武田氏

真田信繁~「日本一の兵」と評された日本の国民的武将で英雄の真田幸村です。

真田信繁(幸村)の終焉の地



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真田信繁

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、
安土桃山時代から
江戸時代初期にかけての武将、大名。
真田昌幸の次男です。
通称は左衛門佐で、
輩行名は源二郎(源次郎)。
真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で
広く知られています。

豊臣方の武将として
大坂夏の陣において
徳川家康を追い詰め、
本陣まで攻め込んだ活躍が
江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」
と評されるなど
日本の国民的ヒーローとされています。
後世、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが
多数創作され、さらに
明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が
幅広く読まれると、
真田十勇士を従えて宿敵である
徳川家康に果敢に挑む
英雄的武将というイメージで、
庶民にも広く知られる存在となったのでした。

【「真田幸村」の由来】
真田幸村」の名が広く知られています。
諱は「信繁」が正しいとのことです。
直筆の書状を始め、
生前の確かな史料で
「幸村」の名が使われているものは
無いとのことです。
信繁は道明寺の戦いで勇戦した
家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に
戦功を書き記した感状を与えていたとのことです。
「繁」の字の下半分に
花押を重ね書きする
信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」
「信妙」と誤写されていますが、
花押の形が信繁のものであると断定でき、
死の前日まで「信繁」
と名乗っていたことが
確認できるとのことです。
また、幸村と署名された古文書は、
記録類のなかに
書写されたものが2通
見られるとのことですが、
いずれも明らかな偽文書で、
信繁が幸村と自称したことの
証明にはならないとのことです。




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【「幸村」の初出】
「幸村」の名が見られるようになったのは
夏の陣が終わってから60年近く経った、
寛文12年(1672年)に刊行された
軍記物の「難波戦記」が
その初出であるとされています。
「難波戦記」では
真田昌幸の次男「左衛門佐幸村」や
「眞田左衛門尉海野幸村」との
名乗りで登場しますが、
この名乗りを実際に使用した形跡はなく、
大坂入り後の書状でも
「信繁」を用いていたとのことです。

【説得力】
それでも「幸村」という名前にも
説得力はありました。
「幸」は真田家や
真田家の本家にあたる
海野家の通字であり、
また「村」については
徳川家に仇なす妖刀村正が
由来に利用されたとのことです。
俗説ではありますが、
村正は幸村の佩刀であったとか、
介錯に村正が
用いられたとかいう話があります。
もちろんこれらは誤伝ですが、
話に尾ひれがついたことで
「幸村」の名は
元禄時代には広く知られていたとのことです。
そのため、元禄14年(1701年)に書かれた
「『桃源遺事』」徳川光圀の言行録)では
既にもう、編集者の三木之幹、宮田清貞、
牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、
信仍が正しいと書き記したほどでした。
もっとも、信仍というのも誤っています。

【松代藩までも】
が、時代が下るにつれて
「幸村」の名があまりに
世間に定着したため、
江戸幕府編纂の系図資料集である
「寛政重修諸家譜」や
兄・信之の子孫が
代々藩主を務めた松代藩の
正式な系図までもが
「幸村」を採用しました。
松代藩が作成した系図の
「真田家系図書上案」では信繁だけですが、
「真田家系譜」になると幸村が現れます。
大坂夏の陣から実に200年近く経た、
文化6年(1809年)、
徳川幕府の大目付から
「幸村」名についての
問い合わせを受けた
松代藩・真田家は、
「当家では、『信繁』と把握している。
『幸村』名は、彼が大坂入城後に
名乗ったもの」との主旨で
回答しているとのことです。

武田信繁の存在】
何故「信繁」ではなく
「幸村」にした理由の一つとして
武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、
難波戦記の作者らには
真田信繁の活躍を描く効果上、
その旧主家一門の著名な
同名者の呼称を避ける意図があり、
信繁の名乗りが否定されて
幸村が案出されたのであろうと
主張する専門家もいます。

ちなみに信繁の発給文書は
20点が確認でき、
花印は9回変えています。

「信繁」としたのは
武田信玄公の弟である
「信繁」公に真田昌幸が
敬愛の念を抱いており、
思慮深く教養もあり
兄・信玄の片腕となった
その存在になれるようにと
命名したとの逸話があります。




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【出生から真田氏の自立】
永禄10年(1567年)または
元亀元年(1570年)、
真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)
の次男として生まれました。
母は正室の山手殿とされています。
通称は、長男の信幸が源三郎を称し、
信繁は源二郎を称しました。

真田氏は信濃国小県郡の国衆で、
真田信繁の祖父にあたる
幸隆(幸綱)の頃に
甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属しました。
真田信繁の伯父である真田信綱
先方衆として信濃侵攻や
越後国の上杉氏との抗争、
西上野侵攻などにおいて
活躍していました。
父の真田昌幸は真田幸隆の三男で、
武田家の足軽大将として活躍し
武田庶流の武藤氏の養子と
なっていましたが、
天正3年(1575年)の
長篠の戦いにおいて
長兄である真田信綱、
次兄である真田昌輝が戦死したため、
真田氏を継ぐことになりました。

真田幸隆は上野国岩櫃城代として
越後上杉領を監視する立場にあり、
真田昌幸も城代を引き継ぎました。
真田信繁は父に付き従い
甲府(甲府市)を離れ
岩櫃に移ったと考えられています。
天正7年(1579年)には
武田・上杉間で
甲越同盟が締結され
上杉方との抗争は収束しましたが、
一方で相模の小田原北条氏との
甲相同盟が破綻したため、
上野国は引き続き
緊張状態にあったのでした。

【武田氏の滅亡】
天正10年(1582年)3月には
織田・徳川連合軍の侵攻により
武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して
上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の
所領を安堵されました。
真田信繁は関東守護として
厩橋城に入城した
滝川一益のもとに人質として赴きます。

天正壬午の乱
同年6月に本能寺の変により
織田信長が横死すると
武田遺領は空白域化し、
上杉氏・小田原北条氏・
三河国の徳川家康の三者で
武田遺領を巡る争いが発生します。
滝川一益は本能寺の変によって
関東を離れる際に真田信繁も同行させ、
木曾福島城で真田信繁を
木曾義昌に引渡しました。

【第一上田合戦】
真田氏は上杉氏に帰属して自立し、
天正13年(1585年)には
第一次上田合戦において
徳川氏と戦っています。
従属の際に真田信繁は人質として
越後国に送られ、
真田信繁には徳川方に帰属した
信濃国衆である屋代氏の旧領が
与えられたといい、
天正13年(1585年)6月24日に
屋代氏旧臣の諏訪久三宛に
安堵状を発給しています。
慶長5年以前の真田信繁領は
上田市西塩田の前山村で、
上田領全体で千貫以上を所持していました。

豊臣秀吉の馬廻衆】
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が
台頭すると真田昌幸はこれに服属し、
独立した大名として扱われます。
真田信繁は人質として大坂に移り、
のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、
竹林院を正妻に迎えています。




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小田原征伐
天正17年(1589年)、
豊臣秀吉の命で、真田信幸
沼田城を小田原北条氏へ
引き渡しましたが、
北条氏直が裁定に逆らって
名胡桃城を攻めたことで、
12月に小田原征伐が号令されます。
翌年の遠征に際しては、
真田昌幸・信幸は
前田利家上杉景勝らと
松井田城・箕輪城攻めに、
真田信繁・吉継は
石田三成の指揮下で
忍城攻めに参戦したと伝えられています。

【文禄の役】
文禄の役においては、
「大鋒院殿御事跡稿」によりますと、
真田昌幸・信幸とともに
肥前名護屋城に700名の
指揮を執って在陣していました。
「松浦古事記」には、
三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に
真田信繁の名があるとのことです。

【豊臣姓を下賜】
文禄3年(1594年)11月2日、
従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、
豊臣姓を下賜されました。
この真田信繁の立身には、
岳父の大谷吉継とその母である
東殿の意向が反映されていたとされます。

【独立した大名として】
近年の研究によって真田信繁が
豊臣秀吉の馬廻衆であり、
真田昌幸とは別に1万9千石の知行を
有していたことが判明しています。
真田信繁は豊臣政権から
伏見城の普請役を課され、
大坂・伏見に屋敷を与えられるなど
独立した大名として遇されていました。
一方で知行地の支配については
原昌貞ら真田昌幸の家臣に
任せていたとのことです。

関ヶ原の合戦】
【「犬伏の別れ」】
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に
五大老の徳川家康が、
同じく五大老の一人だった
会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと
それに従軍し、留守中に
五奉行の石田三成らが挙兵して
関ヶ原の戦いに至りますと、
父と共に西軍に加勢し、
妻が本多忠勝の娘(小松殿)
であるため東軍についた
兄の真田信幸と袂を
分かつことになるのでした。
諸説ありますが
東軍西軍どちらにつくかの合議を
犬伏で行ったため、
「犬伏の別れ」として
語られることが多いです。

【第二次上田合戦】
東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は
中山道制圧を目的として進軍し、
真田昌幸と真田信繁は居城上田城に籠り、
3万8千の徳川軍を
城に立て籠もって迎え撃ったのでした。
少数の真田隊に手こずった
秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、
攻略を諦めて去っていきました。

また、徳川秀忠勢が去った後も
海津城将の森忠政は葛尾城に
井戸宇右衛門配下の兵を置いて
上田城の動きを監視させていました。
これに対して真田信繁は
9月18日と23日の2度討って出て、
夜討と朝駆けを敢行しています。




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高野山配流】
9月15日、西軍は徳川秀忠が
指揮を執る徳川軍主力の到着以前に
関ヶ原で敗北を喫してしまいます。
真田昌幸と真田信繁は
本来なら敗軍の将として
死罪を命じられるところでした。
が、兄の真田信之(信幸)と
その舅である本多忠勝の取り成しがあって、
高野山配流を命じられるにとどまり、
12月12日に上田を発して
紀伊国に向かいました。
初め高野山にある蓮華定院に入り、
次いで九度山に移りました。

【父・昌幸の死】
蟄居中の慶長1616年(1611年)に
父の真田昌幸は死去しました。
慶長17年(1612年)に真田信繁は出家し、
好白と名乗ったとのことです。

【大坂城へ】
慶長19年(1614年)、
方広寺鐘銘事件をきっかけに
徳川氏と豊臣氏の関係が悪化します。

大名の加勢が期待できない豊臣家は
浪人を集める策を採り、
九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して
黄金200枚、銀30貫を贈りました。
真田信繁は国許(上田)にいる
父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、
九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に
大坂城に入ったのでした。
大阪城
大坂で真田信繁が指揮を執っていた軍は、
鎧を赤で統一していたということです。

【真田の赤備え】
慶長20年(1615年)、
大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が
自分の部隊を赤備えに編成。
敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って
大坂城に入った真田信繁の真意は、
恩賞や家名回復ではなく、
徳川家康に一泡吹かせて
真田の武名を天下に示すことだったと
言われています。
武田家由来の赤備えで編成した真田隊は
天王寺口の戦いで徳川家康本陣を攻撃し、
三方ヶ原の戦い以来と言われる
本陣突き崩しを成し遂げ、
「真田日本一の兵
古よりの物語にもこれなき由」と
「薩藩旧記雑録」(島津家)に
賞賛される活躍を見せたのでした。
絵画としては唯一、
黒田長政が「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)」に
赤備えの真田勢を家臣の
黒田一成に命じて描かせています。

ただし、真田氏で赤備えを導入したのは
真田信繁が最初ではありません。
真田信繁の父真田昌幸が
存命中の文禄2年(1593年)に
豊臣秀吉から「武者揃」を
命じられた真田信繁の兄の真田信幸は、
「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、
指物はあかね」という指示を
家臣に出しており、
既に文禄年間には
真田氏は少なくとも
甲冑と指物には赤を使用していたとのことです。

【大坂冬の陣】
慶長19年(1614年)の
大坂冬の陣では、真田信繁は
当初からの大坂城籠城案に反対します。
先ずは京都市内を支配下に抑え、
近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。
瀬田川の瀬田橋付近)まで
積極的に討って出て
徳川家康が指揮を執る軍勢を
迎え撃つよう主張しました。
唐橋 瀬田川
その作戦案に浪人衆は
賛成を表明しましたが
結局受け入れられずに終わったのでした。




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真田丸
大坂城への籠城策が決定すると、
真田信繁は大坂城の最弱部とされる
三の丸南側、玉造口外に
真田丸と呼ばれる
土作りの出城を築きます。
千田嘉博氏によりますと
大坂城の実際の最弱部は、
上町台地の中央部、
真田丸の西のあたりで
あるとのことです。
真田信繁は、
地形の高低差が少なく
惣堀の幅も狭い
真田丸という突出部を築くことで
真田丸に敵の注意を引きつけ、
大坂城の真の弱点を
見逃しやすくしたとのことです。
さらに真田丸の背後には
200mにもおよぶ深い谷があり、
真田信繁は、真田丸がたとえ
落とされたとしても、
その谷が大坂城を
守りつづけてくれると見越して、
この場所に真田丸を
築いたのであると指摘しています。
さらに半円形といわれてきた真田丸は
「浅野家文庫諸国古城之図」
が採録した「摂津 真田丸」
の絵図を調査した千田嘉博氏により、
不定形であったことが判明しました。

大野治長らの疑い】
この戦闘で真田信繁は、
寄せ手を撃退し、
初めてその武名を天下に
知らしめることになるのでした。
なお、この真田丸を造る際、
大野治長を始めとする
豊臣方の他の武将は、
これを真田信繁が
徳川方に寝返るための下準備と
疑っていたのでした。

【冬の陣の講和後と説得】
冬の陣の講和後、
この真田丸は両軍講和に伴う
堀埋め立ての際に
取り壊されてしまいます。
大阪城 堀
そして豊臣方の弱体化を謀る
徳川家康は慶長20年(1615年)2月に、
使者として真田信繁の叔父である
真田信尹を派遣し、
「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、
承知をするならば、
本多正純から誓詞を与えると
寝返るように説得しています。
真田信繁が豊臣秀頼には
恩があると言ってこれを断ると、
本多正純から再び真田信尹を
使者として差し向け、
今度は「信濃一国を与える」
と説得に出ましたが、
これを聞いた真田信繁は
「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」
と立腹して対面をしなかったとあります。




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【大坂夏の陣】
慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣では、
道明寺の戦い(5月6日)に参加。
伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を
銃撃戦の末に一時的に後退させています。
ただし、この道明寺の戦いでは、
先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が
真田隊が駆けつける前に壊滅し、
後藤基次は討死しています。
この大幅な遅れの要因としては、
当日の濃霧のため、
真田隊が行路を
誤ったためとする史料があります。
また、毛利勝永隊はこの時、
真田隊より早く戦闘現場に
着陣済みで、真田隊の到着を待っていました。
しかも当日の指揮権は、
大坂城内の譜代の
大野治長が持っていました。
そのため、後藤基次討死の責任が、
真田信繁や毛利勝永ら
現場の武将にあるとは
断定はできません。
けれども、所定の時間に
着陣できなかった真田信繁は
毛利勝永に向かって
「濃霧のために味方を救えず、
みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを
死なせてしまったことを、
自分は恥ずかしく思う。
遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、
この場での討死を覚悟したとのことです。
これを聞いた毛利勝永は
「ここで死んでも益はない。
願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で
華々しく死のうではないか」と真田信繁を慰留、
自らは退却に移ったとのころです。
ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、
追撃を仕掛ける伊達政宗隊を
撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させました。
この撤退戦の際には、
「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
(「関東武者は百万あっても、
男子は一人も居ないものだな」)と
徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、
悠然と撤収したといわれています。
この言葉は後世にまで
語り継がれたのでした。
現在の大阪城からの眺め

真田信繁は兵士の士気を高めるためには、
豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えます。
けれども豊臣譜代衆や、
豊臣秀頼の母・淀殿に阻まれ、
豊臣秀頼の出陣は困難を極めたのでした。

5月7日、真田信繁は
大野治房明石全登・毛利勝永らと共に
最後の作戦を立案します。
それは右翼として真田隊、
左翼として毛利隊を
四天王寺茶臼山付近に布陣し、
射撃戦と突撃を繰り返して
徳川家康の本陣を孤立させた上で、
明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、
合図と共にこれを
急襲・横撃させると
いうものだった、とされています。
茶臼山

【射撃戦】
先鋒の本多忠朝の部隊が
毛利隊の前衛に向けて発砲し、
射撃戦を始めました。
<本多忠朝の墓>
本多忠朝の墓

真田信繁は、かねての作戦計画に
齟齬をきたすため、毛利隊に
射撃中止の伝令を遣わし、
毛利勝永自身も中止を促しましたが、
射撃戦は激しくなるばかりで、
ついに本格的な戦闘へと突入。
作戦を断念せざるを得なくなりました。
これを受けて真田信繁は、
軍目付の伊木遠雄に向かって
武運拙きことを嘆き、
己の死を覚悟したということです。

【徳川家康本陣へ決死の突撃】
そして死を覚悟した真田信繁は
徳川家康本陣のみを目掛けて
決死の突撃を敢行します。
この突撃は真田隊のみではなく、
毛利・明石・大野治房隊などを含む
豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、
徳川勢は総崩れの観を呈するに至ったのでした。
真田信繁が指揮を執る真田隊は、
越前松平家の松平忠直
1万5千の大軍を突破、
合わせて10部隊以上の
徳川勢と交戦しつつ、
ついに徳川家康本陣に向かって突撃を敢行。
精鋭で知られる徳川の
親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、
徳川家康本陣に二度にわたり突入。
真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに
とくがわ家康は自害を
二度も覚悟したほどだったとのことです。




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【二度馬印を倒される】
なお、徳川家康の本陣が攻め込まれ
馬印が倒されたのは
「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、
徳川家康は武田家ゆかりの武将に
二度馬印を倒されたこととなりました。

【大野治長の失敗】
大野治長は秀頼の出馬は
今しかないと考え、
自ら言上しようと大坂城に引き返しました。
しかしこの時、大野治長は
豊臣秀頼の馬印を掲げたまま
帰ろうとしたため、
退却と誤解した大坂方の人々の間に
動揺が走り、落胆が広がったのでした。
さらに城内で火の手が上がったことで、
前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍ります。
徳川家康はこれを見逃すことはなく、
全軍に反撃を下知。
東軍は一斉に前進を再開し、
大坂方は崩れ始めたのでした。

【肉薄しながら無念の撤退】
この時、真田隊は越前・松平隊と
合戦を続けていました。
が、そこへ岡山口から
徳川家康の危機を知って
駆けつけた井伊直孝の軍勢が
真田隊に横槍を入れて
突き崩したということです。
真田隊は越前・松平隊の反撃によって
次々と討ち取られて数が減っていき、
遂には備えが分断されてしまいました。
数度に渡る突撃で真田信繁の疲弊も
頂点に達してしまいます。
兵力で勝る徳川勢に押し返され、
真田信繁は徳川家康に肉薄しながら、
ついに撤退を余儀なくされたのでした。
真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も
攻撃続行をあきらめたのでした。
こうして大坂方は総崩れとなって
大坂城への退却を開始し、
天王寺口の合戦は大坂方の敗北が
決定的となったのでした。

【真田信繁の最期】
真田信繁は四天王寺近くの安居神社
(大阪市天王寺区)の境内で
木にもたれて傷つき
疲れた身体を休ませていたところを、
越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次
発見されてしまいます。
安居神社 さなだ松
真田信繁は「この首を手柄にされよ」
との最後の言葉を残して
討ち取られました。
享年は49歳でした。
実際は、真田信繁だという首級が
多数あったと言われています。
一方、近年発見された新史料では、
生玉(生國魂神社の周辺)と
勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で
身を休めていた真田信繁に、
西尾が相手を知らずに声をかけ、
互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、
後に陣中見舞いに来た知人が
過去に真田家に仕えていたことから
真田信繁の首と判明したと
記述されているとのことです。




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【人物伝・逸話】
【真田家の家紋である六文銭
旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、
冥銭を表しているといわれています。
冥銭とは本来古代中国の習俗で、
日本ではとくに亡くなった人を
葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、
三途の川の渡し賃となります。
これを旗印にすることは
「不惜身命」を意味するといわれています。

【勇猛な名将として】
徳川家康を追いつめた
勇猛な名将として語り継がれた真田信繁。
夏の陣の戦功においては、
自らも参戦した証人とも言える
黒田長政は生前に、
大坂夏の陣図屏風を描かせ、
右隻中央に真田信繁軍の
勇猛果敢な姿を配しています。
幕府・諸大名には
当然ながら知られていましたが、
庶民には夏の陣から後、
主に軍記物や講談等で
その名将ぶりが知られていきました。
徳川に敵対したにもかかわらず
幕府側は、真田の名将ぶりの流布を
敢えて禁ずることはありませんでした。
これに関しては、
「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」
「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが
幕府に容認された」とされています。
他に「二代将軍となった秀忠の
関ヶ原での遅参を誤魔化すため、
真田親子が名将の方が都合が良かった」
大坂の陣でやや不甲斐なかった
徳川勢を遠回しに擁護するため」
といった見方も存在します。

【人柄や性格】
真田信繁の人柄は、
兄である信之の言葉によると
柔和で辛抱強く、
物静かで怒る様なことは無いという、
およそ勇猛な武将のイメージとは
かけ離れたものであったようでした。
また、信之は「幸村君伝記」において
「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、
それに対して我らは見かけを必死に繕い、
肩をいからしている
道具持ちという程の差がある」
とも語っていたとのことです。

【破格の条件での調略にものらず】
「台徳院殿御実紀」に
記述されている逸話として、
徳川家康は大坂方の諸将の中で
最も活躍した真田信繁に脅威を覚え、
大坂冬の陣の後には
真田信繁の兄・真田信之に命じて
信濃一国40万石で
彼を調略しようとしていました。
けれどもこの破格の条件に
興味を微塵も見せず
豊臣家への忠誠を
最期まで貫き通しているとされています。
なお諸説があり、叔父である
真田信尹に命じて上田10万石との説があります。




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【小柄な風貌】
大坂の陣において
後藤基次の近習を務めた、
長沢九郎兵衛という者が
後年に口述筆記させた
「長沢聞書」によりますと、
「真田左衛門佐(信繁)は四十四、
五にも見え申し候。ひたひ、
口に二、三寸の疵跡あり
小兵なる人にて候」とあり、
年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)
の容姿をした小男であったとのことです。

【九度山ライフ】
「真竹内伝追加」によりますと、
九度山幽閉中の真田信繁は
日頃から地域の人々や
老僧と深く交わり、
狩りをしたり寺に遊びに行っては
囲碁や双六に興じ、
屋敷では夜更けまで
兵書を読み耽っていたということです。
また、父の昌幸生存中は、
兵書の問答を欠かさず、
欠けていた知識を教え込まれ、
常に武備を怠ることは無かったとのことです。
心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち
近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、
兵術、弓、鉄砲の訓練を
行っていたとされています。
このことがどこまで真実であるかは
定かではありませんが、
真田信繁のその後の戦歴と
活躍を見ると極めて
蓋然性が高いともいえるそうです。

【生存説】
大坂の陣の後、
豊臣秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに
薩摩国に落ちのびたとする生存説があります。

【愛用の刀槍】
現在のところ、
真田信繁の愛用の刀槍が
何であったのかは不明とのことです。

講談や軍記物語では、
真田信繁の愛槍は
「十文字槍」とされています。
これは両鎌槍を強化して
作られた細めの槍とのこと。
槍の柄は朱色に塗られ、
真田の赤備えに恥じぬ
名槍であったと講談や
軍記物語では語られています。
大坂夏の陣図屏風に描かれた真田信繁も
十文字槍を握っています。

【愛刀】
信繁の愛刀についても、
刀は正宗、脇差しは貞宗、
とする話が有名ですが、
これは歴史書というよりも
歴史小説に近い明治初期の
「名将言行録」(明治2年(1869年))
に登場する説であるとのことです。
他にも、村正の大小を
帯びたという説が有名とのことですが、
こちらは噂の出処が比較的古く、
徳川光圀の家臣が
元禄14年(1701年)12月に
著した徳川光圀の言行録
「桃源遺事」まで遡ることが
できるとのことです。
なお、実際に村正を
大小で愛用していたのは、徳川家康でした。
尾張徳川家に伝来した
由緒正しいものがあり、
大小のうち村正の脇差は
大正時代に売却されましたが、
徳川家康愛用の村正の打刀は
徳川美術館が所蔵し、
今も展覧会などで観ることが可能です。
真田信繁の兄の真田信之の家系である
松代藩真田家には、
村正の弟子の千子正重の刀が
伝来していました。
ただし真田信之のものかは不明です。
真田信繁が村正を所有していたとしても
時代考証的に不自然ではないことになります。
ただし、徳川家に祟るとする妖刀伝説が
発生したのは徳川家康の死後となります。




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【墓所・遺品】
【墓所
真田信繁の墓所
(正確には供養墓・供養塔)は、
以下の複数が確認されています。

<龍安寺塔頭大珠院>
(京都府京都市)
真田信繁の七女おかねの夫、
または舅である石川貞清(宗林)は、
竹林院を始めとする
真田信繁の遺族を
援助したことでも知られ、
龍安寺に信繁夫妻の墓を建立しました。
この墓は鏡容池の弁天島に
現存するとされますが、
非公開となっています。

<妙心寺塔頭養徳院>
(京都府京都市)
真田家系譜に
「御葬地不詳御石牌京都花園妙心寺塔頭養徳院に有り」
とありますが、非公開です。

<田村家墓所>
(宮城県白石市)
田村家出身の片倉定広
(田村清顕の甥宗顕の子)
に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、
田村家の墓所に墓が建立されました。

<長国寺>
(長野県長野市)
松代藩真田家の菩提寺。
真田信繁と嫡男の幸昌の供養塔があります。

<孝顕寺>
(福井県福井市)
西尾宗次は、自家の菩提寺に
首塚を建立しました。
(首塚の上に安置されていた通称「真田地蔵」は、
西尾家の子孫が
福井市立郷土歴史博物館へ寄贈し保存)
ただし実際に首が埋葬されたかは不明です。

<妙慶寺>
(秋田県由利本荘市)
四女・御田姫(顕性院)が
真田家(信繁系統)の
菩提寺として建立した寺。
墓はないですが位牌が残されています。

<心眼寺>
(大阪府大阪市)
真田丸所在地に真田信繁の菩提を
弔うため創建された寺です。
2014年の信繁四百回忌に
合わせて墓碑が建立されました。

また、逃亡伝説に基づいた墓所も
全国に点在しています。

<薩摩半島頴娃の伝真田幸村の墓>

<田原家私有林墓石>
(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区)
真田幸村(伝承のまま)は大阪の陣の後、
島津の軍船で鹿児島に逃れ、
谷山(今の鹿児島市谷山地区)に上陸。
鹿児島では幸村は
芦塚左衛門と名乗ったとのことですが、
現地の者は、幸村を芦塚大左衛門、
その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、
孫を芦塚小左衛門と
区別していたとのことです。
その後、豊臣秀頼を谷山においたまま、
尾根伝いに揖宿郡頴娃村
(今の南九州市頴娃町)に潜入し、
(牧ノ内)雪丸に居を構え住んだとのこと。
その名残として墓が
立てられたとのことですが、
その墓には何の刻印もないとのこと。
幸村は、頴娃村摺木の百姓娘との間に
隠し子をもうけましたが、
徳川幕府の追及を逃れるため、
その娘を(別府)大川の浦人に嫁がせ、
生まれた子は瓢左衛門と名づけられたとか。
その子孫は幕末になって
名字帯刀を許され、真江田姓を称し、
(別府)大川の真江田家・難波家の墓には
六文銭が刻まれているとのことです。

<お篭もり堂>
長崎県南島原市西有家町)
ここには、「真田幸村の墓」
(伝承のまま)とするものがあり、
大助幸昌の子孫とされる
山田芦塚家の墓は
雲仙旧山田村牧之内にあるとのことです。

<一心院>
(秋田県大館市)
大坂の陣では死なずに、
島津を頼って鹿児島に
落ち延びたとする伝説に由来しています。
島津家が徳川に恭順したため、
その後は各地を放浪。
寛永2年(1625年)から
四女御田姫の嫁ぎ先の実家である
佐竹家に庇護され大館に住み、
寛永18年(1641年)に
75歳で没したと伝えられています。
なお嫡男大助の墓もあるとのことです。

【遺品】
<六十二間小星兜>
(井伊美術館所蔵)
大坂の陣で着用していたと
伝わる鎧兜があります。

【妻子】
真田信繁には多くの子供がいました。
しかしながら、九度山へ幽閉される以前は
女児しかおらず、
嫡男の大助(真田幸昌)は
幽閉地の九度山で生まれています。
幸昌は大坂城にて
子を残さぬまま自害したため、
真田氏におけるこの系統は絶えました。
三男の三好幸信が生まれたのは
慶長20年の7月であり、
真田信繁はこの2か月前に
討ち死にしています。
ただし、庶流には以後も系譜がありました。

次男の大八(真田守信)は
伊達家重臣で後に
三女阿梅の夫となる片倉重長の元で
姉達と共に保護され、
後に元服し片倉守信となりました。
これが仙台真田家として
現在も続く事となります。




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【印象的な「真田信繁」役】
ドラマの中での
「真田信繁」といえば
何といっても主人公となった
2016年の
NHK大河ドラマ「真田丸」で
演じられた堺雅人さんでしょう。
実生活では兄であり、
佇まいやインタビュー等でも
実は弟「信繁」より兄の「信幸」の方が
イメージ的にしっくりするような気がしましたが、
信繁は普段は前述の記載の通り、
柔和で辛抱強く、
物静かで怒る様なことは無かったという
落ち着いていた性格、との人柄が
伝わっているので
「頼れる弟」像として
「真田丸」の「信繁」を
作り上げていったことと思います。
あとは何といっても
1985年のNHK新大型時代劇
真田太平記」で「真田幸村」役を
演じられた草刈正雄さんですね。
頼れる存在でイケメンで爽やかで、
性格も良しといった
非の打ち所がない完璧な「幸村」を
演じられました。
そして「お江」という神出鬼没な
忍びの美女とのロマンス。
やがて二人の間柄は唯一無二となります。
その分正妻「竹林院」が可哀そうでしたが、
その「うっぷん」(?)は
「真田丸」での「竹林院」役の
松岡茉優さんが晴らしてくれました。
「真田丸」では最後の最後で結ばれた
高梨内記の娘で役名「きり」ちゃんは
実際は真田信繁の娘を産んでいます。
しかも正妻の子供より前に、です。

ドラマで信繁ときりちゃんがやっと(?)
心が通じ合い抱擁及び口づけした
シーンがあるのですが、
有働さんのナレーションがかぶさり、
ああ、こうして活き活きとしていた
きりちゃんは文献の中の
「高梨内記の娘」という
文字に還っていくのだと思い、
寂しくなりました・・・。

2023年NHK大河ドラマ
どうする家康」では
日向 亘(ひゅうが わたる)さんが
演じられます。

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