【赤木城】
赤木城(あかぎじょう)は、
三重県熊野市にあった日本の城です。
城跡は1989年10月9日に
「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で
国の史跡に指定されてます。
また、2017年4月6日、
続日本100名城に選定されました。
続100名城スタンプは現在、
道の駅九郎兵衛の里で押印できます。
パンフレットはここでも頂けます。
<道の駅九郎兵衛の里・所在地>
〒519-5413 三重県熊野市紀和町板屋82
<営業時間>
午前10時~午後4時(時短営業)
通常は午後5時まで。
<ランチ>
午前11時~午後2時
(平日・土日祝)
<定休日>
毎月第2・第3火曜日
<トイレ>
24時間利用可能
<駐車場>
普通車:43台
(うち、おもいやり駐車場2台、
大型バス3台が駐車可能)
電気自動車充電「EVスポット」
<電話>
0597-97-0968
<FAX>0597-97-1968
【城郭構造】
平山城
【築城主】
藤堂高虎
【築城年】
天正17年(1589年)頃
【廃城年】
元和元年(1615年)以後
【遺構】
郭(曲輪)・石垣・堀切・土塁
【指定文化財】
国の史跡
【歴史】
紀南の熊野一帯は、
南北朝の時代より入鹿氏など
多くの土豪が勢力を保持していました。
天正13年(1585年)、
豊臣秀吉の紀州攻めの後、
紀伊国の平定を命じられた
弟の秀長(後の和歌山城主)により
検地が始まりますが、
天正14年(1586年)8月、
山本氏ら熊野牢人衆による
天正の北山一揆が起こりました。
この一揆は、秀長の制圧により
10月にはほぼ治まりましたが、
天正16年(1588年)9月から
天正17年(1589年)5月にかけて
徹底的に征伐されました。
鎮圧の後、秀長はこの地で
山(材木)奉行に就かせていた
家臣の藤堂高虎に赤木城の築城を命じ、
天正17年(1589年)頃に
堅固な城が築かれたと考えられています。
慶長年間(1596年⇒1615年)
の領主であった浅野氏
(新宮藩主・浅野忠吉)に対して、
慶長19年(1614年)の
大坂冬の陣の出陣の隙を狙って
12月に再び北山一揆が起こり、
総勢およそ3千人が新宮城に
侵攻しようとしましたが壊滅し、
363人が処刑されました。
藤堂高虎が赤木城の修築を終えた
翌年の慶長20年(元和元年)1月、
一揆の残党が築城した赤木城の
落成披露の際に捕らえられ、
160人が赤木城の西約1kmにある
田平子峠(たびらことうげ)で斬首されました。
その後、赤木城は元和元年(1615年)の
一国一城令により廃城となったといわれています。
田平子峠刑場跡には、
昭和43年(1968年)10月に
北山一揆殉難者供養塔が建てられています。
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1992年より2004年にかけて、
赤木城は文化庁および
三重県の補助により
「赤木城保存整備事業」が行われ、
調査・整備されました。
2015年にテレビ番組の
城跡特集で取り上げられ、
その後、新聞で霧の立ち込める中に
城跡が浮かぶような写真が掲載されたり、
インターネットで城好きの間で
盛んに紹介されたことなどにより、
2014年は2040人であった訪問者が、
2015年には3万3078人に達し、
同年4月だけでも7524人
(2014年の年間訪問者の約3.7倍)
が訪れるようになりました。
注目される前は、湯ノ口温泉の入浴客が
丸山千枚田を見物したついでに
立ち寄る程度であったのでした。
丸山千枚田~白倉山の南西斜面を利用した棚田群、棚田オーナー制があります。
鉱山トロッコ電車(坑内電車)で行く湯ノ口温泉~入鹿温泉ホテル瀞流荘⇔湯ノ口温泉をレトロなトロッコ旅。
【構造】
登城口付近に
鍛冶屋敷があったとの
伝承があり、また、
近隣の入鹿(いるか)は
古くより有数の銅山として
知られています。
赤木城の麓には、
北山から田平子峠を越えて
入鹿に通じる北山街道が
延びています。
城はその要衝に築かれ、
縄張りの規模は東西90m、
南北120mとなります。
「紀伊続風土記」によりますと、
「村の西にて岡山の上にあり
周5町、高38間、本丸、二の丸、
三の丸、馬場、池等も備わり、
高さ2間の石垣今に存し」
と記されているとのことです。
【主郭】
かつて本丸と呼ばれた主郭(曲輪 I)は、
東西33m、南北27mの
ほぼ方形ないし台形となっていました。
城郭の中心として最高所に位置し、
複雑な二重の枡形虎口を備えていました。
また、南・北の側面には
横矢掛り(よこやがかり)が認められています。
石垣は高さおよそ3~4mで、
反りのない野面(のづら)乱積み(らんづみ)
となっています。
北西角は高さ5mで、
四隅は算木積み(さんぎづみ)となります。
東側の下に犬走りがあり、
北郭(付曲輪)および
北の堀切につながっています。
【北郭】
北郭は主郭の北に延びる
尾根にあり石垣が見られますが、
簡素で西側には石垣はありません。
北郭のさらに北方に、
幅およそ9mの堀切が
設けられています。
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【東郭】
主郭より南東に延びる
尾根上にある東郭は、
高さ3m近い石垣をもつ
一対の郭(曲輪 II・III)からなっています。
この2つの郭に挟まれた
登城路に門の礎石が残り、
ここに間口2.4m、
奥行1.8mの
四脚の門があったと推定されています。
また、郭内より建物のものとされる
礎石が認められています。
二の丸の位置は不詳ですが、
この城門を備えた南北25m、
東西8mの東郭が
二の丸であったとも考えられています。
【西郭】
主郭より南西に延びる細い尾根上に、
西郭と呼ばれる4つの郭
(曲輪 IV・V・VI・VII)があります。
三方に石垣をもつ
上側の郭(曲輪 IV)からは、
2棟の建物の礎石とともに
水溜(みずため)とも考えられる
石組が発掘されました。
【南郭】
東郭と西郭に挟まれた
山裾の谷間に位置し、
3層の平らな段状に削り
整地されています。
この南郭からも建物の礎石が
認められるとともに、
土溜めの石積みも見つかっています。
また、かまど跡も認められており、
かつて付近に4基のかまど跡が
残存したともいわれています。
【交通アクセス】
(電車)
JR紀勢本線「熊野市」駅からタクシーで約30分
(車)
紀勢自動車道「熊野大泊」ICから約40分
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【トイレ】
男女別の水洗トイレがあります。
清掃が行き届いています。
【所在地】
〒519-5404 三重県熊野市紀和町赤木122
滞在所要時間:30分~
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