【鐙摺山(あぶすりやま)】
葉山の鐙摺城址(鐙摺山)は、
旗立山とか軍見山とも呼ばれています。
源頼朝に何かとゆかりが深く、
鐙摺の名は、源頼朝がこの城を訪れた際、
道が狭くて馬の鐙(あぶみ)を摺(す)った
ことに由来しているそうです。
国道134号線を下り、逗子の渚橋を右折して
少し進むと日影茶屋がみえます(県道207号線)。
その対面に高さおよそ25メートルくらいの小山があり、
これが鐙摺城址(旗立山、軍見山)です。
山頂は平場になっており、物見所といった佇まいです。
【鐙摺山への登城口】
鐙摺城址へは日影茶屋の駐車場脇から登ります。
(日影茶屋さんの駐車場には停めないでくださいね)
かなり急で狭いので十分にお気を付けください。
また、暖かい季節だと、草が生い茂って
道がなくなってしまうので、
登城のシーズンはできれば
冬~早春がよろしいかと思います。
※登城したのは6月で一面の草・草・草で、
草の海をかき分けて進む感じでした。
中には自分の背丈くらいに生い茂っている草もありました。
山頂からの眺めは良く、逗子、鎌倉の海岸沿いを見渡し、
遠く江ノ島や富士山まで見ることができます。
但し、一面の草だらけなのであまり長居はしたくなくなります。
眺めがよく、草一面の小山には
それぞれの時代の歴史があります。
中でも多いのは源頼朝に関することです。
【鐙摺城址】
治承元年(1177年)、
伊豆配流の身であった挙兵前の
源頼朝が三浦を訪れた際、
ここ鐙摺にあった三浦大介義明の三男である
太多和三郎義久の別館を訪れました。
小山に城を造る計画を話します。
太多和義久が源頼朝を案内したときに
道が狭く巌に源頼朝の鐙が摺れたそうです。
ここから源頼朝が鐙摺山と名づけたそうです。
【別名】
軍見山、旗立山
【構造】
山城
【築城主】
三浦氏
【築城年】
平安時代後期
【主な城主】
三浦氏
【廃城年】
?
【遺構】
曲輪、土塁
【指定文化財】
葉山町史跡
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【旗立山】
治承4年(1180年)8月、
挙兵した源頼朝のもとに参じるため、
三浦一族300騎は鐙摺城址の北側にある
小浜から出向しましたが、
河川の氾濫などで間に合わず、
その間に源頼朝は石橋山の合戦に敗れてしまいます。
三浦一族の軍勢は引き返しますが、
帰路、由比ヶ浜のあたりで
畠山重忠の軍勢と小競り合いとなりました。
その時、三浦一族の軍勢を率いた
三浦義澄はこの山に旗を立てて
気勢を上げて軍勢を鼓舞したという
伝説から旗立山とも呼ばれています。
【伊東祐親入道供養塚】
山頂の平場には
葉山町指定史跡になっている
「伊東祐親入道供養塚」があります。
「曾我物語」に
「伊東祐親入道は三浦の鐙摺
というところで首をはねられた」
とあることに由来しているとのころです。
塚は石を重ねた簡素なものです。
訪れた時は一面の草の中に半ば埋もれていました。
【源頼朝の愛妾、亀の前】
源頼朝は愛妾、亀の前を小坪飯島にある
伏見冠者広綱の家に住まわせていました。
寿永元年(1182年)11月10日、
源頼朝の御台所であった北条政子は
北条ゆかりの牧宗親に命じて
伏見冠者広綱館を壊させたため、
伏見冠者広綱は亀の前を鐙摺にある
大多和義久の屋敷に逃しました。
そのためその後、
源頼朝は度々大多和義久の屋敷を訪れ
遊宴を催したといいます。
【源実朝が一句】
建保5年(1217年)、
源実朝はこの地に観月し、
「大海の磯もとどろに寄する波
われてくだけてさけて散るかも」
と詠んだと言われています。
【軍見山】
源頼朝の時代から時が流れて戦国初期、
かつて宝治合戦にて北条氏に滅ぼされた
三浦一族は再興を果たし
三浦道寸(上杉系三浦氏)を
領主(相模三浦氏最後の領主)として
三浦半島に勢力をもっていました。
しかし、今度は小田原北条の伊勢盛時(北条早雲)に
滅ぼされることとなります。
その戦いの最中、永正9年(1512年)、
伊勢盛時(北条早雲)と戦い
小坪の住吉城(住吉城址)から退却する
三浦道寸はこの山に登って物見したといいます。
この話から軍見山といわれるようになりました。
なお、付近の葉山港の片隅に
「日本ヨット発祥の地」の石碑があります。
有名なお店やスポットがたくさんあります。
【所在地】
〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町堀内34
【交通アクセス】
<電車>
JR横須賀線逗子駅・京浜急行新逗子駅
<車>
横浜横須賀道路逗子ICから逗葉新道方面
横須賀ICから葉山方面
県道207号線(森戸海岸線)。
<駐車場>
<1>
小浜海岸沿いにコインパーキングがあります。
<2>
葉山港付近に県営葉山港駐車場があります。
<トイレ>
葉山港付近にあります。
割ときれいなトイレですよ。
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