【上三川城】
上三川城(かみのかわじょう)は、
現在の栃木県河内郡上三川町上三川にあたる
下野国河内郡上三川にあった城です。
宇都宮氏にとって多功城と並ぶ
南方を守る有力な支城であり、
城主は横田氏と今泉氏であったとのこと。
城跡の大部分は宅地化しましたが、
本丸跡が上三川城址公園として
残っています。
【城郭構造】
平城
【築城主】
横田頼業
【築城年】
建長元年(1249年)
【主な城主】
横田氏・今泉氏
【廃城年】
慶長2年(1597年)
【遺構】
上三川城址公園
【構造・遺構】
往時の城は、東西約500m、
南北約800mの長方形をしており、
北辺は長泉寺・白鷺神社付近、
東辺は台地の縁、
南辺は小字下町の北部
(真岡石橋街道付近)、
西辺は普門寺付近でした。
城跡はほぼ宅地化し、
本丸跡を上三川城址公園として
残すのみとなっています。
付近には東館・城道・馬場など、
城があったことを窺わせる
小地名が残っているとのことです。
本丸は、北辺86m、東辺93m、
南辺63m、西辺91m、
高さ3~4mの土塁に囲まれていたとされ、
その内側は東西63m、
南北78m(最大幅の値)とされ、
面積は4250m2であったとのこと。
現役の城であった頃は、
この中に城主の居館、執務空間、
評定の間、勤番の詰所などが
あったと考えられているそうです。
上三川城址公園となった後は、
芝生広場が中央に広がり、
散策園路に沿って野外ステージ、
四阿、勝姫稲荷神社、銀明水などがあります。
園内にはサクラ、ツツジ、アジサイ、
モミジなどが植えられ、
春には花祭りが開かれます。
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土塁の南西隅は隅櫓があったところで
7mと高くなっております。
南辺は大手口に通じる虎口があったため、
中央部が途切れています。
城址公園として整備する前は、
足の踏み場もないほどに、
土塁上に雑木が茂っていたとのことですが、
整備後は土塁に沿って
遊歩道が敷かれました。
虎口から15台分の無料駐車場へ向かって
道が伸びており、往時は土橋が架かっていました。
周囲の堀は北側を除いて埋め立てが進み、
往時よりも細くなっています。
北側に残る堀は、幅11m、深さ3mです。
二の丸には櫓や塀などがありましたが、
居住者はいなかったと考えられています。
城主一族や重臣の屋敷は
敷地の広い三の丸にあったとのことです。
城内に屋敷を構えた重臣は、
横田氏、上三川氏、中三川氏などでした。
2022年現在、上三川城跡は
国・県・町のいずれからも
文化財指定を受けてはいないとのことです。
前半期に城主を務めた横田氏と
後半期に城主を務めた今泉氏の墓が、
それぞれ上三川町内の寺院に残っており、
いずれも上三川町指定史跡となっています。
【城の歴史】
【横田氏の城主時代】
宇都宮頼綱の次男である頼業は、
分家して嘉禎3年(1237年)に
河内郡横田郷兵庫塚に横田城を築き、
横田氏と称したとのことです。
けれども、宗家の宇都宮氏が
南方へ勢力を伸ばし、
宝治2年(1248年)に
多功城が完成したこともあり、
建長元年(1249)秋に
上三川城を築いて横田城から移ったとのことです。
築城当時の所領は1000町歩という記録があり、
貫高に換算すると3千貫文、
軍役に換算すると500騎に相当するとのことです。
横田氏が勢力を高め始めたのは
3代城主の横田親業以降のことであり、
親業は正清寺を、
5代城主の横田貞朝は
善応寺をそれぞれ建立しました。
6代城主の横田泰朝は
足利氏満に仕えて鎌倉に住み、
宇都宮宗家への出仕を
怠ることが多かったため、
一時宗家と不仲になりますが、
後に和解して次男の伴業を
宇都宮氏綱の猶子にするほどになりました。
伴業は後に上三川氏を称しました。
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7代城主の横田師綱の時代、
康暦2年(1380年)に、
小山義政と宇都宮基綱が
合戦を交える裳原の戦いが起きました。
師綱は息子の綱業らとともに
一族を率いて宇都宮方として奮戦、
師綱は重傷を負って城に戻ったので、
息子(綱業の弟)である
今泉元朝を8代城主に迎えることに。
ただし、元朝が8代城主となったのは
永享年間(1429年⇒1441年)とされ、
計算上、師綱は負傷してからも
50年ほど城主を続けたことになります。
の件について「上三川町史」では、
横田綱業が8代、その息子・綱俊が
9代城主に就任した、としています。
【今泉氏の城主時代】
今泉氏が城主になって以降、
元城主の横田氏は、
上三川城三の丸に屋敷を構え、
今泉氏を支える立場となったとのことです。
天文18年(1549年)9月、
喜連川五月女坂の戦いでは、
12代城主・今泉泰高と、
その息子で13代城主の今泉泰光は、
宇都宮方の先陣を切って奮戦。
続いて永禄元年(1558年)、
上杉謙信は宇都宮城を落とす前哨戦として、
多功城へ攻め込みました(多功ヶ原の戦い)。
この時、今泉氏は多功城主の多功長朝に加勢し、
他の宇都宮方とともに、
敵の先陣・佐野小太郎らを
討ち取り敗走させたのでした。
けれども相次ぐ戦での心身の疲労からか、
泰光は父・泰高に先立ち
天正5年(1577年)に亡くなり、
康高も天正9年(1581年)に
世を去ったのでした。
14代城主・今泉高光の時に、
豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、
宇都宮宗家とともに、
上三川城から数百人が
朝鮮半島に渡っています。
文禄4年(1595年)に帰国すると、
高光は上三川城へ戻らず、
次の出兵に備えて大坂に詰めました。
この頃、宗家の宇都宮氏に
嗣子問題が発生しています。
当主・宇都宮国綱には
息子がいなかったため、
豊臣秀吉は浅野長重を
養子にするように働きかけ、
家老職にあった高光や
北条勝時は大いに賛成。
これに反発した国綱の弟・芳賀高武は、
勝時を京の四条河原で斬殺しました。
高武の勝時斬殺を伝え聞いた
高光は恐れをなし、少数の家臣を連れて、
すぐさま上三川城へ戻ったとのことです。
高光の上三川への帰城を察知した高武は、
慶長2年5月2日(1597年6月16日)、
数百騎を従えて上三川城へ夜襲をかけます。
高光は応戦しましたが、
城の四方に火を放たれて
打つ手はなく、菩提寺の長泉寺まで逃れて
従者ら15人と共に自害し、
上三川城は落城したのでした。
【落城後】
今泉高光の息子である今泉宗高は
落城当時6歳で、
高光の近臣の手助けを受けて、
高光の弟である今泉五郎太夫(今泉重経)
の館まで落ち延びました。
そのまま叔父の今泉重経に引き取られ、
成人後は、初代城主の横田頼業が築城した
横田城跡を開拓し、宗高は帰農しました。
宗高の子孫は現代でも兵庫塚に
居住しているとのことです。
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落城後に城が再建されることはなく、
城跡は次第に宅地や農地へと変化しました。
城跡のうち本丸跡は、
林に囲まれた畑地として
利用された後、上三川城址公園として
整備されました。
城址公園とする際に
大幅な改変が加わり、
本来の本丸の遺構は
失われてしまいました。
【伝説】
<白鷺神社の伝説>
康暦2年(1380年)、
小山義政が上三川城へ攻め込んだ際、
明神の森を白鷺の群れが
飛び交うさまを多数の白旗が
風になびいている
(敵兵が森に潜んでいる)と誤認し、
義政は戦わずして退却。
この一件を明神の加護と讃え、
それまで「白鷺明神」ないし
「鷺明神」と呼ばれていた神社は
「白鷺神社」に改められたとのことです。
<片目の魚>
上三川城の落城に関連して、
次のような伝説が残されています。
今泉高光には勝姫という美しい娘がおり、
芳賀高武は勝姫に求愛していました。
けれども、姫が布山源七という
若き勇士との縁談をまとめたことを知り、
高武は力ずくで姫を奪い取るべく、
2人の祝宴が行われた
慶長2年5月2日の夜に上三川城を襲撃。
「もはやこれまで」と悟った姫は
懐剣で自身ののどを突こうとしましたが、
誤って片目を刺してしまいます。
父の高光は血まみれになった娘を抱き、
堀に身を投げたのでした。
それから長い年月が経ったある夏の日、
村の老人が堀で数匹の魚を獲ってみたところ、
すべての魚が片目だけでした。
これを聞いた村人は、
姫の化身に違いないと考え、
誰も堀で魚を獲ることは
なくなったのだといことです。
この伝説には別バージョンの話もあり、
縁談・祝宴のくだりがなく、
求愛を拒否されてもなお
思いを募らせた芳賀高武が
攻め込んできたとする語りや、
「慶長2年5月2日の夜に
今泉高光が大坂城から久しぶりに
上三川城へ帰ってきたことを祝う
宴会の最中に芳賀高武の軍勢に攻め込まれ、
勝姫自らが薙刀を手に取り敵をなぎ倒したが、
火矢を受けて「もはやこれまで」と悟り、
堀に身を投げた。
という内容です。
また、高武の求婚を断ったのは、
勝姫自身が嫌がったからとする語りと、
妻に先立たれた悲しさのあまり、
一人娘を嫁に出すことを
高光が渋ったからとする語りも
あるとのことです。
いずれにせよ、高武だけでなく、
他からの縁談も断り続けていた、
という点は共通しています。
<片目の泥鰌>
上三川城の落城に関して、
「片目の泥鰌(どじょう)」
という伝説もあります。
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豊臣秀吉は、浅野長重を
宇都宮国綱の養子にしてはどうか、
という意向を示しました。
国綱が秀吉に仕え始めて
まだ日が浅かったことから、
秀吉の意に背くわけにはいくまいと、
今泉高光は北条勝時に相談し、
この件を受けることに決めました。
これを知った芳賀高武は激怒し、
大坂に上って秀吉に破談を申し入れ、
勝時を四条河原で斬殺しました。
怒りの収まらない高武は、
高光を殺そうと、
小倉長左衛門と小宅三左衛門に
上三川城攻めを命じました。
慶長2年5月4日の夜、
密偵から城内に防備がないことを
伝えられると、小倉・小宅の両陣営は
狼煙を合図に城内へなだれ込み、
不意を突かれた高光は
家臣らと長泉寺まで逃れて自害し、
高光方は完全敗北を喫した、とのことです。
高光の奥方は、「もはやこれまで」と悟り、
懐剣で自身ののどを突こうとしましたが、
誤って片目を刺し、堀に身を投げました。
堀には奥方の怨霊が
片目の泥鰌となって
永く棲み付いたのだということでした。
更にこの語りには、
次のような続きがあるとのことです。
上三川城の落城から
一夜が明けるた5月5日、
この日は端午の節句でしたが、
近在の百姓や町民は
悲嘆に暮れ、誰一人として
幟を揚げようとしませんでした。
以来、上三川では端午の節句に
幟を揚げない風習ができたとのことです。
城のそばにあり、小倉の軍勢が
一時身を潜めた虚空蔵様(こくぞうさま)は、
城主の一大事にもかかわらず、
何らの功徳をもたらさなかったので、
「コケ蔵様」と呼ばれるようになったとか。
コケ蔵様は江川のほとりにありましたが、
耕地整理の際に行方不明になったとのことです。
【所在地・上三川城址公園】
〒329-0611 栃木県河内郡上三川町上三川5078番地
【駐車場】
上三川城址公園の無料駐車場があります。
入口がやや狭く、面している道路も
商店街で道幅も狭いのでお気を付けください。
【交通アクセス】
(電車)
JR宇都宮線「石橋」駅西口から
バス停で上三川経由・真岡行き乗車、
約12分「上三川車庫前」バス停降車、徒歩約5分
(車)
北関東自動車道「宇都宮上三川」ICから約10分
宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町
下野・横田城~宇都宮一族の横田氏の居城、のちに上三川城に移りました。
飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。
早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。
多功城~宇都宮氏の一門である多功氏の居城で宇都宮城の南方防衛でした。
唐沢山城~藤原秀郷の築城と伝わる「関東一の山城」と称される関東七名城。
藤原秀郷公墳墓と藤原秀郷~関東武士の憧れであり平将門の乱を平定した人物です。
壬生城~壬生氏が築城し、江戸時代に鳥居氏が城主となり先祖の鳥居元忠公を祀りました。
真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋がありました。
益子古城と益子城~宇都宮氏の家臣である 益子氏の居城でした。
茂木城(桔梗城)~宇都宮一族の茂木氏の居城で現在は綺麗に整備されています。
笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。
太平寺(那須烏山市)~創建約1200年の天台宗の古刹で蛇姫様こと於志賀姫の墓があります。
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