鎌倉殿の13人

三浦胤義~三浦義村の弟で妻は源頼家の側室、承久の乱では京方として三浦一族と激闘の末、自害します。

三浦半島 油壷 富士山



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【三浦胤義】

三浦 胤義(みうら たねよし)は、
鎌倉時代前期の三浦一族の武将です。
三浦義澄の末子(九男)。
鎌倉幕府の御家人。
承久3年(1221年)の承久の乱では
京方の主力として戦いました。

【生誕】
1185年頃?

【死没】
承久3年6月15日(1221年7月6日)

【別名】
九朗、判官

【官位】
左衛門少尉、右衛門尉、検非違使

【幕府】
鎌倉幕府

【主君】
源頼朝、頼家、実朝

【氏族】
桓武平氏良文流、三浦氏

【父】
三浦義澄、

【母】
伊東祐親の娘

【兄弟】
友澄、義村、重澄、胤義、他

【妻】
正室:一品房昌寛の娘

【子】
義有、高義、兼義、胤連、胤康、北条政村室

【生涯】
元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、
牧氏事件に兄の三浦義村とともに出陣しています。
建暦3年(1213年)の和田合戦でも功を立て、
建保6年(1218年)6月27日の
源実朝の左大将拝賀には
衛府の一人として参列していたことが
「吾妻鏡」で裏付けられています。

その後、京に上って検非違使判官に
任じられたとされていますが、
その時期や経緯は不明となっています。
「承久記」慈光寺本によりますと、
後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康から
挙兵計画への参加を説得された際、
藤原秀康から本拠地である三浦や
鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには
何か訳があるのだろうと訊ねられます。
三浦胤義は、自分の妻は
二代将軍・源頼家の愛妾で
若君(禅暁)を生んだが、
源頼家北条時政に殺されてしまった。
さらに若君もその子の
北条義時に殺されてしまった。
自分は先夫(頼家)と子を
北条氏によって殺されて
嘆き悲しむ妻を憐れに思い、
鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと
述べていたとのことです。
その一方で「承久記」古活字本には
「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」とあり、
大番役として上京したまま
任期が明けてもそのまま京に
留まっていたと読み取ることも可能で、
承久の乱当時、
在京していた経緯については
不明な点が多いとのことです。




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挙兵計画に参加した三浦胤義は軍議で
「朝敵となった以上、義時に味方する者は
千人もいまい」と
楽観的な見通しを述べていたとのことです。
また藤原秀康から挙兵計画への参加を
説得された際も兄の三浦義村はきわめて
「烏滸ノ者」なので
日本国総追捕使に
任じられるなら必ず味方すると
確約しており、終始、楽観的な
見通しを持っていたことが裏付けられます。
けれども、期待の三浦義村は
三浦胤義から遣わされた使者を
追い返した上に托された密書を
幕府に届けてしまい、
三浦胤義の目算は崩れ去ったのでした。

一方、鎌倉では上皇挙兵の報が伝わると、
北条政子が幕府創設以来の
源頼朝の恩顧を訴える
史上名高い演説で御家人らの志気を鼓舞。
「吾妻鏡」では、この際、北条政子は
藤原秀康と三浦胤義の名を
逆臣として挙げており、
三浦胤義は京方の中心人物という
位置づけだったのでした。

合戦が始まると、京方の大将軍として
美濃国と宇治川
幕府軍と戦いましたが敗北します。
幕府軍が京に乱入した6月15日には
院の御所で最後の一戦を図りましたが、
御所の門を閉じられ追い返されてしまい、
逆に乱を引き起こした謀臣として
逮捕の院宣を出されてしまいます。
(き、きたないね~朝廷は。激おこだ!!)

三浦胤義は残った京方武士とともに
東寺に立て篭もりますが、
「承久記」慈光寺本によりますと、
この際、兄である三浦義村との対面が
実現しています。
この時に三浦胤義は
兄に熱く呼びかけましたが、
三浦義村は弟の呼びかけや
思いには取り合わず、
その場を立ち去ったということです。
その後、三浦胤義は子息の胤連、兼義とともに
西山の木嶋
(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)
で自害しました。
東国に残していた幼い子たちも
長子を残して処刑されました。
「承久記」古活字本には
「胤義其罪重シ」とあり、
三浦胤義を京方の中心人物と
見なした上での厳罰だったのでした。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
岸田 タツヤ(きしだ タツヤ)さんが演じられます。

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つつじ(辻殿)~源頼家の正室で「吾妻鏡」では公暁の生母、父は足助重長、祖父は源氏の勇者と名高い源為朝です。

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