【檜原城】
応永20年(1413年)、
当時の鎌倉管領の足利持氏が
源平の合戦で花形であった
平山武者所(平山 季重)の後裔である
平山三河入道正泰に命じて
築城させたと伝えられています。
平山氏は日奉(ひまつり)氏
及び西党に属していました。
当時は現在の日野市平山に居館を構え、
日の出町の平井や大久野も
支配していた模様です。
また吉祥寺にも居館を
構えていた模様です。
やがて鎌倉幕府は滅び
足利時代となりました。
小田原城は伊勢盛時(北条早雲)に
奪われるとともに北条氏が
関東を掌握しました。
戦乱の世となり、北条氏は
武田勢が通行困難な笹子峠を避けて
山伝いに檜原の浅間尾根を通って
侵攻してくると考え、
檜原谷を塞ぎ守るため
檜原城の備えを固めたとのことです。
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又、北条氏は小田原城を本城として
支城を置き、さらに各所に
出城を設けていました。
檜原城もその一つとして
位置づけられ「境目の城」として
重要視されていたとのことです。
檜原城の落城については、
新編武蔵風土記稿では、
「天正の頃は平山伊賀守氏重の子
新左衛門が居住していた。
北条家没落の際この城も敵のため陥り、
父子はこの村の千足という所で
天正18年(1590年)7月12日自刃した。」
とあるとのことです。
また、千足には平山氏重にまつわる
「千足の草鞋」「源五郎岩」「綾滝」
などの伝説が残されている
とともに、御霊檜原神社には
平山氏重が祀られています。
檜原城は滝山城主である
北条氏照の家臣として
平山綱景、平山氏重などが
城主をつとめました。
甲州への抑えとして
重要な役割をになっていたようです。
滝山城に入った北条氏照の家臣として、
檜原衆を率いた平山氏重、
幸神屋敷の館主・平山綱景(平山善九郎)の兄弟、
また、青梅藤橋城の平山光義も、同族のようです。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉が大軍を率いて
関東へ押し寄せると、
平山氏重は檜原城に籠城し、
八王子城から逃れてきた横地景信らと
合流して防戦しました。
檜原城の必殺の石落としは
十兵に値すると「一石十兵の檜原城」
と讃えられた堅固な城でしたが、
それはあくまでも甲斐方面に向けての
守備構造でした。
従って東から攻めた
豊臣勢の大軍には
太刀打ちできなかったとされています。
当時、圧倒的に優勢な豊臣勢に
包囲され無血開城した
北条勢の城も多く、
7月に入ると小田原では
開城に向けた交渉がされ
7月9日には
北条氏政や北条氏照も
小田原城から出ていましたが、
そうした状況下でも
檜原城主の平山氏重は
徹底抗戦をし、
城下の北の千足にあった
「千足のかくれ岩」で
悲壮な自刃を遂げたとのことです。
やがて1590年7月12日、
落城し、北条氏の滅亡とともに、
檜原城は廃城となりました。
なお前日の7月11日には
北条氏政や北条氏照が
切腹した日となります。
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一方、横地吉信は、
檜原村に落ち延びる途中に切腹、
または、平山氏重の子・平山氏久と一緒に、
浅間尾根を辿って
奥多摩の小河内に落ちていったなど、
諸説あります。
平山氏重の弟である
平山綱景(平山左衛門尉綱景)は、
八王子城・太鼓郭を守備していて
総攻撃を受け討死しています。
現在も城址には
堀切や竪堀などの遺構を確認でき、
平時の居館跡と考えられている吉祥寺には
北条氏の家紋を見ることができるとのことです。
【その後の平山氏】
平山氏はこれにて没落しましたが、
平山氏久は僧となって
落武者狩りを逃れ奥多摩に潜伏し、
のちに子孫が北檜原の茗荷平を
開拓したと言うことです。
【縄張形態】
山城
【標高(比高)】
452m(200m)
【築城主】
平山氏
【築城年】
室町時代
【主な城主】
平山氏重
【遺構】
曲輪、堀切、竪堀、土橋
【指定文化財】
都史跡
【交通アクセス】
(電車)
JR五日市線「武蔵五日市」駅から
西東京バス「数馬行き」に乗り
「本宿役場前」バス停下車、登山口まで徒歩約5分
※バス運行については最新情報をご確認下さい。
(車)
中央自動車道「八王子」ICから約30分
【駐車場】
吉祥寺参拝者駐車場
<吉祥寺・所在地>
〒190-0200 東京都西多摩郡檜原村485
【檜原城・所在地】
〒190-0200 東京都西多摩郡檜原村5575-1
【平山季重】
平山 季重(ひらやま すえしげ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の
武蔵七党の一つ西党(日奉氏)の武将です。
平山直季の子。
多西郡舟木田荘平山郷
(現東京都日野市平山)を領し、
院武者所に伺候したため
平山武者所と呼ばれました。
武蔵国平山
(平山城址公園駅付近)で生まれました。
保元元年(1156年)の
保元の乱で源義朝に従い、
平治元年(1159年)の平治の乱では
源義朝の長男源義平に従い、
待賢門での戦闘で
平重盛の軍勢500騎に
17騎で戦いを挑みました。
源義朝の敗死後は平家に従い、
在地領主として
平穏な日々を過ごしていました。
けれども承4年(1180年)に
伊豆国に流罪となっていた
源義朝の遺児である源頼朝が
挙兵するとそれに従い、
その弟である源義経に従って
富士川の戦い、
佐竹氏征伐にも従軍しています。
特に佐竹氏征伐の
金砂城の戦いでは
同僚の熊谷直実とともに
抜群の戦功を挙げたとのことです。
寿永3年(1184年)、
平山季重は源義経率いる
木曾義仲追討軍に従い上洛。
宇治川の戦いで根井行親、
楯親忠を撃破して京都へと入りました。
同年の一ノ谷の戦いでは
源義経に従って、
奇襲部隊に参加しました。
同僚の熊谷直実とともに
一ノ谷の平家軍に突入して、
勝利のきっかけを作りました。
翌元暦2年(1185年)の屋島の戦い、
壇ノ浦の戦いでも
常に先陣を切って、
勇猛果敢に戦いました。
戦後、後白河法皇によって
右衛門尉に任ぜられましたが
無断での任官であったため、
これが源頼朝の怒りを買いました。
「吾妻鏡」に他の無断任官者と共に
「平山季重、顔はふわふわとして、
とんでもない任官である」と
源頼朝に罵られた記述が残っています。
また、この頃に
筑前国三笠郡原田荘の
地頭職を得ています。
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文治5年(1189年)には
奥州合戦に息子の
平山小太郎重村と参戦。
そこでも戦功を挙げ、
鎌倉幕府の元老として
取り立てられています。
建久3年(1192年)の
源実朝誕生の際、
鳴弦の大役を務めています。
建暦2年(1212年)に
病没とされていますが
詳細は不明です。
【武蔵七党・西党の一族】
平山氏は日奉宗頼を始祖とする
武蔵国西党の一族であり、
日奉宗頼は京都から
武蔵府中に国司として赴任。
任期終了後も帰国せず土着しました。
平山直季(平山八郎直季)は
平山季重の父であり、祖父は宗綱です。
平山氏は平安時代の末期に
現在の東京都日野市の地区で栄えました。
その為、地元である
東京都日野市の市立平山図書館には
構内に平山季重遺跡の碑があり、
1851年に建てられたとのことです。
八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。
北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。
北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。
滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。
高月城~滝山三城の一つ、築城は武蔵国の守護代・大石顕重で後に大石氏は北条氏の家臣となります。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。
武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。
網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性があります。
武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。
武蔵・引田城~甲斐武田氏家臣で北条氏の庇護を受けた志村景元の居城でした。
阿伎留野城~武州南一揆の三宮氏(三内氏)が築城との推定、南一揆の統率者は平山氏、小宮氏、梶原氏など。
武蔵・小川城 (宝清寺)~築城は武蔵七党・西党の小川氏で寺の開基は甲斐武田氏縁者の青木氏。
横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。
源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。
伏見広綱~源頼朝の有能な右筆、のハズが頼朝の兄嫁への恋文の使いと亀の前を匿って遠江に流罪となりました。
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