付きをもらい、
筑前国名島に52万3千余石を
与えられたのでした。
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【江戸時代】
【「筑前お討ち入り」】
慶長6年(1601年)、
豊前国より筑前国に入府。
海外貿易の大湊、
博多大津(三津七湊)を要する
筑前は古来より町人や禅僧の力が
強い地でした。
このため黒田長政や家臣達は
威力を示すために武装して入部。
これを「筑前お討ち入り」といったそうです。
当初入城した小早川氏の居城であった
名島城は手狭で簡素な城であり、
太守としては不便な土地でした。
このため父である黒田如水とともに
新たな城を築城します。
【初代福岡藩主】
堺と並ぶ商人の街である
博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、
当初は福崎といったその地を、
黒田氏ゆかりの備前国の
故地からとって福岡と名付け、
同年に着工し、慶長11年(1606年)に
福岡城は7年あまりで全体が完成。
黒田長政は初代福岡藩主となりました。
慶長8年(1603年)、
朝廷より従四位下、筑前守に叙任されました。
【父・黒田如水の死去】
慶長9年(1604年)、
父である黒田如水が京都伏見屋敷
(または福岡城三の丸御鷹屋敷)
にて死去しました。
黒田如水はキリシタンであったため、
葬儀はキリスト教カトリック式及び
仏式で行われ、
仏式では臨済宗京都大徳寺他にて
大々的に執り行われました。
また、播磨国の鶴林寺においては、
福岡藩の安寧と故地播磨をしのび
大法要を行い、金銀を寄進しました。
慶長10年(1605年)、
藩領内の土地や住民に対し
錠書を出しました。
【長政と博多一の豪商】
慶長11年(1606年)、
黒田長政は筑前入部に従い
同行してきた商人・大賀宗九に対し
徳川家康から海外貿易を行うための
朱印状を受けさせました。
大賀宗九はこの貿易により
巨万の富を築き以降、博多筆頭町人、
福岡藩黒田家御用の地位を得、
博多一の豪商となりました。
また、この年に亡父・如水の供養ために、
京都の大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立。
【嫡男、松平姓授与】
慶長17年(1612年)、
嫡男の黒田忠之とともに上洛し、
黒田忠之は江戸幕府第2代将軍である
徳川秀忠から松平の名字を与えられます。
【大阪冬の陣】
慶長19年(1614年)、
大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、
代理として黒田忠之を出陣させました。
徳川方によって黒田長政の
交流関係が調査され、
徳川氏に対して繰り返し
起請文を提出させられています。
【大坂夏の陣】
慶長20年(1615年)、
大坂夏の陣では徳川秀忠に属して
加藤嘉明とともに陣を張り、
豊臣方と戦いました。
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【「大坂夏の陣図屏風」】
また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、
当時一流の絵師を集めて
自らも参陣した
「大坂夏の陣図屏風」(通称『黒田屏風』)
を描かせましたが、
その絵の中には徳川軍の乱妨取りも
詳細に描かれており、
何故徳川方の黒田長政が、
味方の残酷極まりない有り様を
この大作に描かせたのか
現在も論争が絶えないとのことです。
同屏風は大阪市所有
(大阪城天守閣保管)で、
国の重要文化財に指定されています。
【福岡の名産品】
黒田長政は藩主となって以降、
数々の産業を奨励し
博多人形や博多織、高取焼など
伝統工芸の復興に力を入れ、
現在に至るまで
福岡の名産品となっています。
【最期】
元和9年8月4日(1623年8月29日)、
黒田長政は京都における
黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて、
56歳の生涯を終えました。
徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、
早くに上洛していましたが、
既に病にかかっていた状態でした。
辞世は
「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、
今こそ帰れあんらくの空」。
家督は長男の忠之が継ぎました。
生前の黒田長政は、黒田忠之の器量を
心配して廃嫡を考えたこともあったそうです。
しかしながら重臣の栗山利章(大膳)にも
諌められ、思いとどまったとのことです。
【黒田騒動】
そして利章に忠之の補佐を託して
亡くなった長政でしたが、
後に忠之と利章が対立する
お家騒動が勃発することに
なったのでした。
黒田騒動(くろだそうどう)は、
別名、栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)
ともいわれています。
伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動
とともに三大お家騒動と呼ばれています。
他の御家騒動では処分時に
死者が出ていますが、
黒田騒動ではお預けなどは
あったものの、死者は出ませんでした。
【黒田騒動の経緯】
黒田長政は世継ぎ継承にあたり
長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、
三男の長興に家督を譲ると
決めて忠之に書状を送りました。
書状に百姓になるか、
1万両を与えるから
関西で商人になるか、
千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、
と非常に厳しいものであったそうです。
これに後見役の栗山大膳は、
辱めを受けるのなら
切腹をとの対応を忠之に勧めます。
そして600石以上2千石未満の
藩士の嫡子たちを集め、
長政に対して廃嫡を取りやめなければ
全員切腹すると血判状をとりました。
この事態を重く見た黒田長政は
嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。
そこで大膳は忠之に諌書を送りましたが、
この内容が飲酒の心得や
早寝早起きなどまるで
子供を諭すような内容だったため
、忠之は大膳に対し立腹し、
次第に距離を置くようになったのでした。
やがて生前の黒田長政が
憂いていたとおりに御家騒動へと発展。
忠之は小姓から仕えていた
倉八十太夫(名は正俊、または家頼)
を側近として抱え、
1万石の大身としました。
そして十太夫に命じて
豪華な大船「鳳凰丸」を建造。
さらに200人の足軽を
新規に雇い入れるなど、
軍縮の時代にあって
それに逆行する暴政を行います。
これにより遂に藩は
幕府より咎めを受けるに至ります。
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大膳も寛永9年(1632年)6月、
忠之が幕府転覆を狙っていると
幕府に上訴します。
一方藩側は「大膳は狂人である」
との主張を行い、
寛永10年(1633年)2月、
将軍徳川家光が直々に裁いた結果、
忠之の藩側の主張を認め、
所領安堵の触れを出し、
10年におよぶ抗争に幕を閉じました。
大膳は騒動の責を負って
陸奥盛岡藩預かりとなり、
十太夫も高野山に追放されました。
なお、十太夫は島原の乱で
黒田家に陣借りして
鎮圧軍に従軍しましたが、
たいした戦功は挙げられず、
黒田家復帰はなりませんでした。
のち上方で死去したとのこと。
十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、
ようやく再仕官を許されています。
なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった
栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も
一緒に持参しました。
現在、もりおか歴史文化館に
所蔵されているとのことです。
【その他】
<ウルトラマン・ゴモラ>
特撮番組「ウルトラマン」に
登場する怪獣・ゴモラの頭の
デザインは、黒田長政の兜を
元にしているとのことです。
<屋敷跡>
京都市上京区の「甲斐守町」の地名は、
黒田長政の屋敷があった跡だと考えられ、
他にも伏見城の鬼門の方角の
キリシタン大名の武家地にも
屋敷があったそうです。
<供養塔>
神奈川県真鶴町の西念寺には、
黒田長政の供養塔があるそうです。
これは江戸城築城の際、
普請を請け負った
真鶴の本小松石を発見した
黒田藩を顕彰したものであるとのことです。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
阿部進之介(あべ しんのすけ)さんが
演じられます。
徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!
羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)下層民から天下人の生涯を手短に!
羽柴秀吉と石田三成の運命の出会い・光秀と三成の接点とは?~三成の縁の地~
加藤清正~多くの戦功、治水事業、農業、商業に手腕を発揮し築城の名手であり「清正公さん」として信仰されています。
小西行長~商人の子として生まれるが才能を見出され武将になりキリシタン大名となる。
福島正則~秀吉の子飼い、武勇に長ける荒武者だが地元では英雄扱いされ行政面でも功績を残す。
徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。
井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。
荒木村重と残された女性や家臣たちの悲惨な最期~有岡城の戦い~
蜂須賀城と蜂須賀氏~羽柴秀吉の与力として活躍した蜂須賀小六正勝が生まれた城とされています。
この記事へのコメントはありません。