城跡

二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?

二宮神社並びに城跡 (あきる野市)



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【二宮城】

京都あきる野市にある
二宮神社(にのみやじんじゃ)は、
武蔵国二宮で、
別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。
古くは「小河大明神」
または「二宮大明神」とも称されていました。
創立年代は不詳です。
「和名抄」に記されている
武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、、
「小河大明神」とも称されました。

<ご祭神>
国常立尊 (くにとこたちのみこと)

古記録によりますと、
藤原秀郷が生国の
山王二十一社中の二宮を
崇敬する縁故をもって
特に当社を崇敬し、
天慶の乱に際し
戦勝祈願をこめ、
乱平定の奉賽として
社殿玉垣を造営したとあります。

源頼朝北条氏政も崇敬篤く、
ことに北条氏照滝山城主となって、
同氏の祈願所としました。
のち、神殿・神宮宅は罹災し、
記録の大半が焼失してしまいました。

一方、鎌倉時代には
当地付近に大石氏中興の祖とされる
大石信重が城館を構え、
5代にわたって居城としたとの
記録があります。

この「二宮城」の所在を探るため、
昭和47年(1972年)に
二宮神社境内の一角が
発掘調査されましたが、
関係する資料を得ることはできず
此定地から除外されました。
けれども、この発掘調査では、
寺院に関係する小型の
金銅製薬師如来像や
中世の瓦が発見され、
新たな謎を呼んでいるとのことです。
特に、薬師如来像は
小河大明神の御正体と
推測されています。
あきる台地の先端部分に
位置しており少し高台になっており、
昭島市や立川市方面の眺めがよいです。
二宮神社(あきる野市)からの眺め
参道の石段を降りて道路を渡った反対側には、
二宮神社の「お池」があり、
豊富な湧出量を誇る
清らかな湧き水が満々とたたえられ、
「千人清水」と名付けられた
小川が勢いよく流れ出しています。
故に「小河大明神」と称されたのでしょう。




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なお二宮神社のこの「お池」は
別名として「あきる野市のモネの池」と
称されているとのことです。

秋留台地の東端部という
高台にあり、近くには
貴重な水源があり、
この場所にかつて
「二宮城」があったとしても
地形上、十分に納得がいきます。
1983年にも発掘調査が
行われ、その時には
二宮神社の東側段丘上の
「御屋敷」と呼ばれる地点から
14世紀のものとみられる
豪族居館跡が発掘されています。
二宮神社(あきる野市)境内
また1982年には
法林寺館から
北に300m程の場所にある
造成された新興住宅地で
発掘調査が行われ、
戦国時代のものとみられる
建物跡が発掘されたため、
現在はその地も
二宮城の最有力候補と
なっているとのことです。
二宮神社並びに城跡
なお、法林寺館から
西に300~400mの場所に
武蔵・小川城(宝清寺)があります。

【二宮神社】
二宮神社は武蔵国の二宮
であったとされています。
「神道集」「私案抄」にみられる
「武州六大明神」の一角に数えられています。
この六社のうち唯一、
式内社ではありません。
現在も武蔵国総社・六所宮
(現・大國魂神社)の一座に
祀られているほか、
周辺の地名は「二宮」と称されています。

天正19年(1591年)、
徳川家康より朱印15石を受け、
以後、代々継承されてきました。
現在の本殿は、
江戸時代に建立されたといわれています。
明治3年(1870年-1871年)、
現社名に改称しました。

<本殿>
三間社流造で、江戸時代の造営です。
内部には室町時代造営の宮殿
(市指定文化財)が納められています。

<拝殿>
二宮神社 拝殿(あきる野市)

<お池>
参道の石段を降りて
道路を渡った反対側には、
二宮神社の「お池」があります。
豊富な湧出量を誇る
清らかな湧き水が満々とたたえられ、
「千人清水」と名付けられた小川が
勢いよく流れ出しています。
この湧水は同市の八雲神社の
湧水とともに、
東京都選定
「東京の名湧水57選」
のひとつに数えられています。

お池の中には1990年、
菅野遊邦作の「雨乞いの男」という、
座って横笛を吹いている
男の像があります。
これは昔、
ここで雨乞いをしていたという
言い伝えに基づいて
制作されたものであるとのことです。




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<摂末社>
いずれも境内末社。
◆伊勢神社
◆八幡神社
◆八雲神社
◆天神社
◆稲荷神社(同名2社)
◆荒波々伎神社
境内社のアラハバキ社は
お正月の期間だけお社の扉が開き、
貴重なアラハバキ神の御神体を
拝むことが出来ます。

◆諏訪神社
◆社宮社

<祭事>
<年間祭事>
<毎月>
月次祭 (1日・15日)
<1月>
元旦祭 (1月1日)
門神祭 (1月2日)
筒粥ノ神事 (1月15日)
天神祭 (1月25日)
伊勢神社祭 (1月28日)
<2月>
節分祭 (2月節分の日)
初午祭 (2月初午の日)
紀元祭 (2月11日)
<4月>
春祭(祈年祭) (4月8日前後日曜)
氷雨祭 (4月8日前後日曜)
社宮祭 (4月8日前後日曜)
天長祭 (4月29日)
<6月>
大祓 (6月30日)
<7月>
馬場洗ノ神事 (7月15日)
天王祭 (7月15日)
諏訪祭 (7月27日)
<9月>
風祭 (9月1日)
例祭(しょうが祭) (9月9日)
八幡祭 (9月15日)
<11月>
文化祭 (11月3日)
秋祭(新嘗祭) (11月23日)
<12月>
大祓 (12月31日)

<例大祭(生姜祭り出店)>
9月8日宵宮・9月9日本祭で、
通称「しょうが祭」。
神饌として、しょうがを
奉納するならわしがあります。
祭礼当日は参道に
しょうがを売る店が立ち並び、
しょうがを買う多数の参拝者でにぎわいます。
神輿の渡御、地元有志による子供歌舞伎、
芸能の夕も催され、夜は境内で神輿をかつぎ、
東京で唯一の農村歌舞伎を
伝承している
秋川歌舞伎
(農民歌舞伎・都指定無形民俗文化財)
が上演されるとのことです。

2022年は縮小開催とのこと。
(唐櫃渡御、お囃子、生姜の販売のみ)

大國魂神社の例大祭
「くらやみ祭」(5月)では
二宮神社が参加しています。

【所在地】
〒197-0814 東京都あきる野市二宮2252

【交通アクセス】
JR東日本五日市線「東秋留」駅 より
徒歩約5分。

【駐車場】
神社専用の駐車場はありません。
近くに有料のコインパーキングはあります。

【大石氏】

大石氏(おおいしし)は、日本の氏族。
清和源氏義仲流
(血統は藤原北家秀郷流とも)
と称した信濃国佐久郡大石郷の
大石氏は室町時代に関東地方で活躍し、
戦国時代には武蔵国の守護代となりました。

【信濃大石氏】
信濃国佐久郡発祥の氏族。
関東管領上杉氏のもと、
四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)
の一人に数えられ、
代々武蔵国の守護代を務めました。




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藤原秀郷の後裔
(沼田氏と同族とされる)といい、
信濃国佐久郡大石郷に
住んでいたことから、
大石氏を名乗ったといわれています。
また、これらとは別に
平安時代初期編纂の「新撰姓氏録」に
記される古代氏族にも
大石氏は存在しますが
詳しいことは定かではありません。

※忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助(良雄)とは
全くの別系統になります。
近江国栗太郡大石庄
(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司でした。

【関東管領の宿老】
室町時代初期、
大石為重は初代関東管領の
上杉憲顕に仕えました。
彼には男子がなく、
正慶3年(1334年に、
縁戚関係にある
木曾義仲の後裔と称した
大石信重
(木曽家教の三男、家村の弟)を
婿養子として迎え、
実際の藤姓木曾氏の
庶家となったということです。
木曽福島城と福島の町並み

【二宮城の築城】
大石信重は観応2年(1351年)、
挙兵した南朝方の新田義宗との
笛吹峠の合戦で先陣を勤めました。
その戦功として、延文元年(1356年)、
武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て
多摩に移住し、
二宮(現・あきる野市)に
館を構えたとのことです。
また、「武蔵国目代職」にも
任じられました。

浄福寺城の築城】
至徳元年(1384年)、
大石信重は浄福寺城
(現・八王子市下恩方町)を築城しました。
応永年間には叔父(養叔父)の
大石能重(為重の弟)が
武蔵・上野・伊豆各国守護の
上杉能憲に仕えて守護代を務めました。

高月城の築城】
長禄2年(1458年)、
大石顕重(大石信重の玄孫)が
高月城(現・八王子市高月町)を築城し、
二宮から本拠を移しました。
15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、
漢詩文集「梅花無尽蔵」巻六の
「万秀斎詩序」に、
武蔵国守護の家臣に、
木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、
武蔵国20余郡を掌握しているとの
記述があります。




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滝山城の築城】
大永元年(1521年)、
大石定重は高月城の北東1.5kmに
滝山城(現・八王子市丹木町)
を築城し本拠を移転しました。
滝山城跡 本丸からの眺め 多摩川

【上杉家と共に】
天文15年(1546年)、
関東に進出した北条氏康
河越夜戦で大勝します。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、
関東管領山内上杉氏
関東から追われ、
越後国の長尾景虎を頼ります。
河越合戦における敗戦をきっかけとして、
大石氏は北条氏の軍門に降り、
北条氏康の子である氏照を養子に迎えます。
一方、山内上杉氏に従った大石氏もいます。
大石綱元(庶流?)は、
上杉憲政に従い
越後国に入り、その後は
長尾氏(上杉氏)家臣となりました。
上杉景勝が会津120万石に
移封されると保原城を任されます。
大石氏は代々上杉家の要職を務め、
子孫には米沢藩で名奉行と言われた
大石綱豊などがいます。

【北条から徳川へ】
河越合戦における敗戦をきっかけとして、
北条氏により両上杉氏が
関東から消滅すると、
大石定久は北条氏康の三男である
北条氏照を娘である比佐の婿に迎えて、
自らは戸倉に隠居しました。
北条氏照が北条氏に復すると、
大石定久の実子である
大石定仲が家督を継ぎました。

小田原征伐により北条氏が没落し、
北条氏照の弟の北条氏規
河内狭山に移されると、
大石定仲と義弟(定久の養子)である
大石定勝の子孫は徳川氏に仕えました。
旗本や八王子千人同心
陪臣(一橋家の近習番衆)になった者もあり
明治に至ります。




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【近年の研究】
大石氏の本拠地は、
浄福寺城から高月城、
滝山城と本拠を移したと
伝えられてきました。
けれども実際の戦国期の古文書となる
小田原衆所領役帳に「油井領」とあり、
北条氏照発給文書にも
「由井衆」の名前が複数見られます。
従って大石氏の本拠地は
由井城であったこと、
上杉謙信小田原城を攻めたとき、
滝山近くを通過したのに
攻城戦が起きていない
(小田原城の戦い (1560年))など、
伝承と矛盾する問題が指摘されてきました。
このため、滝山城が築城されたのは
上杉謙信の侵攻後、
つまり北条氏照による築城とする
新説があります。
また、由井城については、
浄福寺城の別名と
推測されています。
また大石定久(道俊)と
北条氏照の間に大石綱周という
当主の存在が確認できます。
大石定久との関係については
同一人物なのか、親子なのか、
同族なのかは不明です。
北条氏照室の比佐は
大石綱周の娘であった
可能性があるとのことです。
また、綱周という名前から
北条氏綱の偏諱を
受けていると考えられるため、
大石氏は河越夜戦よりも以前、
北条氏綱の時代に
既に北条氏に降っていたとする説
があるとのことです。

八王子城~日本100名城で日本遺産となった関東屈指の山城、城主は北条氏照でした。

北条氏照~北条氏政の同母弟、文武両道で外交手腕に長けており、兄を補佐し盛衰を共にしました。

北条氏康~小田原北条3代目~相模の獅子 ・関東八州にその名を轟かした猛将は戦国随一の民政家。

北条氏政~小田原北条4代目~最大の領土を築くも、生きた時代と合わなかった慎重派で愛妻家で家族思い。

北条氏綱~小田原北条2代目~北条氏を名乗り、小田原北条氏の礎を築き、先進的な領国経営をした当主。

小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。

滝山城~続日本100名城、国の史跡で中世城郭の最高傑作の一つであり遺構がよく残されています。

高月城~滝山三城の一つ、築城は武蔵国の守護代・大石顕重で後に大石氏は北条氏の家臣となります。

武蔵・戸吹城(根小屋城)~滝山三城の一つで滝山城の支城群の一つ、崩落が進み関東一危険の城とも。

網代城~戸倉城と高月城を結ぶ 烽火台として築城された支城の可能性があります。

武蔵・戸倉城~築城は小宮氏で後に八王子城の支城として大石定久の隠居地の一つと伝わります。

檜原城~鎌倉武士の花形の末裔で武蔵七党・西党の一族の平山氏が築城、豊臣方には徹底抗戦しました。

幸神屋敷~平山左衛門尉綱景の屋敷とも土豪の幸神氏の屋敷跡とも伝わります。

浄福寺城~築城は大石氏で由井城の説あり、後に八王子城の出城として運命を共にしました。

由木城跡(柚木城跡)~大石氏館跡・大石定久公の像とお墓~永林寺にて

武蔵・村山城~福正寺の境内は武蔵七党・村山党の城跡・推定地、最後の当主村山土佐守義光。

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

上杉謙信について~越後の龍・49年の生涯~駆け足で超手短に!

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

武蔵・小川城 (宝清寺)~築城は武蔵七党・西党の小川氏で寺の開基は甲斐武田氏縁者の青木氏。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

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