【藤原泰衡】
藤原 泰衡(ふじわらの やすひら、久寿2年〈1155年〉?⇒
文治5年9月3日〈1189年10月14日〉)は、
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。
奥州藤原氏第4代(最後)の当主です。
藤原秀衡の嫡男(次男)。
兄(庶長兄、異腹の兄)に
国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいます。
【生誕】
久寿2年(1155年)?
【死没】
文治5年9月3日(1189年10月14日)
【別名】
太郎
秀衡の次男であるにも関わらず、
「太郎」という記録もあるとのことです。
伊達小次郎
「小次郎」という記録もあります。
日記の内容は武家の正装であり、
平泉館で大事な儀式があったとき
着なければならない
赤根染を基調とした
絹の狩が誰に支給されたかが
記されているとのことです。
藤原泰衡の欄には「赤根染白」、
「カサネタリ」、「カリキヌハカマ」
と記されているとのことです。
藤原泰衡の異母兄である藤原国衡の
別名である信寿太郎殿の名も
記されているとのことです。
伊達次郎(二郎)、
泰平、泉冠者?
【官位】
出羽陸奥押領使
【氏族】
奥州藤原氏
【父】
藤原秀衡
【母】
藤原基成の娘・徳尼公
【義父】
藤原国衡(実際は異母兄)
【兄弟】
国衡、泰衡、忠衡、
高衡、通衡、頼衡、
娘?
「又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく
互に約諾を成せりとあれど、
秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、
否や、後の批判を待つ」という記録もあり、
現代語訳しますと、
源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が
成されたとあるが系図に
娘が記されていない、とのことです。
【妻】
不詳
【子】
時衡?秀安?
泰高(康高、十萬、万寿、万寿丸)?
藤原泰衡幼息の行方を追っている
記録もありますが、その後の消息は不明です。
源頼朝の子である頼家と同名のため、
改名するよう命が出されています。
【藤原泰衡の生涯】
【奥州藤原氏の嫡男として】
奥州藤原氏3代当主である
藤原秀衡の次男として生まれました。
母は陸奥守である藤原基成の娘です。
異母兄の藤原国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」
と称されたのに対し、
正室を母とする藤原泰衡は
「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、
嫡男として扱われました(「愚管抄」)。
「玉葉」文治4年(1188年)1月9日条には
藤原秀衡の次男であるにもかかわらず、
「太郎」と記述されています。
藤原秀衡正室所生の子は何人いたか、
もしくは藤原泰衡のみだったのかは
正確には不明ですが、
藤原秀衡の6人の息子(男子)の中で
藤原泰衡が正室の長男だったと推測できます。
【父の藤原秀衡の死と遺言】
文治3年(1187年)10月29日、
藤原秀衡の死去を受けて
藤原泰衡が家督を相続します。
父の藤原秀衡は死の直前、
源頼朝との対立に備え、
平家滅亡後に源頼朝と対立して
平泉へ逃れて藤原秀衡に
庇護されていた源頼朝の異母弟である
源義経を大将軍として国務せしめよと
遺言して没したとのことです。
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【遺言の内容に至った背景として】
「玉葉」(文治4年正月9日条)では、
藤原秀衡は藤原国衡と
藤原泰衡兄弟の融和を説き、
藤原国衡に自分の正室を嫁がせ、
各々異心無きよう、
藤原国衡・藤原泰衡・源義経の三人に
起請文を書かせたということです。
源義経を主君として給仕し、
三人一味の結束をもって、
源頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したのでした。
これは兄弟間なら対立や抗争が起こりがちですが、
親子は原則としてそれはありえないので
(この時代だからかな?)、
対立する藤原国衡と藤原泰衡を
義理の父子関係にし、
後家として強い立場を持つ事になる
藤原基成の娘を嫁がせる事で
藤原国衡の立場を強化し、
兄弟間の衝突を回避したものと考えられています。
【源頼朝からの圧力】
文治4年(1188年)2月と10月(あるいは11月)に
源頼朝は朝廷に宣旨を出させて
藤原泰衡と藤原基成に源義経追討を要請します。
【藤原泰衡の身内殺害】
「尊卑分脈」の記述では、
この年の12月に藤原泰衡が
自分の祖母(藤原秀衡の母)を
殺害したとも取れる部分があります。
翌年の文治5年(1189年)1月、
源義経が京都に戻る意志を書いた
手紙を持った比叡山の僧である
手光七郎が捕まるなど、再起を図っています。
2月15日、藤原泰衡は末弟の
藤原頼衡を殺害しています
(「尊卑分脈」)。
【奥州討伐の宣旨の要請】
2月22日鎌倉では藤原泰衡が
源義経の叛逆に同心しているのは
疑いないとのことで、
鎌倉方から直接これを征伐しようと
朝廷に一層強硬な申し入れが行われたのでした。
それ以前の2月9日に
藤原基成と藤原泰衡から
「義経の所在が判明したら、
急ぎ召し勧めよう」
との返書が届いていましたが
源頼朝は取り合わず、
2月、3月、4月と執拗に
奥州追討の宣旨を要請しています。
閏4月に院で藤原泰衡追討の宣旨を出す
検討がなされたのでした。
【泰衡、義経家族を自害に追い込む】
屈してしまった藤原泰衡は閏4月30日、
従兵数百騎で源義経が
起居していた衣川館を襲撃し、
源義経と妻の里(郷御前)と幼い娘、
彼の主従を自害へと追いやったのでした。
【源頼朝、泰衡追討】
同年6月13日、藤原泰衡は
源義経の首を酒に浸して
鎌倉へ送り恭順の意を示しました。
けれども源頼朝はこれまで
源義経を匿ってきた罪は
反逆以上のものとして
藤原泰衡追討の宣旨を求めるとともに
全国に動員令を発したのでした。
【奥州討伐へ】
6月26日、藤原泰衡は弟の
藤原忠衡を源義経に同意したとして殺害しています。
(「尊卑分脈」の記述によりますと、
藤原忠衡の同母弟とされる
藤原通衡も共に殺害している)。
藤原泰衡は源義経の首を差し出す事で
平泉の平和を図り、守ろうとしたのですが、
源頼朝は逆に家人である
源義経を許可なく討伐したことを
理由として、7月19日に
自ら鎌倉を出陣し、
大軍を以って奥州追討に向かったのでした。
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【歴史は繰り返す】
源頼朝は最初から奥州を討伐する気満々でした。
そのことに見抜けなかった藤原泰衡。
或いは藤原泰衡自身、到底勝ち目はなく、
それでも当主として何とかこの平泉の民、土地、
文化を守ろうと彼なりになりふり構わず
動いたのでしょうか?
彼の高祖父である藤原経清が
彼自身のバックボーンを全て捨てて、
最愛の妻と子である藤原清衡、
そして妻の安倍一族と
その土地を守ろうとして
散っていったことも
知っているはずなのに何故?
という思いはあります。
源義経を差し出せば助かるとでも?
本当の敵は源氏の棟梁である源頼朝です。
しかも安倍一族を滅ぼしに来た
河内源氏です。
そう、どんなケースがあろうとも
奥州にとっては源氏はやはり
中央からの侵略者なのです。
かつての前九年の役になぞえて
徹底的に仕留めにくることでしょう。
ここは一族が結束して
何としても迎え撃たなくてはなりません。
そうなるとやはり藤原泰衡は、
読みが「甘くて浅はかで臆病」だったのでした。
【出兵】
7月17日、源頼朝は軍勢を
大手軍・東海道軍・北陸道軍の
三軍に分けて進攻計画を立てました。
畠山重忠を先陣とした源頼朝率いる大手軍は
鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、
千葉常胤・八田知家が率いる東海道軍は
常陸国や下総国の武士団とともに
岩城岩崎方面へ、
比企能員・宇佐美実政が率いる
上野国の武士団を中心とした
北陸道軍は越後国から
日本海沿いを
出羽国方面へそれぞれ進軍することになりました。
【かつての敵対した二大雄族を従える】
7月19日、源頼朝は
梶原景時の進言で越後の囚人である城長茂を加え、
大手軍を率いて鎌倉を出発します。
25日に宇都宮社で戦勝を祈願し、
26日には常陸の佐竹秀義が軍勢に加わりました。
28日、新渡戸駅に到着すると
城長茂の郎従200余人が参集しました。
かつて敵対した二大雄族である
城氏と佐竹氏を従えた源頼朝は、
29日に下野・陸奥国境の白河関を通過します。
【白河関】
初秋の白河関に立った源頼朝が、
梶原景季に
「能因法師の歌を思い出さないか」と問いかけると、
梶原景季は
「秋風に 草木の露を払わせて
君が越ゆれば 関守も無し」
と本歌取して歌を詠みました。
大手軍はさしたる抵抗も受けずに
奥州南部を進み、
8月7日には伊達郡国見駅に達しました。
【奥州軍の敗北】
奥州側は、藤原泰衡の異母兄である
藤原国衡が阿津賀志山に城壁を築き、
前面に二重の堀を設けて
阿武隈川の水を引き入れ、
二万の兵を配備して迎撃態勢を取りました。
藤原泰衡自身は後方の多賀城の国府にて
全軍の総覧に当たったのでした。
7日の夜に源頼朝は明朝の攻撃を命じ、
畠山重忠は率いてきた人夫80名に
用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めました。
8日の卯の刻(午前6時頃)、
畠山重忠らの先陣は、
金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、
巳の刻(午前10時頃)に金剛別当秀綱は
大木戸に退却したとのことです。
又、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)では
伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治
(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、
その首を阿津賀志山の上の経岡に晒したとあります。
10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は
大木戸に総攻撃を行ったのでした。
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後陣の山に登った紀権守、
芳賀次郎大夫(紀清両党)らの奇襲もあり、
奥州軍は金剛別当秀綱、
子息の下須房太郎秀方が
戦死(享年13歳)して潰走しました。
出羽方面に脱出しようとした藤原国衡は、
追撃した和田義盛に矢で射られ、
畠山重忠の家臣である大串次郎に討たれました。
根無藤の城郭では両軍の激しい攻防が
繰り広げられましたが、
大将軍の金十郎が戦死して勝敗が決しました。
自軍の大敗を知った藤原泰衡は
多賀城から平泉方面へ退却しました。
そして平泉を放棄して
中心機関であった平泉館や高屋、
宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れていきます。
8月21日、平泉は炎上し
華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰したのでした。
平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、
以降目立った抗戦もありませんでした。
一方、源頼朝は北上し船迫宿を経て
12日に多賀城に到着し、
常陸方面から来た東海道軍と合流しました。
13日、比企・宇佐見の両将に率いられた
北陸道軍は田川行文・秋田致文を討ち取って
出羽を制圧したのでした。
【平泉陥落】
14日、玉造郡または物見岡に
藤原泰衡在りとの情報を得た源頼朝は
玉造郡に発向し、別働隊として小山朝政、
結城朝光らを物見岡に向かわせました。
小山朝政はその日のうちに物見岡を攻略しましたが、
藤原泰衡の姿はなかったのでした。
20日、玉造郡に入った源頼朝の本隊は
多加波々城を囲みましたが、
藤原泰衡はまたも逃亡しており、
城に残った敵兵は手を束ねて投降しました。
源頼朝は平泉攻略を前に
「僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。
二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。
すでに敗績の敵なり。
侍一人といえども無害の様、
用意を致すべし」と命じたとのことです。
21日、栗原・三迫の要害を落として
津久毛橋に至ると、
梶原景高は「陸奥の 勢は御方に
津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が首」と歌を詠み、
源頼朝を喜ばせたということです。
22日夕刻に源頼朝は平泉に入りましたが、
主が消えた家は灰となり、
人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける
寂寞とした風景が広がっていたということです。
唯一焼け残った倉庫には
莫大な財宝や舶来品が
積み上げられており、
源頼朝主従の目を奪っている、とのことでした。
奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じたのでした。
【奥州藤原氏の滅亡】
8月26日、源頼朝に赦免を求める
藤原泰衡の書状が届きました。
「吾妻鏡」によりますと、
以下のような旨が書かれていたということです。
「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、
自分はまったくあずかり知らない事です。
父が亡くなった後、
貴命を受けて(義経を)討ち取りました。
これは勲功と言うべきではないでしょうか。
しかるに今、罪も無くたちまち
征伐されるのは何故でしょうか。
その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、
大変難儀しています。
両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、
自分を許してもらい御家人に加えてほしい。
さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。
もし御慈悲によってご返答あれば、
比内郡の辺に置いてください。
その是非によって、帰還して参じたいと思います。」
とのことです。
源頼朝はこれを無視して、
9月2日には岩手郡厨河(現盛岡市厨川)
へ向けて進軍を開始します。
厨河柵はかつて前九年の役で
源頼義が安倍貞任らを討った地です。
源頼朝はその佳例に倣い、
厨河柵での藤原泰衡討伐を望んだのでした。
(思った通り・・・)
【藤原泰衡の最期】
源頼朝は藤原泰衡の助命嘆願を受け容れず、
その首を取るよう捜索を命じました。
藤原泰衡は、奥地に逃亡し糠部郡から
夷狄島(北海道)への渡航も企てたそうですが、
数代の郎党であった河田次郎を頼り
その本拠である
比内郡贄柵(現秋田県大館市)
に逃れましたが、
9月3日に比内郡贄柵で
郎従の河田次郎に裏切られ
殺害されたのでした。
享年は35歳とのことでした。
なお異説では25歳説もあります。
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【前九年の役に倣って】
4日、源頼朝は陣岡に布陣して
北陸道軍と合流します。
軍勢の総数は「二十八万四千騎」に
達したとあります。
藤原泰衡の首級は6日に陣岡の
源頼朝へ届けられました。
源頼朝は河田次郎を
八虐の罪に値するとして斬罪に処し、
前九年の役で祖先の源頼義が
安倍貞任の首を晒した
故事に倣って藤原泰衡の首を晒したのでした。
【由利維平】
7日、藤原泰衡の郎従である
由利維平が捕らえられます。
その勇敢な態度から源頼朝は由利維平と会い、
「泰衡は奥州に威勢を振るっており、
刑を加えるのは難儀に思っていたが、
立派な郎従がいなかったために、
河田次郎一人に誅された。
両国を治め十七万騎を率いながら、
二十日程で一族皆滅びた。
言うに足らない事だ」と告げたとあります。
由利維平は「故左馬頭殿(源義朝)は、
海道十五箇国を治められたが、
平治の乱で一日も支えられず零落し、
数万騎の主であったが、
長田忠致に誅されました。
今と昔で優劣があるでしょうか。
泰衡は僅か両国の勇士を率い、
数十日も頼朝殿を悩ませました。
不覚とたやすくは判断できないでしょう」
と答えたそうです。
源頼朝は答えを返さず対面を終えると、
畠山重忠に由利維平を預け、
芳情の施しを命じたのでした。
なお、由利維平は
藤原泰衡の郎党から御家人となったのですが
この後に起きた大河兼任の乱にて
討ち死にしています。
子の由利維久は和田合戦に連座して
所領を没収されたとされていますが、
子孫は由利地方(現・秋田県由利本荘市)に土着し、
滝沢氏と称し由利十二頭の一として
後に最上氏、続いて六郷氏の配下となり
幕末に至っています。
9日、京都の一条能保から
7月19日付の泰衡追討宣旨が
陣岡の頼朝の下へ届いたのでした。
【奥州藤原一族の降伏】
12日、源頼朝は陣岡を出て厨河柵に入ります。
15日、樋爪館を放棄して
北走していた樋爪俊衡(樋爪太郎俊衡入道)と
その弟である樋爪季衡(樋爪五郎季衡、本吉季衡)が
降伏のために厨河柵に来ます。
そこには俊衡の3人の息子
(師衡(太郎、太田冠者、号大国御達)、
兼衡(樋爪次郎、樋爪次郎(二郎)兼衡、樋爪次郎(二郎)義衡)、
忠衡(河北冠者))、
季衡の息子・経衡(新田冠者)の姿もありました。
また、「吾妻鏡」や「平泉志」には
景衡という人物も登場し、
伊豆国へ配流になっていますが、
具体的な系譜関係は不明です。
18日、藤原秀衡の四男で藤原泰衡の弟の一人である
藤原高衡が下河辺行平を通じて
降伏し捕虜となりました。
藤原高衡は藤原秀衡の6人の息子かつ
奥州合戦に参戦した3人の秀衡の息子
(国衡、泰衡、高衡)の中で
唯一生き延びた人物でしたが、
12年後の建仁の乱の首謀者の一味に加わり、
討ち取られています。
19日まで逗留して降人の赦免や
本領安堵などの処理を行っています。
【奥州総奉行の設置】
平泉に戻った源頼朝は
奥州支配体制を固めるため、
22日に葛西清重を奥州総奉行に任命し、
28日に鎌倉へ向けて帰還します。
しかし鎌倉の支配に対する
現地の豪族の反感は根強かったのでした。
【大河兼任の乱】
文治5年(1189年)12月に
藤原泰衡の家臣であった
大河兼任が主君の仇と称して挙兵し
鎌倉軍を悩ませました。
この反乱は翌年の3月には鎮圧され、
これにて約10年にわたる争乱が終息し、
武家政権確立に向けた準備が
ほぼ整うことになるのでした。
【意義】
この合戦で源頼朝は
全国的な動員
(南九州の薩摩・
かつて平家の基盤であった伊勢や安芸など)、
かつて平家・源義仲・源義経に
従っていた者たちの動員をも行っています。
けれどもその動員対象は
「武器に足るの輩」
(文治5年2月9日・源頼朝下文)に
限定されていました。
さらに不参の御家人に対しては
所領没収の厳しい処罰を行ったこと、
源頼朝が挙兵以来となる
自らの出馬を行ったことと併せて考えますと、
源頼朝が自身に従う
「御家人」の確立という
政治的意図があり、
奥州合戦はそのための
契機となったとも見られます。
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【父親たちの処へ】
晒されてしまった藤原泰衡の首は
間もなく平泉に戻されて近親者の手により、
黒漆塗りの首桶に入れられ、
曽祖父の藤原清衡・祖父の藤原基衡・
父親の藤原秀衡の眠る中尊寺金色堂の
金棺の傍らに納められました。
【子孫】
「吾妻鏡」文治5年11月8日条に
藤原泰衡幼息の行方を追っている
記述がありますが、
その後の消息は不明となっています。
源頼朝の嫡男である源頼家と
同名(万寿)のため、
改名するよう命が出されています。
藤原泰衡の子としては
時衡、秀安、泰高(康高、万寿、万寿丸)の
3人がいたとされています。
時衡は「岩手県史」の記述によりますと、
父である藤原泰衡と共に討たれており、
妻子の存在は確認できない、とのことです。
秀安の子孫に関しては、
「岩手県史」に記載されている
「阿部藤原氏系譜」によりますと、
長男・秀宗は承久3年(1221年)に
子が無く22歳で没したとのことです。
次男の良衡(1204年 – 没年不明)は
安倍頼久の娘である佐和子を正室とし、
信衡(1240年 – 没年不明、通称:藤原左司馬)
を儲けたのことです。
信衡は安倍安助の娘を娶り、
頼衡(1278年 – 没年不明、通称:藤原久馬)
が生まれたのことです。
頼衡は安倍安兵衛の娘・市子を正室とし、
孝衡(生没年不詳)を儲けたとのことです。
この孝衡の代から安倍氏(阿部氏)を
称するようになったということです。
孝衡の子には朝衡(1335年 -?、通称・安倍五郎)
があり、その子で孝衡の孫に
秀政(1358年 – 没年不明、通称:安倍権六郎)
がいたということです。
以下、孝晴、孝明と子孫は
近世に続いたということです。
つまり、「阿部藤原氏」の系譜は
以下のようになります。
ただし、「岩手県史」以外に
この系譜に関する記録物は
発見されてはいないとのことです。
泰衡⇒秀安⇒良衡⇒信衡⇒
頼衡⇒孝衡⇒朝衡⇒秀政(延文年間)
⇒孝晴⇒孝明
泰高(康高、万寿、万寿丸)の事績に関しては、
庄内の郷土史を研究している
土岐田正勝の「最上川河口史」によりますと、
泰衡の子万寿は、
酒田に逃れてきた当時は10歳に
満たなかったそうです。
元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいたとも。
そして、「その後泰高と名乗り、
家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、
『牧畑』を開拓した。
やがて泰高は京都に出て、
平泉藤原家再興を企図したがならず、
紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。
その子孫が南北朝の天授3年(1377年)
瀬戸内海の因島に移り住み、
『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」
という伝承が残っているとのことです。
最も、時衡・秀安・泰高は
いずれも同時代史料では確認できないそうです。
「愚管抄」や「吾妻鏡」といった
後世の編纂物にも記述はありません。
ま、「愚管抄」や「吾妻鏡」に
記載がないからと言って
それが真実ではない、
とは言い切れませんからね。
あえて載せない、ということも
選択できたかもしれませんし。
【藤原泰衡の御首】
金色堂に納められた
藤原泰衡の御首については、
長年、藤原忠衡のものと考えられ、
首桶が入れられていた木箱にも
「忠衡公」と記されていたとのことです。
昭和25年(1950年)の開棺調査にて、
死因については
斬首されたということですが、
その首にある切創や
刺創が数十カ所確認できたとのことです。
更に眉間と後頭にある
傷痕が
「吾妻鏡」の記述と一致することから、
藤原忠衡のものではなく
藤原泰衡のものであると判明されたのでした。
(むごいことをするもんだ・・)
他にも右側頭部に刀傷と見られる
深い傷があり、頭や顔に多数の切創や
刺創があったのでした。
これらの創から、
太刀を7回振り下ろし、
5回失敗して最後の2回で切断され、
釘打ちの刑に処された上で
晒し首にされたと推定されています。
また、顔にはむごい
切り裂かれた痕跡が確認されたのでした。
保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、
父に似て鼻筋が通り
頑丈な顔立ちであったということです。
(縄文系が濃かったのでしょうかね)
・・・高祖父の藤原経清のような
むごい最期だったのですね・・・。
にしてもひどいなぁ。
そうした「ツケ」が後年になって
自分に返ってくるわけですな、頼朝さん。
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歯の状態は正常で、
レントゲン検査から
第三大臼歯(親知らず)の歯根が
形成途中だったそうです。
一方、頭蓋骨は20代半ばと
30代半ば両方の特徴を有するという
見解も出されています。
この事実から、
「吾妻鏡」吉川家本に記されている
25歳没説と北条本に記されている
35歳没説の両方が無視できないことになり、
確証はされてはいません。
けれども、藤原忠衡が23歳で没したという
「吾妻鏡」の記録から、
それ以上の年齢に達していたことは
間違いないとされています。
首には縫合した跡が見られ、
近親者と考えられる人物により
手厚く葬られていました。
首の主を「忠衡」したという
誤伝がなされていたのは、
源義経の「判官贔屓」の影響とされています。
「父の遺言を守り悲劇の英雄である
源義経を支持した弟・忠衡こそ、
真の4代目たるべし」という心情とのことです。
また、逆賊(謀反人)の汚名を被った藤原泰衡が
鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる
訳がないという長年受け継がれてきた
思い込みからの推測も理由として挙げられています。
研究者の間では謀反人である藤原泰衡が
葬られることを近親者
(樋爪俊衡・季衡兄弟と推測されています)
がはばかったため、
首の主を「忠衡」ということにしたという
憶測もあるとのことです。
また、藤原泰衡の高祖父にあたる
藤原経清の首であるとの伝承もありました。
奥州藤原氏の祖でもありますからね。
「そうあってほしい」という願いでしょうね。
【藤原泰衡に対する見解】
小学6年で授業で日本の歴史を習ったのですが、
特に東北に関する歴史は独自の教科書があり、
詳しく時間をとって習いました。
授業の内容では、藤原泰衡はやはり、
奥州平泉を己の保身で売ってしまった謀反人で
臆病者、と教わりました。
そして源氏は東北を荒らす中央からの
侵略者の犬であるとの認識を持ちました。
が、親戚が湘南で、未就園児の頃から
数回、鎌倉を訪れている自分は、
複雑な気持ちも抱いていました。
都会育ちの母と、東北育ちの父方の祖母が
合わない理由も、妙に納得したりとか・・。
そうした藤原泰衡に対する見解が変わったのは
NHK大河ドラマ「炎立つ」でした。
藤原経清と藤原泰衡を
同じ俳優さんが演じているのですが、
最終回でその理由を明かしています。
藤原泰衡が当主の器ではなかったのは確かですが、
あまりにも凡庸な彼が、自分たちの全てを上回る
巨大な力が押し寄せてきた時、
どう考え立ち回っていったのかが
理解できました。
金色堂に手厚く葬られた理由も納得できます。
【中尊寺ハス】
開棺調査において、
藤原泰衡の首桶から100個あまりの
ハスの種子が発見されました。
種子は1995年に発芽が成功しています。
そして藤原泰衡の没から811年後、
種子の発見から50年後にあたる
2000年には開花に至りました。
ハスの花は中尊寺の讃衡蔵に保存されました。
中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し
境内の池に栽培しています。
また、藤原泰衡と縁の深い
福島県伊達郡国見町では
中尊寺蓮を譲り受け、
西大枝地区にハス池を作っています。
2021年に周辺が公園として整備され、
「あつかし千年公園」となったのでした。
【福島県北部の伊達地域】
藤原泰衡は、「伊達次郎」と
称していたということから、
福島県北部の伊達地域との
関わりも考えられています。
伊達郡に隣接する信夫郡は
奥州藤原氏と関連の深い
佐藤氏が支配していました。
佐藤氏は奥州藤原氏と同じ
秀郷流藤原氏で、
藤原秀衡の頃の当主であった基治は
藤原秀衡のいとこである
乙和子姫を妻にしていたとされています。
また乙和子姫の娘は藤原泰衡の弟である
藤原忠衡に嫁いだということです。
そのような奥州藤原氏と
強固な関係を持った佐藤氏の支配地に
隣接する伊達地域は、
文治5年(1189年)の
奥州合戦の折に藤原泰衡が
長大な防塁を築いた地域でもあります。
藤原泰衡がこの地域を直接統治していたという
証拠は現在のところはありませんが、
奥州藤原氏の影響力の
強い地域だったことは推測できるとのことです。
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【錦様】
また、文治5年9月3日に
藤原泰衡が秋田で討たれ、
首の無い遺体はその死を憐れんだ
贄柵周辺の住民たちによって
錦の直垂に大切に包まれて
埋葬されたとのことです。
やがて「錦様」と呼ばれるようになり、
その埋葬地とされる場所には、
藤原泰衡の墓石を御神体として祀る
錦神社が建っています。
【所在地】
〒018-5751 秋田県大館市二井田上出向
【西木戸神社】
それから藤原泰衡の後を追ってきた
藤原泰衡の妻である北の方が
夫の死を知って嘆き悲しんだ末に
同年9月7日に自害し
亡くなった場所に夫人を憐れんだ
里人が建立した西木戸神社があります。
夫人のために五輪の塔を
祀ったといわれています。
ちなみに西木戸神社は、
夫である藤原泰衡が祀られている
錦神社の方向に向いて建てられています。
【所在地】
〒018-5744 秋田県大館市比内町八木橋五輪台
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
山本 浩司(やまもと・ひろし)さんが演じられます。
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