【栗原氏館跡】
築城年代は定かではありません。
応永年間(1394年〜1428年)に
栗原武続によって築かれたといわれております。
栗原氏は武田信成の子である武続が
東郡栗原郷を領して
栗原氏を称したことから
始まったとのことです。
のち栗原氏は甲斐東部に勢力を得ます。
その勢力は一時期、
甲斐守護と同等のものであったとのことです。
室町時代後期、甲斐統一を図る
武田信虎に対しては
大井・逸見氏らとともに
抵抗を続けましたが、次第に
武田信虎家臣団に
組み込まれていったとのことです。
武田信虎によって
甲斐国内が統一される過程で
栗原氏も武田氏に従い、
栗原伊豆守信友、
栗原左衛門佐昌清などが
武田信虎・武田信玄父子に従って
活躍したとのことです。
栗原氏館は大翁寺一帯に
築かれていたとのことです。
隣接する海島寺・妙善寺・大法寺などの辺りも
館跡に含まれていた可能性があるとのことです。
なお、栗原氏館の要害は
南東に位置する蜂城とする説があるそうです。
遺構は土塁などの一部が
残存しているとのことですが、
竹藪に覆われており、不明確となっているそうです。
大翁寺の入口に案内板が設置されています。
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【遺構】
土塁
【所在地(大翁寺)】
〒405-0023 山梨県山梨市下栗原1348
<栗原氏館跡・案内板>
〒405-0023 山梨県山梨市下栗原1351
【最寄り駅】
JR「山梨市」駅
駅から徒歩42~50分程度。
車では駅から7~8分程度。
※「塩山」駅南口より途中まで
バス運行との情報アリ。
本数はかなり少ない。
「ワインコース(平日)1」
バス停「飯綱神社」下車、徒歩20分強とのこと。
(グーグルマップより、2023年3月調べ)
もう一つのバスルートがありますが、
乗り継ぎを要し、しかも
かかる時間は「山梨市」駅から
徒歩でいくのとほぼ一緒のため
割愛しました。
【栗原氏】
栗原氏(くりはらし)は、日本の氏族です。
室町・戦国時代の甲斐国の国衆で、
武田氏の支族となります。
諸系図に拠りますと、栗原氏は
甲斐守護・武田信成の子である
栗原武続(十郎、重郎)を祖とし、
東郡栗原郷(現在の山梨市下栗原)に拠り
栗原氏を称したとのことです。
【室町時代の栗原氏】
室町時代には嘉吉元年(1441年)9月の
嘉吉の乱に際して栗原信通が
西郡の国人・大井氏とともに
甲斐守護・武田信重に随行して
上京しています。
また、武田氏と守護代・跡部氏の抗争では
跡部氏に通じていたと考えられています。
【戦国時代の栗原氏】
戦国時代には甲斐国の有力国人として
武田氏の甲斐統一に抵抗し、
武田信昌の子息である
守護・武田信縄と油川信恵の
対立においては「栗原大輔」が
油川信恵方に加担しており、
これは栗原信遠に比定されるとのことです。
武田信縄・油川信恵の対立は
明応7年(1498年)に
武田信縄方優位のもと和睦が成立します。
明応10年(1501年)2月27日には
栗原氏の一族が粛清されてしまいます。
「高白斎記」によりますと、
同日に武田信縄方の「栗原式部大輔」
(栗原信友、栗原伊豆守か)が
家督を相続したと考えられているとのことです。
【武田信玄の時代の栗原氏】
武田氏の譜代家老として
栗原伊豆守の活動が見られるとのことです。
系図類によりますと、
同じ伊豆守を称する
栗原信友の子息・栗原信重に
あたると考えられているとのことです。
「甲陽軍鑑」に登場する
「栗原左兵衛」とする説もあるそうです。
伊豆守の初見は
永禄11年(1568年)3月で、
伊豆守は武田勝頼に
今川義元の生母である
寿桂尼の死去を伝え、武田勝頼が
出陣中の武田信玄に
これを伝えているとのことです。
さらに同年8月に伊豆守は
武田氏の駿河侵攻に際して
いずれかの城の普請を命じられています。
永禄末年に推定されている
武田信玄陣立書では
旗本に属しているとのことです。
天正3年(1575年)8月には
織田氏・徳川氏に対して
信濃伊那郡・木曽郡の防備のため
日向玄徳斎(虎頭)・小山田昌盛とともに
伊那の大島城(長野県下伊那郡松川町)へ
派遣されているとのことです。
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【武田氏滅亡時の栗原氏】
天正10年、主家の武田氏が
織田信長の甲州征伐で滅ぼされます。
栗原信盛が天正壬午起請文に登場し、
徳川家康により本領が安堵されたとのことです。
【江戸時代の栗原氏】
栗原氏末裔の栗原半兵衛という人物が、
二木村(入間市)に在住との
記録があるそうです。
(新編武蔵風土記稿)
【栗原氏の菩提寺】
「一蓮寺過去帳」には
栗原氏の一族37名の名前が
入帳されていることです。
【栗原郷】
栗原郷の一帯には
栗原氏の菩提寺が分布しております。
上栗原には海島寺、中栗原には養安寺、
下栗原には大翁寺が所在しています。
特に養安寺と大翁寺は
栗原氏の館跡に創建された
寺院であるということです。
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