【深溝城】
深溝城(ふこうずじょう)は、
現在の愛知県額田郡幸田町深溝にあった、
戦国時代から江戸時代初期の日本の城でした。
深溝城は十八松平のひとつ、
深溝松平氏の居城として知られています。
【城の歴史】
大庭氏により、寛喜3年(1231年)、
あるいは正慶元年(1332年)に
築城とも言われてはいますが、
築城年代は不明です。
この深溝城を松平信光(寛正6年(1465年)説)、
または松平忠定が奪取した
(深溝紀略、大永3年(1524年)説)ということです。
他に永正2年(1505年)説があります。
「三河物語」、東照宮御実紀などには、
大庭氏の登場はおろか、
深溝城の奪取についても一切記載がなく、
松平氏が深溝城を拠点とする
以前については不明です。
「宗長日記」には、大永6年(1526年)、
「松平大炊助宿所連歌。
沢のうへの山たちめぐる
春田かな此所の様なるべし。」と記載があります。
三河物語には、三河一向一揆の項目で、
不高須(深溝)之松平主殿之助(伊忠)殿、
と記載があるとのことです。
深溝城は松平氏のものとなり、
吉良氏との戦いの拠点になりました。
代々深溝城主になった一族を
深溝松平家といいます。
それから城主は二代目好景、
三代目伊忠、四代目家忠、
五代目忠利と続きました。
徳川家康の関東移封に伴い、
忍城へ移りました。
松平家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった
「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、
その功もあり5代忠利は旧領に戻り
三河深溝藩を立藩しましたが、
慶長19年(1614年)に忠利が
三河吉田藩の吉田城へ移った事で、
深溝城の深溝松平氏の支配は終わり、
元和元年(1615年)、
深溝城は廃城となり、廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。
【現在の深溝城址】
明治維新を迎えて陣屋も廃され、
昭和に入って民間に売却され
工場用地となりました。
現在はその一角に看板と
記念碑が建っているだけです。
石垣のようなものも見えますが、
建物などは跡形もありません。
そのため、当時の構造が
全く分からない状態です。
なお、かつての陣屋絵図の写しが
幸田町郷土資料館に収蔵されています。
現在城址は
株式会社三協幸田工場の敷地となっており、
正門脇の道路沿いに
石碑と案内板が建てられています。
また幸田町六栗本郷の民家に
深溝陣屋門が移築されています。
【築城主】
大庭氏(大場氏)か
【築城年】
南北朝時代か
【廃城年】
元和元年(1615年)
【主な城主】
深溝松平氏、板倉氏
【遺構】
移築門(陣屋)
【交通アクセス】
(電車)
JR東海道本線「三ヶ根」駅から徒歩約15分
(車)
東名高速道路「岡崎IC」から30分程度。
東名高速道路「音羽蒲郡IC」から30分程度。
【所在地】
〒444-0124 愛知県額田郡幸田町深溝里前
松平信光と岩津城~三河松平氏3代目当主で戦国大名・松平氏の基礎を築いた人物です。
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