【五番領城(ごばんりょうじょう)】
所在地:滋賀県高島市安曇川町五番領字西良
旧街道沿いにある五番領地区の中心の天満宮から信広寺にかけて
の方形単郭の居館形式の城です。
五番領村絵図になどによると、
東西60m、南北65m程の方形居館と推定されているそうです。
天満宮と隣の「信広寺」付近に築城されていたとの事です。
<遺構>
土塁
※ご子孫の居宅の庭に築山として土塁がのこされています。
<築城や歴史>
応安2年・正平24年頃(1369年)に
山崎兵庫頭によって築城されたと伝わります。
<山崎兵庫頭と有馬礼石>
山崎氏は高島七頭(たかしましちとう)という中世・近江に存在した
武士団にいましたが、佐々木家ではなく唯一愛智氏系の一族、との事です。
元亀年間(1570年~1573年)年間、
山崎左馬介が城主の時に、織田信長との戦いで
兵火により焼失してしまいました。
子孫は帰農し、「中村」姓を名乗り、
現在もこの近くにお住まいです。
五番領城と織田信長の軍勢との戦いの頃、
明智光秀は、浅井・朝倉との戦いや、
近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当していました。
琵琶湖水軍を担っていた林氏や堅田衆との画策もほぼ同時期です。
そして1573年には義昭と袂を分かち、信長の直臣となった時期となります。
<地図>
青印は五番領天満宮の小道側付近
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【愛智系山崎氏】
近江佐々木氏を祖とする一族ではありますが、
佐々木 経方(ささきつねかた)の子である
佐々木行定の子である、
佐々木家行が愛智氏を名乗ります。
そしてその家行の五男である憲家が山崎氏を名乗り、
この憲家が、愛智氏系山崎氏の祖となります。
なお、佐々木行定の兄弟は佐々木爲俊(ささきためとし)
(別名:季定(ささきすえさだ))で
その子である佐々木秀義(ささきひでよし)が
佐々木氏嫡流及び、
佐々木氏高島家の祖となる佐々木(高島)高信へとつながっていきます。
<諸説あり>
※佐々木爲俊・佐々木行定・佐々木家行を兄弟とみる説もあります。
<簡単な系図>
佐々木経方⇒佐々木行定⇒佐々木(愛智)家行⇒山崎憲家
【高島七頭】
高島七頭(たかしましちとう・たかしましちがしら)
佐々木高信を祖とする一族が土着し、
その中で惣領家である高島氏(居城は清水山城)を中心とした
朽木氏・永田氏・平井氏・横山氏・田中氏・山崎氏で
形成した、西近江に勢力を張った武士団です。
山崎氏のみが佐々木高信を祖としていません。
<高島高信までの簡単な系図>
佐々木秀義⇒佐々木 定綱(秀義の嫡男、頼朝挙兵を助けた佐々木四兄弟)⇒
佐々木 信綱(定綱の四男、三男とも)⇒高島高信(信綱の次男)
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