【越前大野城】
大野城(おおのじょう)は
福井県大野市にあった日本の城。
明治までは大野藩の藩庁が置かれていました。
天守は昭和に建てられたものです。
2017年(平成29年)、
「続日本100名城」(138番)に選定されました。
スタンプ設置場所は越前大野城一階です。
【所在地】
〒912-0087 福井県大野市城町3−109
【形態】
梯郭式平山城
【天守構造】
複合連結式2重2階(非現存)
連結式望楼型2重3階(1968年 RC造復興)
【築城主】
金森長近
【築城年】
天正8年(1580年)
【主な城主】
金森氏、松平氏、土井氏ほか
【廃城年】
明治初期
【遺構】
石垣、堀
【指定文化財】
県指定史跡
【再建造物】
復興天守、門
【概要】
天正3年(1575年)、
金森長近は、織田信長より
越前一向一揆を平定した恩賞として、
越前国大野郡の内の3万石を与えられました。
その翌年、最初に居城とした
戌山城(犬山城)の近く
の亀山(大野盆地の小孤峰)に
城郭を築き始めたのが
越前大野城の始まりです。
築城には数年間を要したそうです。
その後、越前松平家が3代続いた後天領となり、
土井氏で定着するまで
目まぐるしく城主が替わっています。
城は安永4年(1775年)に焼失し、
寛政7年(1795年)、
天守を除いて再建されましたが、
明治維新後に破却されました。
2014年に有志による
「ラピュタの会」が結成され、
「天空の城 大野城」の
知名度向上に努めています。
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【利用案内】
<4月~9月>
【開館時間】
午前9時~午後5時
<10月~11月>
【開館時間】
午前6時~午後4時
※閉館30分前までに入館してください。
【休館期間】
12月1日~3月31日
【入館料】
大人:200円
(30名以上の団体様:100円 )
小人:無料 (中学生以下)
【遺構】
山頂の石垣および堀が現存しています。
山麓部にも内堀および
外堀の一部が残っています。
建造物としては、
<不明門>⇒市内中丁真乗寺山門
<櫓門であった鳩門の門部分>⇒光明寺山門
として、それぞれ移築され現存しています。
また、土井利忠公のの隠居所が
柳廼社社務所として移築現存しています。
【天守】
天守は、亀山の山頂にある
天守曲輪に建てられました。
本来は望楼付きの2重3階の大天守と
2重2階の小天守、
天狗の間(天狗書院)と
呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属されてた、
複合連結式の天守でした。
1795年に焼失して以降、
再建されることはありませんでした。
【復興天守】
現在山頂に建つ天守は、
1968年(昭和43年)に
元士族の萩原貞の寄付金を元に、
往時の絵図や創建当時の
同時期の他の城の天守を元に、
鉄筋コンクリート構造によって
推定再建されたものです。
しかし、小天守が天狗の間の位置に
建てられていることなど、
史実に基づいた復元再建ではありません。
復興天守の内部は、
金森氏や土井氏など
歴代の城主に関する資料
を展示した資料館として利用されています。
12月から翌年3月中旬頃までは
冬季のため閉館となっています。
<土井利忠公銅像>
土井利義の長男。
文政元年(1818年)、
8歳で家督を継ぎました。
天保13年(1842年)4月27日、
土居利忠は自筆をもって
「更始の令」を発布します。
藩政改革を行い、効果を挙げました。
文久2年(1862年)、隠居します。
明治15年(1882年)、
旧藩士たちにより、大野城ふもとに
「柳廼社(やなぎのやしろ)」が建立され、
祭神となりました。
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<天守閣より戌山(犬山)城跡を望む>
戌山城は、 室町幕府管領の
斯波(しば)氏の一族によって築かれました。
金森長近が越前大野城を築くまで、
越前美濃国境間の要とされていました。
三代目城主である斯波持種(もちたね)の子である
斯波義敏(よしとし)と斯波義廉(よしかど)
との家督争いが応仁の乱の一因に
なったともいわれています。
応仁の乱によって越前国の守護になった朝倉氏は、
この戌山城を改修して大野郡司の居城としました。
本丸跡のある山頂からは、
郭群・堀切・竪堀などの貴重な遺構も確認できます。
登山口横にある「みくら清水」は、
山頂の兵が日に三度飲料水をくみに来た、
という言い伝えからこの名がついているそうです。
<お福池>
天守の隣にあるお福池は、
金森長近の正室・お福の名前が由縁となっています。
お福は斎藤道三の娘で
織田信長の正室・濃姫の姉妹、
という話もありますが、詳細はわかっていません。
公式サイト⇓⇓
天空の城 越前大野城
【金森長近】
金森長近(かなもりながちか)は、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将及び大名。
名ははじめ可近(ありちか)、
後に織田信長から一字を賜り、
長近を名乗りました。
通称は五郎八。
法印素玄。
飛騨高山藩初代藩主。
正四位下、兵部卿、飛騨守。
【家系は土岐氏庶流】
金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流と称しています。
応仁の乱にて西軍として活躍した
美濃守護である土岐氏第11代当主であった
土岐成頼の次男である大桑定頼の、
更に次男である大畑定近(父の金森定近)が、
一族を連れて美濃を離れ、
寺内町として著名な
近江国野洲郡金森に居住します。
なお現在は滋賀県守山市金森町です。
その金森の地で「金森采女」を称したことに始まります。
【生誕】
大永4年(1524年)
【死没】
慶長13年8月12日(1608年9月20日)
【改名】
可近(初名)⇒長近⇒素玄(法号)
【別名】
五郎八(通称)
【妻】
正室:お福の方
継室:久昌院(徳川家康の叔母)
【子】
長則、長光、伊東治明、
娘(肥田忠政室)
養子:金森可重
【墓所】
京都府京都市北区紫野大徳寺龍源院
【生涯】
大永4年(1524年)、
金森定近の次男として
美濃国土岐郡多治見郷大畑村、
現在の岐阜県多治見市大畑町に
生まれました。
兄弟には落語の祖と呼ばれ、
「醒睡笑」を編した安楽庵策伝などがいるそうです。
【父は土岐頼武派】
父である金森定近は、土岐氏の後継者争いで、
土岐頼武を支持していましたが、
土岐頼武は弟である土岐頼芸に敗れて失脚し、
金森定近も程なくして美濃を離れ、
近江国野洲郡金森へと移住しました。
天文10年(1541年)まで
近江で過ごしたそうです。
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【織田家に士官】
18歳になると近江を離れて
尾張国の織田信秀に仕官し、
当時8歳の織田信長の
身のまわりの世話係として務めました。
跡を継いだ織田信長にもそのまま仕えました。
弘治元年(1555年)には、
今川義元との合戦で手柄をたて、
信長の「長」の字を賜り長近と名を改めました。
美濃攻略に従って功があり、
赤母衣衆として抜擢されました。
天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いに参戦しました。
功績は大きかったとされています。
【越前大野の平定】
天正3年(1575年)8月、
温見峠越えをして越前大野入りした金森長近は、
わずか数ヶ月で平定させました。
この越前一向一揆戦で、戦功があったこ恩賞として、
越前国大野郡の内3分の2、
越前大野・大野城と石徹白を与えられました。
その後は柴田勝家の北陸方面軍に属しました。
天正10年(1582年)の甲州征伐では、
飛騨口の大将を務めるなど、
織田信長直参としても高い地位にありました。
【三国同盟】
この頃、長江氏支流とされる
板取田口城主の長屋景重の子で
金森長近が面倒を見ていた
長屋喜三(後の金森可重)を養子に取り、
そこへ郡上八幡城主である
遠藤慶隆の娘の室町殿を嫁に迎えました。
これにより、越前大野・郡上八幡と
板取の三国同盟が成立しました。
【本能寺の変で嫡男を失う】
天正10年(1582年)2月、
従四位下・兵部大輔となり、
その後、正四位下兵部卿となります。
この年、本能寺の変で
織田信長が家臣の明智光秀に討たれます。
その際に、嫡男である金森長則が
織田信忠と共に討死したため、
剃髪して兵部卿法印素玄と号します。
そして、臨済宗大徳寺の山内に
旧主である織田信長と
殉死した嫡男である金森長則を弔うため
金龍院という塔頭を建立したと伝わります。
【柴田勝家側についていたが・・・】
柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、
柴田側に与していました。
けれども天正11年(1583年)、
賤ヶ岳の戦いで、
当初は柴田勝家側として
羽柴秀吉に対峙していましたが、
前田利家と行動を共にした金森長近は
戦わずして敗走し、
羽柴秀吉の傘下に入りました。
その後は小牧・長久手の戦い、
富山の役、
天正13年(1585年)の
飛騨国・国司である
姉小路頼綱や三木氏の討伐
などで功績を挙げ、
天正14年(1586年)、
飛騨一国3万8700石を与えられました。
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【高山城主に】
金森長近は、高山城(岐阜県高山市)を築き、
城下町を建設しました。
金森長近は高山に入った当初は、
しばらく鍋山城にいました。
天正18年(1590年)より
天神山の古城跡に築城に着手し、
初代高山藩主となりました。
高山城は、
慶長5年(1600年)までには
本丸、二の丸を完成させていました。
慶長10年(1605年)頃に
完成したと伝わります。
この時、高山城下に、
荘川村中野にあった
浄土真宗の古刹である照蓮寺を
家来の石徹白彦左衛門に命じ、
高山城下に移転させています。
この頃から、本願寺教如と通じ、
昵懇(じっこん)の間柄であったとのことです。
【秀吉のお伽衆】
また、金森長近は、
禅宗と茶道に造詣が深く
文禄3年(1594年)頃には
豊臣秀吉の御伽衆を務めたとされています。
【関ヶ原】
慶長5年(1600年)、
関ヶ原の戦いでは養子である
金森可重とともに東軍に与し、
戦後、飛騨に加えて
美濃郡上八幡城攻めなどの功を賞されて、
美濃国上有知藩18000石と
河内国金田(かなた)の
3000石を加増となります。
なお、現在の堺市北区金岡町となります。
また、この時、戦勝した徳川家康を
大津の陣に訪問した本願寺教如が、
金森長近に宛てた文書が近年発見され、
教如上人を徳川家康に紹介したのが、
金森長近であったことが判明しました。
このことが後の慶長13年(1608年)、
本願寺の東西分立に
つながることになったともいわれています。
【うだつの上がる町並み】
慶長10年(1605年)、
小倉山城を築き、
高山城の管理を養子の金森可重に任せ、
金森長親近は小倉山城に移りました。
城下町はうだつの上がる町並みとして現存し、
重要伝統的建造物群保存地区となっています。
慶長13年(1608年)、
京都伏見にて死去しました。
享年は85歳でした。
【逸話】
【美濃衆を知っている!信長を救う】
永禄2年(1559年)に、
織田信長が初めて上洛した際、
金森長近は80名の随行者の1人でした。
この時、斎藤義龍から、
織田信長暗殺命令を受けた、
美濃衆の刺客達が後をつけていました。
けれども、丹羽兵蔵という尾張からの使者が
道中これを看破し、
蜂屋頼隆と金森長近に通報しました。
美濃衆の刺客達と面識があった金森長近は
挨拶と称して彼等の宿所を訪れ、
事が露見している旨を宣告したということです。
【茶の湯の才】
【1】
金森長近は蹴鞠や茶の湯の才にも秀でていました。
豊臣秀吉が伏見在城の時は
伏見城下の自宅に書院と茶亭を造り
しばしば豊臣秀吉を招いたとされています。
【2】
茶の湯の宗匠千利休の弟子として
茶会に招かれたり、
宗匠古田織部とも親交があったそうです。
【気相の人】
徳川家康と徳川秀忠父子からは
「気相の人」と言われ信任されていたそうです。
慶長10年(1605年)には
徳川家康父子が
金森長近の伏見邸を訪れ
風流を楽しんでいたともされています。
<気相の人>
気相とは直訳すると気体。
自己主張はないが、
なくてはならない重要な人。
いて当たり前の人。
いつも傍にいて欲しい人、
の意味でしょうかね。
【利休の嫡男を匿う】
豊臣秀吉が千利休の切腹を命じた時、
嫡男である千道安を飛騨高山に隠棲させ、
匿ったとされています。
その時に、照蓮寺明了や
金森重近(後の金森宗和)が、
千道安から茶の手ほどきを受けたと言われています。
【一回りも年下の秀吉をおぶさる】
晩年、豊臣秀吉が、
有馬温泉にて湯治を行なった際、
12~13歳上の金森長近が、
豊臣秀吉を背負って入湯した、とのことです。
【岐阜城にて思い出話を語り合う】
関ヶ原の戦いの後、金森長近は
徳川家康と共に岐阜城天守閣に登ったとされています。
そこで徳川家康から戦功を賞賛され、
信長以来の思い出話をしたとも言われています。
この時、金森長近は、
論功行賞を固辞したそうです。
そこで徳川家康が与えたのが、
美濃の上有知藩18000石と
河内国金田3000石でした。
金森長近亡き後、
息子の金森長光が没した時に
上有知藩は領地没収となりました。
金田は、継室の久昌院が
寛永2年(1625年)に亡くなるまで、
久昌院の知行地として残されました。
これは当時としては
異例の措置であったそうです。
この措置の理由として、
久昌院が家康の叔母であったとされています。
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