【武蔵・村山城】
戦国期の村山土佐守時代の
「村山城」跡の推定地とされています。
殿ケ谷という地名が残っており、
この地域に居館があったことは
確かなようです。
なお殿ヶ谷の地名は
殿様が住んでいた谷津の意味、とのことです。
村山城は武蔵七党のひとつである
村山氏によって築かれた城です。
平安時代、平頼任が北多摩郡村山に住み、
村山氏と名乗りました。
村山頼任の子孫とされる一族を
村山党と呼びます。
戦国時代の村山氏は
関東管領・上杉氏の重臣である
大石氏に従っておりました。
その大石氏が北条氏照を
婿に迎えて北条氏に臣従すると、
ときの村山城主であった
村山土佐守義光も北条氏に仕えました。
天正18年(1590年)、
小田原北条氏が滅亡するとともに
勢力を失い村山氏は帰農したと言われます。
現在の福正寺の境内、
松濤幼稚園一帯が城跡のようです。
丘陵からせり出る形で高台になっており、
山城としては適当な土地だと思われます。
遺構は現在ではわかりませんが、
それらしい地形はしています。
現在城址は福正寺の境内となっており、
遺構はほぼ残ってはいないとのことです。
村山土佐守像は近場の公園内にあります。
なお南東にある阿豆佐味天神社は
村山党の氏神で、
「猫返し神社」としても知られているそうです。
【福正寺】
臨済宗建長寺派寺院の福正寺は、
金龍山と号します。
福正寺は、
天照林和尚が天台宗寺院として創建、
通翁鏡円禅師
(普照大光国師、正中元年1324年寂)を勧請、
臨済宗寺院に改めて文禄2年(1318年)に
開山したといいます。
八世雲峰和尚は正眼寺を、
九世梅室和尚は円福寺を、
十四世東林和尚は砂川流泉寺を
開山するなど、地域に末寺を擁し、
江戸時代には寺領10石の
御朱印状を拝領していました。
狭山三十三観音霊場25番です。
【所在地】
〒190-1212 東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1129
【交通アクセス】
(電車)
JR八高線「箱根ヶ崎」駅から徒歩約25分程度。
(車)
首都圏中央連絡自動車道「入間」ICから
20分弱程度。
【駐車場】
福正寺参拝者用駐車場(無料)
【村山土佐守義光の銅像】
村山土佐守義光は
中世貴族としての村山氏最後の人物で、
殿ケ谷に居館があったと
伝えられています。
武蔵七党のひとつである村山党の
村山氏ですが
戦国時代になると村山氏は
関東管領上杉氏の重臣大石氏に従いました。
大石氏が北条氏照を婿に迎えて
北条傘下に入ると村山氏も北条氏に従いました。
この頃の村山城主は土佐守義光でした。
平成25年 (2013年)に
殿ケ谷の玉林寺公園に
銅像が設置されました。
福正寺の駐車場から
徒歩5分程度の場所にあります。
福正寺に位牌と村山氏一族の墓があります。
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【所在地】
瑞穂町大字殿ケ谷1050
【鎌倉時代最末期の村山氏】
殿ケ谷の城館主と伝えられている
村山重信は、
保元の乱で活躍した
金子十郎家忠(「保元物語」に
武蔵国住人とみえる)の
八代の孫重延であろうといわれています。
元弘の乱に際して
新田義貞の軍に加わり討死しています。
【元弘の乱】
元弘の乱(げんこうのらん)は、
鎌倉時代最末期、
元徳3年4月29日(1331年6月5日)から
元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、
幕府及び北条高時を当主とする
北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱です。
ただし、元弘3年/正慶2年(1333年)5~6月中の
どの出来事をもって終期とするかは諸説あります。
二宮城~木曽義仲の末裔である大石信重によって築城との記録あり、現在の二宮神社、武蔵守護代の大石氏とは?
金子家忠~大剛勇の強者として活躍した武蔵七党・村山党の金子一族で入間に墓と屋敷跡があります。
横山党館~八幡八雲神社(八王子)・横山党は武蔵七党の一つで関東最大勢力の武士団です。
中山家範館~武蔵七党の丹党、中山家範は八王子城で戦死、子の中山信吉は水戸藩附家老に出世。
毛呂山城跡(毛呂氏館跡)と毛呂一族の墓~源頼朝に仕えた在地領主で、戦国時代まで存続しました。
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