史跡・城跡

国吉城~難攻不落の落ちない城~朝倉攻防10年間・粟屋勝久守りぬく!

国吉城・上の道



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国吉城
国吉城(くによしじょう)は、
福井県美浜町佐柿にあった山城です。
若狭国守護大名の武田氏重臣であった粟屋勝久
弘治2年(1556年)に築き、
越前国の朝倉氏の度重なる来襲に対して籠城戦などで守り抜きました。
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永禄6年(1563年)から朝倉氏滅亡まで、
天正元年(1573年)実に10年間、
越前朝倉氏に、ほぼ毎年攻められましたが、
守り撃退し続けたのでした。
織田信長が元亀元年(1570年)に、
越前攻めで国吉城に駐軍した際、
長年にわたる勝久の戦いぶりを賞賛したと伝えられています。
そして天正元年(1573年)、
信長の第2回目の越前攻めに勝久が参戦し、
ついに朝倉氏が滅亡します。
その後、天正10年(1582年)、
本能寺の変が起こります。
若狭武田氏が滅亡します。
天正11年(1583年)、 木村定光が国吉城主となります。
天正13年(1585年)、 粟屋勝久が死去します。
廃城は定かではありませんが、
江戸時代に入った元和元年(1615年)頃と伝わっています。

<のろし台>
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<続日本100名城認定>
2009年4月に、
国吉城の歴史を紹介するガイダンス施設である
「若狭国吉城歴史資料館」が開館しています。
2017年4月6日、続日本100名城に選定されました。
続日本100名城のスタンプは「若狭国吉城歴史資料館」にあります。
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<若狭国吉城歴史資料館>
〒919-1132 福井県三方郡美浜町佐柿25−2
電話:0770-32-0050
FAX番号:0770-32-0057
業務時間:
4月~11月:
午前9時~午後5時  
12月~3月:午前10時~午後4時30分  
※入館は、閉館30分前まで
休日:
毎週月曜日、祝日の翌日、年末年始  
※月曜日が休日の時は、その翌日

入 館 料:
大人100円 
小人(中学生以下)50円     
※20人以上団体割引あり
※身体障害者手帳、
療育手帳又は精神障害者保健福祉手帳を所持する方、就学前の幼児は無料
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<御城朱印>
越前朝倉氏に10年間、ほぼ毎年攻められましたが、
守り撃退し続けた事から、難攻不落の城と言われ、
絶対に落ちないと言う事で、御城朱印が有るそうです。

【交通案内】
<JR(美浜駅下車)> 
・国道27号を敦賀方面へ徒歩25分
・敦賀行きバス「佐柿口」下車、徒歩5分
・美浜コミュニティーバス「佐柿」下車、徒歩3分
<車利用(国道27号)>
・敦賀より約20分
・小浜より約40分
<駐車場>
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<国吉城址散策絵図>
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<山城の構造>
近年、発掘調査や整備が進み、
曲輪、石垣、土塁、堀切といった山城の構造物を見ることができます。
また麓には、居館とみられる石垣も認められており、
平時は居館で生活し、戦争時には山城に籠もるという、
戦国時代の典型的な形態となっています。
居館と山城の両方の遺構が現在でも残っている点は、
全国的に見ても珍しいそうです。

<居館部>
城山の南西麓付近の谷筋に開削された段状の平地があり、
古くから城主と家臣の屋敷跡ではないかと言われていました。
発掘調査により、土塁や石垣、石組みの溝、建物の礎石が検出されています。
その後、居館跡の正面に大規模な石垣が発見され、
16世紀末から17世紀初めに築かれたとみられており、
江戸時代に入ってからも、
しばらくは城としての機能をもっていたと考えられています。
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<山城部>
居館跡から九十九折りの山道が付けられており、
中腹に二の丸跡と伝えられる出丸があります。
この出丸は食い違いの虎口を持ち、
周囲を高さ2メートル以上の高土塁で囲った堅固な構造です。
なお、現状の山道は出丸を通りませんが、
もとの登城道は出丸のある尾根筋に付けられていたと考えられています。
城山の山頂部は平たく開削された本丸跡です。
本丸は東と北西の2箇所に平虎口を設け、
周囲の斜面に部分的に石垣が残存しています。
<石垣>
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<石垣2>
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大正期に設置された国吉城碑があり、
四等三角点(基準点名:徳賞寺)が設置。
また、周囲で見つかった石仏、仏頭、五輪塔が何箇所かに集められており、
これは籠城戦の際に防御に使用した投石とのこと。
本丸跡からは東西を走る街道の見通しが非常に良く、
敵の動きをつかむに絶好の位置にあります。
本丸の北西虎口は、北西の尾根に連結し、
5つの曲輪が階段状に連なる連郭式構造です。
この構造は若狭の山城の特徴であり、おおい町の石山城、
小浜市の後瀬山城にもみられます。
各曲輪の斜面は急勾配で、かつ高低差も大きく、
容易に登ることができません。
なお、曲輪を通過し、そのまま尾根を下りきると、
妙見堂を経由し、椿峠近くの旧丹後街道に出られます。
本丸の東虎口は、尾根伝いに腰越坂(こしごえさか)を経由し、
国吉城の砦である岩出山砦(いわでやまとりで)跡につながっています。

<地図>
若狭国吉城歴史資料館・駐車場(無料)付近
国吉城址は若狭国吉城歴史資料館背後の山です。




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【粟屋勝久】
粟屋 勝久(あわや かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
若狭武田氏の家臣で武田四老の一人です。

<粟屋氏>
粟屋氏は清和源氏安田氏の末裔で、
若狭守護・若狭武田氏の被官。
勝久の前後の系図は不明で、
粟屋元隆や粟屋光若との関係も
明らかになってはいませんが同族と考えられています。

<信豊VS義統>
当時、若狭武田氏は、旧守護・武田信豊と、
子で現守護・義統が対立するなど内乱状態でした。
義統が内乱に勝利した後も、
若狭西部の有力家臣逸見氏が謀反を起こして独立します。
領国の統治に窮した義統は、
婚姻関係のある越前国守護朝倉氏に
援軍を要請することになりました。
なお、足利義昭が姉婿である
若狭国守護・武田義統の下に逃れています。
さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、
足利義昭と明智光秀は接触を持つこととなります。
けれども義昭が上洛を期待しても義景は動かず、
明智光秀
「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」
と信長を義昭に勧めます。
信長への仲介者として光秀が史料に初めて登場するのでした。

<朝倉氏は若狭に入らないでby勝久>
朝倉氏の軍勢を若狭に入れることに反対する勝久は、
義統の子・武田元明を擁立して抵抗し、
朝倉氏が若狭へ侵攻するとこれを撃退しました。
けれども永禄11年(1568年)、
朝倉氏によって元明は囚われて越前に連行され、
一乗谷の朝倉館に軟禁されてしまいます。

<朝倉には断固として抵抗>
朝倉氏による若狭支配が始まりましたが、
勝久はその後も武田氏家臣として、
単独で国吉城に籠し朝倉氏に抵抗します。
織田氏の勢力が拡大すると、元亀元年(1570年)、
他の若狭国人衆と共に織田信長に協力します。
織田氏が越前へ出兵した際には、国吉城は信長の宿所となりました。
越前攻めでは一乗谷一番乗りの武勲を挙げ、
幽閉されていた旧主の武田元明をついに救出します。

丹羽長秀の与力として>
天正3年(1575年)7月、
上洛して元明助命の嘆願を果たしましたが、
武田氏による若狭領有は許されず、
若狭は織田氏の重臣・丹羽長秀に任されることになりました。

本能寺の変、そして没す>
本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えて馬廻役を務めました。
のちに国替えとなり、国吉城には木村常陸介(木村重茲)が入部。
時期は明確ではありませんが、本能寺の変後、まもなく没したとのことです。

<勝久の子孫>
勝久の孫の助太夫は豊臣秀頼に仕え、
大坂の陣では豊臣方として戦い、
戦後は藤堂高虎に仕官しています。
同じく孫の粟屋勝長は臼杵藩に仕え、
後に子孫は明治維新に至り廃藩されるまで、家老職を勤めたということです。

【木村定光】
なお、木村定光は木村重茲(きむら しげこれ)とも称され、
同年の賤ヶ岳の戦いにも参戦しています。
いくつかの功績をあげましたが、
秀次付の家老となり秀次事件で秀次を弁護したことから、
秀吉より秀次の与党として連座の罪に問われ、
文禄4年(1595年)7月15日(8月20日)、
摂津国茨木の大門寺において自害を命じられます。
大門寺に血染めの経帷子が保存され、
常陸大明神と記された墓碑があるそうです。
長男の高成(重武、重光、志摩守)も法花堂で切腹させられ
梟首されたほか、娘も磔にかけられたと伝わっています。
子とされる木村重成(異説もある)は、
幼年のために罪に問われることなく、
豊臣秀頼の家臣として仕え、
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討ち死にしています。

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