【柴田勝定】
柴田 勝定(しばたかつさだ、生没年不詳)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
通称は源左衛門尉。諱は後に安定。
柴田勝全と同一人物とする説もありましたが、
花押が異なり、
山崎の戦後も諸説伝わることから、
現在は別人と推測されています。
【生い立ち】
はじめ織田氏の重臣である
柴田勝家に仕えていたとされています。
主君である柴田勝家と同姓ですが、
血縁関係は不明とされています。
けれども別の説では柴田勝定は柴田勝家の甥で、
丹波柏原城の城主でしたが、
天正10年(1582年)6月16日に
丹波柏原城にて自害したともあるそうです。
柴田勝定が自害したとされている日は、
明智光秀の死去から3日後とされています。
享年は44歳であったとの事です。
柴田勝家の甥である佐久間勝政(柴田勝政)と共に
元亀4年(1573年)に琵琶湖沖島の礼銭徴収や、
下京が放火から免れた礼銭徴収を行っていたことから、
かなり高い地位にいたと推測されています。
天正3年(1575年)9月、
柴田勝家が越前に封じられてからも、
西蓮寺への還住催促、
称名寺への下間頼照討ち取りの褒賞、
劔神社からの申状を受けるなど、
奉行としての活躍をしていたとされています。
天正7年(1579年)には、
柴田勝家の留守中、北庄城代を務め、
一揆に囲まれた丸岡城を救援したとされています。
けれども、「明智軍記」によると、
同年に持病を理由に所替えを拒否したことが、
柴田勝家の勘気に触れて出奔、
明智光秀に転仕し、
丹波柏原城を預けられたとされています。
この頃に明智秀満の妹を妻にしたという
記述が残っているそうです。
本能寺の変では、そのまま明智光秀に属し、
二条城攻めに参加しています。
主戦場の山崎の戦いにも斎藤利光と共に、
兵2000を率いて先鋒として
参加していたとされています。
明智氏滅亡後は、諸説あります。
前述では丹波柏原城にて自害としましたが、
山崎の戦いで殿(しんがり)を務め、
討ち死にしたとも言われています。
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【柴田勝全とは?】
また、山崎の戦い後に、
羽柴秀吉に降伏して
堀秀政に属し、堀秀政の子・堀秀治の代になって
越後で1万3000石を知行し、
関ヶ原の戦いでは、
上杉景勝の扇動した一揆勢と戦い、これを鎮圧しました。
けれども老臣の堀直政と争いになって改易となり、
以後は浪人したとされています。
ですが、この堀秀政に属したとされているのは、
最近では柴田勝全(しばたかつまた)とされております。
大体、山崎の戦いに明智軍として参加した者を
そうやすやすと羽柴秀吉が許すはずはありませんからね。
なお、堀直政は斯波氏奥田一族の出であり、
柴田勝全が堀秀政に仕えるようになったのは、
この堀直政の縁であったとも言われています。
また、柴田勝全の正室及び継室は、
明智光秀の重臣である斎藤利三の娘たち、
とされています。
柴田勝定と柴田勝全は兄弟か
従兄弟であったのでしょうか?
二人で明智光秀につかえていたのでしょうか?
ナゾは残ります。
【柴田氏】
【清和源氏足利氏流斯波氏族】
織田信長の重臣を務めた柴田勝家の血筋です。
始祖の柴田修理大夫義勝は
越後国柴田(現在の新潟県新発田市)の人で、
同地の地名をもって家号としたと伝わっています。
其の後、尾張国愛知郡一色城に拠り、
「尾張志」によりますと一色城の城主として
柴田源六の名が見えるとあります。
城下の一色村にある神蔵寺には柴田源六源勝重、
在世の折、同寺を建立し、
雲岫麟棟和尚を招待して開祖としたと伝わっているそうです。
柴田勝重の没年は文亀3年(1503年)であるといい、
戒名は霊元院殿天信了運大居士とのことです。
戦国時代の武将・柴田勝家は、
その隣村の村上村の人であるといわれています。
もしも、柴田修理大夫勝重の裔であれば
孫か曾孫かと推定されているそうです。
一方で、柴田勝家は柴田修理大夫義勝の孫との記述もあり、
その系譜は現在では必ずしも十分明らかとはなってはいません。
越後国新発田の出であれば、
佐々木氏の同族ということになり、
少なくとも柴田修理大夫義勝の孫という系譜については
現在では疑わしいとも考えられているそうです。
柴田勝家は若くして、
家老として尾張の織田信秀・信長・信行親子に仕えています。
初めは、織田信行の家老として仕えており、
織田信長の排除を試みましたが、
弘治2年(1556年)8月に
織田信長との戦いに敗れて、
降伏し、織田信長・信行生母である
土田御前の強い願いで赦免されています。
天正10年(1582年)に、
織田信長とその跡継ぎの織田信忠が
本能寺の変で急死すると、
織田信長の跡継ぎをめぐり
羽柴秀吉と対立しています。
天正11年(1583年)には、
賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦うも敗れ、
その後居城の北ノ庄城で自害、
勝家筋の柴田氏は滅びました。
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この柴田勝家が、実は明智一族の出とも、
織田信長の生母である土田御前が、
土岐明智一族の流れであるという説もあります。
これはまたいずれ機会を見て記してみたいと思います。
なお、勝家の養子である
柴田勝政(佐久間盛次の三男)の子勝重が
徳川家康に仕えており、
その後も江戸幕府の旗本として柴田の家名を残しています。
寛政8年(1796年)には、
柴田勝房が柴田氏の代々の歴史を刻んだ碑を
春清寺に建立しているとのことです。
【丹波柏原八幡山城跡】
丹波柏原八幡山城跡(たんばかいばらはちまんやまじょうあと)
八幡山城跡。
「丹波柏原城」という城は見当たらず、
代わりに同じ地域と名前の城を記しておきます。
「八幡山城」という名前も、
近年になっての名称であることから
かつては異なる名称だった可能性もあります。
【所在地】
兵庫県丹波市柏原町柏原
【築城及び年代】
天正6年・明智光秀と伝わります。
【形態】
丘城
【遺構】
堀切・曲輪
【城郭・成り立ち】
柏原市街地から北へ半島状に突き出た
八幡山の尾根先端部に築城されていたそうです。
八幡山城跡の中心遺構は、
柏原八幡宮の社域を城地とする南半分と、
大きな堀切(空堀)を隔てて
尾根に築いた連郭部とのことです。
今も現存している三重塔付近にある
曲輪の背後には、
堀切の構造を確認できるそうです。
山麓の神社鳥居側を流れる用水路は、
織田信包が
この地に陣屋を築いたとされていることから、
その際の堀の名残とされているそうです。
現在は八幡神社の境内となっています。
【城の歴史】
天正6年(1578年)に
明智光秀によって築城されたと伝わります。
築城の目的は丹波攻略であり、
反織田勢力である荻野直正・波多野秀治連合軍がある
黒井城と高見山城の押さえの為でした。
天正13年(1585年)には、
羽柴秀吉が八幡神社を造営したとあります。
【交通アクセス】
<鉄道>
JR福知山線「柏原」駅 徒歩10分程度
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<車>
舞鶴道春日IC⇒国道175号線
駐車場は麓に八幡宮としての駐車場があるそうです。
石段を200段程、5分~10分で到着するそうです。
麓に柏原観光案内所があります。
<場所>
【丹波・譲葉山城跡】
丹波・譲葉山城跡(たんば・ゆずりはやましろあと)
【所在地】
〒669-4273 兵庫県丹波市春日町国領(譲葉山)
標高は594m。
【形態】
山城
譲葉山東側の東砦と
譲葉山西側の西砦の二つがあるそうです。
【築城・年代】
天正6年前後・明智光秀とされています。
目的は柏原八幡山城築城と同じで、
西丹波攻略のために築城されたそうです。
【遺構】
土塁・堀切・堅堀
【登城口】
柏原高校から柏原藩主織田家廟所を経て、
譲葉山に登城する道ですと道標があるとのことです。
<場所>
青印は「柏原藩主織田家廟所」付近です。
【織田信包】
織田 信包(おだ のぶかね)は、
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
丹波柏原藩初代藩主。
信包系織田家初代。織田信秀の四男(異説あり)で、
織田信長の弟。
父は織田信秀であり、
母は不明とされています。
けれども、織田信長の生前時の
織田一門内における地位の高さは、
織田信包が
織田信長の同母弟である可能性もあるとのことです。
天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、
織田信忠80騎、織田信雄30騎に続いて、
織田信包が10騎を率いていたとの記述があります。
次いで織田信孝の10騎に続きます。
また「信長公記」によりますと、
織田一門の名が連なる場合、
織田信包は必ず織田信雄と織田信孝の間に入っており、
実質的に一門の序列3番目の地位に
位置していたものと推測されています。
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