【牟呂城(室城)】
牟呂(室)城は東条吉良氏の家臣である
富永氏代々の居城として知られています。
天文4年(1535年)12月に
「森山(守山)崩れ」で
松平清康が討たれ、
翌年に桜井城主である
松平信定が反乱を起こして
岡崎城を占拠すると、
松平清康の子で徳川家康の父である
松平広忠は難を逃れるために
岡崎城を退去し、
富永忠安が城主をつとめていた時期に、
この牟呂城に一時期在城したと伝わります。
城址は富永正安が建立したと伝わる
林松寺(2021年6月現在廃止)
の裏山にあり、
遺構を確認することは
できませんが、
山頂に城址碑が
建てられているとのことです。
【縄張形態】
平山城
【標高(比高)】
20m(15m)
【築城主】
富永正安
【築城年】
永正年間(1504年〜1521年)
【主な城主】
富永氏
【遺構】
曲輪
【交通アクセス】
(電車)
名鉄西尾線「西尾」駅から
バスに乗り「家武」バス停下車、
徒歩5分程度。
名鉄西尾線「西尾」駅から徒歩55分程度。
(車)
岡崎バイパス「西尾東」ICから5分程度。
東名高速道路「岡崎」ICから32分程度。
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【駐車場】
専用の駐車場はありません。
お寺が廃止になっているそうです。
近くに神社があり、
数台駐車可能との
情報もありますが未確認です。
【所在地】
〒445-0033 愛知県西尾市室町上屋敷89
【富永忠元】
富永 忠元(とみなが ただもと)は、
戦国時代の武将です。
東条吉良氏の家臣です。
三河国設楽郡牟呂(室)城主。
吉良義昭の家老。
富永氏は伴氏の後裔とのことで
設楽郡富永荘の領主です。
東条吉良氏の譜代の家臣であり、
代々牟呂(室)城主を務めました。
永禄3年(1560年)の
桶狭間の戦い後に起きた
松平家康との一連の抗争で
度々功名を立てました。
翌年の4年(1561年)4月15日の
善明堤の戦いでは囮部隊として
上野城を攻めました。
牟呂(室)城の留守部隊は
松平好景勢の退路を遮断し、
吉良義昭の本隊と
挟み撃ちにして壊滅させています。
合戦後、東条城へ入城します。
味方の西尾城が落ち、
東条城が包囲されると
出戦を主張しました。
【藤波畷の戦い】
9月13日、手勢を率いて東条城の西方、
藤波畷に出撃します。
本多広孝・酒井正親らの部隊と
戦い戦死しました。
享年は25歳だったとのことです。
「三河物語」によりますと、
戦死の報を受けて
敵味方とも「伴五郎が死んだら落城は近い」
と言い合ったということです。
後年、戦死地に伴五郎地蔵が建てられ、
眼病に効くと伝えられています。
現在もあります。
たらればの話になりますが、
生き永らえて、松平元康に仕えていたのならば
頭角をさらに現し、
その才能を発揮したかもしれませんね。
大通院に富永伴五郎忠元の墓があります。
<大通院・所在地>
〒444-0533 愛知県西尾市吉良町寺嶋御手洗38番地1
三河 ・東条城~東条吉良氏・東条松平氏の居城、藤波畷の戦いで吉良氏が松平元康に敗れました。
三河・岡山城~西条吉良氏の流れをくむ岡山氏の居城、その後は吉良氏家臣の富永伴五郎忠元が管理。
藤波畷古戦場~東条吉良氏VS松平元康の攻防戦の一つで元康が勝利しました。
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