【小山城】
小山城(おやまじょう)は
栃木県小山市城山町
(下野国都賀郡小山)にあった日本の城です。
別名は祇園城(ぎおんじょう)とも。
地元では主に祇園城と呼ばれているとのことです。
城跡は「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」
の1つ祇園城跡の名称で
国の史跡に指定されています。
また、関東の富士見百景の一つに
選ばれているとのことです。
【別名】
祇園城
【城郭構造】
平城
【築城主】
小山政光
【築城年】
久安4年(1148年)
【主な改修者】
北条氏
【主な城主】
小山氏、北条氏、本多正純
【廃城年】
元和5年(1619年)
【遺構】
曲輪、空堀、土塁、馬出し
【指定文化財】
<国の史跡>
「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」
の1つとして。
【城の歴史及び概要】
【築城と小山氏の始祖】
小山城は、久安4年(1148年)に
小山政光によって築かれたとの伝承があります。
小山氏は武蔵国に本領を有し
藤原秀郷の後裔と称した
太田氏の出自で、
政光がはじめて下野国小山に移住して
小山氏を名乗ったとのことです。
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【鎌倉時代~南北朝】
小山城は中久喜城、鷲城とならび、
鎌倉時代に下野国守護を務めた
小山氏の主要な居城でした。
当初は鷲城の支城であったとのことですが、
南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、
小山氏代々の本城となったのでした。
【室町時代】
【小山義政の乱】
康暦2年(1380年)から
永徳2年(1383年)にかけて
起こった小山義政の乱では、
小山方の拠点として
文献資料に記された鷲城、岩壺城、
新々城、祇園城、宿城のうち
「祇園城」が小山城と考えられています。
小山氏は義政の乱で鎌倉府により
追討され断絶となりましたが、
同族の結城家から養子を迎えて再興しました。
【戦国時代】
【北条氏照に降伏】
その後は、代々小山氏の居城でしたが、
天正4年(1576年)に
小山秀綱が北条氏照に降伏して開城し
小山秀綱は佐竹義重を頼り逃亡し、
ここに400年続いた関東の名門、
小山氏は滅亡したのでした。
北条氏照の手によって改修され、
北関東攻略の拠点となったのですが、
天正10年(1582年)5月18日、
織田信長の惣無事令により、
織田信長の家臣である滝川一益の仲介の下、
北条氏照から祇園城を返還されました。
【北条氏の家臣として】
けれども、この和睦には
北条氏への帰属が条件として含まれており、
小山秀綱もその一配下となることで
小山復帰が認められたのでした。
しかも北条氏の家臣が小山に滞在するなど、
以前のような権力を持つことは
できなかったのでした。
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【結城秀康に従う】
小田原征伐ののち、
北条氏は没落し、
小山氏の旧領は結城晴朝に
与えられました。
小山秀綱は結城晴朝の
養子である結城秀康に
従うことになりました。
小山秀綱は小山氏の再興を
運動したものの果たせず、
小山政種、小山秀広ら
息子たちに先立たれ
失意のうちに病死したとのことです。
【廃城】
慶長12年(1602年)頃、
本多正純が相模国玉縄より入封しましたが、
本多正純は元和5年(1619年)に
宇都宮へ移封となり、
小山城は廃城となりました。
【子孫は水戸藩士】
小山氏の家督は小山秀綱の後は
孫の小山秀恒が継ぎ、
その小山秀恒の嫡男である
小山秀泰は水戸徳川家につかえました。
小山秀泰の後は弟の小山秀堅が継ぎ
寛文年間に水戸藩士として
取り立てられ後に家老となりました。
子孫も代々水戸藩上級藩士になり、
現在に至っているとのことです。
【明治時代】
明治時代には第二代衆議院議長であった
星亨の別邸が建てられましたが、
現存してはおらず、発掘調査で
礎石と思われるものが
確認されたとのことです。
【祇園城の名の由来】
なお別名である祇園城は
小山氏の守護神である
祇園社(現須賀神社)から
とったものであるとのことです。
【現在の小山城】
小山城のあった場所は、
現在は城山公園となっています。
すぐ近くにある小山市役所の
正面入り口前の駐車場に
「小山評定跡」石碑と由来碑が
設置されています。
各曲輪はいずれも空堀によって
隔てられており、土塁、空堀、
馬出しなどの遺構が明瞭に
残っているとのことです。
また遺構は隣接する
天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、
空堀や土塁が確認できるとのことです。
城山公園の南側には
小山御殿跡(元和8年)があり、
平成27年に再整備され
小山御殿広場となっています。
なお国史跡の範囲に含まれています。
【実無しイチョウ】
城跡内には実無しイチョウという古木があり、
小山市の天然記念物、
とちぎ名木100選に選定されています。
【文化財指定】
1991年3月12日、
小山城跡は「祇園城跡」として
鷲城跡とともに国の史跡に指定されました。
指定名称は「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡」です。
その時点では祇園城跡の南久保曲輪の土塁の一部、
また、鷲城跡の本丸の一部が未指定でした。
2001年8月7日、
両城跡の未指定部分を追加するとともに、
あらたに中久喜城跡を追加指定して、
史跡指定名称を
「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡 中久喜城跡」
に改めました。
また2016年3月4日には、
小山市民病院での発掘調査における出土品が
「祇園城跡小山市民病院地点出土品」として
栃木県指定有形文化財に指定されています。
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【交通アクセス】
(電車)
JR東北本線「小山」駅から徒歩約10分
(車)
東北自動車道「佐野藤岡IC」
【駐車場】
城山公園駐車場(無料)
<注意事項>
現在城山公園は再整備の工事中です。
当初は2023年度中に
完成予定とのことですが
まだ工事中とのことです。
<閉鎖箇所>
公園南部(本丸・二の丸エリア)
<閉鎖期間>
令和6年(2024年)年3月迄
【所在地】
〒323-0025 栃木県小山市城山町1丁目1
【小山政光と寒河尼像】
【所在地】
〒323-0023 栃木県小山市中央町1丁目2
※思川沿いにあります。
【小山政光】
小山 政光(おやま まさみつ)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての武将・御家人です。
小山氏の祖となります。
下野国・国府周辺に広大な所領を有し
下野最大の武士団を率いていました。
【生誕・死没】
不明
【別名】
小山四郎、小山下野大掾、大掾政光
【官位】
正七位下・下野大掾
【幕府】
鎌倉幕府
【主君】
源頼朝
【氏族】
藤原北家秀郷流小山氏
【父】
太田行政または太田行光
【兄弟】
政光、下河辺行義
【妻】
後室:八田宗綱娘・寒河尼、ほか
【子】
朝政、吉見朝信、長沼宗政、
結城朝光、久下重光、島田政照
【養子】
吉見頼経、
宇都宮頼綱(宇都宮業綱子)
【生涯について】
武蔵国・在庁官人で
藤原秀郷の直系子孫と称する
太田行政の子(または孫)として誕生しました。
当初は太田政光を名乗っていたとのことです。
政光は久安6年(1150年)頃、
下野小山荘に移住し、小山氏の祖となりました。
後室で三男・朝光の母である
寒河尼は源頼朝の乳母を務めた女性です。
【源頼朝の御家人になる】
治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵の際、政光と嫡子・朝政は
大番役として在京していましたが、
源頼朝の乳母であった
後室である寒河尼が
元服前の朝光を伴って
10月に房総で再起した
源頼朝の宿所を訪ねています。
夫の不在中は妻が権限を持つのが
当時の慣習であり、
これによって在地にあった
小山氏の武士団は
源頼朝方に立つことになりました。
以降、息子達と共に
源頼朝の御家人となったのでした。
【「大名」武士を説く】
文治5年(1189年)7月の
奥州合戦で奥州へ向かう道中、
下野の宿舎で小山政光が
源頼朝の接待をしていた時、
源頼朝の前に熊谷直実の子・直家が
祗候していました。
小山政光が何者か尋ねます。
すると源頼朝は
「この者は本朝無双の勇士の
熊谷小次郎直家である」と紹介したとのこと。
小山政光がなぜ無双と称するのか問いますと、
「一ノ谷の戦いを始めとする
平家追討の戦場で父と共に
度々命がけで戦ったからである」
と褒めたとのことです。
が、小山政光はこれに対して
大いに笑って
「君(頼朝)のために命を捨てるのは、
直家に限ったことではありません。
ただし、このような者はろくに
郎党を持てないために
自分で勲功をあげ、
高名手柄にするしかないのでしょう。
政光のごときは、
ただ郎党を派遣して
忠を尽くすだけです。
皆の者、今度の戦では
先頭に進んで自分自身で
手柄を立てて、
本朝無双の勇士と
褒めていただこうではないか。」
と息子らに命じたとのことです。
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これは家人の高名が
そのまま自己の戦功となる
大領主の「大名」武士と、
自身で戦功を立てるしかない
「小名」武士の違いを
示す例として知られているとのことです。
没年は不明ですが、
正治元年(1199年)以前に
死去しているとのことです。
藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。
寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。
源頼朝公上陸地の碑と矢尻の井戸と洲崎神社~館山市洲崎、「義経記」に書かれています。
源頼朝上陸地の碑と神明神社~ 安房郡鋸南町竜島、吾妻鏡に記載されています。
中久喜城~平安末期に小山政光が築城、小山氏城跡として国の史跡に指定されています。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。
網戸城と寒川尼墓~網戸郷の地頭となった寒河尼と築城した孫の網戸朝村。
長沼宗政~結城朝光の兄で「荒言悪口の者」と評された暴れん坊ですが所領も沢山ありました。
白川城(搦目城) ~国の史跡で築城は伝・結城祐広であり、白河結城氏の旧本拠地でした。
御城~梶原景時の六男である梶原景則が築城したとの伝承、近くには梶原氏の菩提寺があります。
赤見城~藤姓足利氏である足利俊綱が平安時代末期に築城、戦国期は赤見氏の城で400年の歴史があります。
宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町
北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。
結城秀康~徳川家康の次男、父から冷遇され兄の信康の計らいで対面を果たし、秀吉、結城氏の養子となる。
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