【椎の木屋敷】
椎の木屋敷(しいのきやしき)は、
愛知県刈谷市銀座6丁目にある史跡です。
「椎の木屋敷跡」として
1997年(平成9年)3月13日に
刈谷市指定文化財(史跡)に指定されました。
【地理地形】
刈谷城本丸(現在の亀城公園)から
真東に500mほど、
磧川(せきのかわ、現在は暗渠)
を超えたあたりは
周辺より5mほど高くなっています。
現在は刈谷市立亀城小学校と
正覚寺に挟まれたこの高台には
かつてシイの木が
生い茂っていたことから
椎の木藪とも呼ばれ、
この付近一帯の土地を
椎の木屋敷と呼んでいます。
<椎の木屋敷跡入口>
【歴史】
水野忠政の娘である
於大の方は天文10年(1541年)に
松平広忠に嫁ぎ、
天文11年(1543年)に
竹千代(後の徳川家康)を出産しました。
けれども、天文14年(1544年)に
実家の水野家が
今川家から織田家に鞍替えしたため、
後難を恐れた松平広忠から
離縁されてしまいました。
この際、岡崎城から
刈谷の水野家に戻って
この屋敷に住んだとされています。
江戸時代には禁足地扱いされました。
屋敷の出入口に鍵が掛けられ
人足により手入れされていました。
庶民の立ち入りは不可でした。
かつて文字通りの
屋敷建築物も存在し、
敷地の中央部には数基の
五輪塔があったとされています。
於大は天文17年(1547年)に
阿久比の久松俊勝と再婚し、
椎の木屋敷を離れて
坂部城に移りました。
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大政奉還後の明治4年(1871年)には
井野氏がこの土地の所有者となり、
敷地の大部分を庭園とした上で
新たに庵を設けました。
やがてこの土地は宅地化され、
刈谷市は昭和55年(1980年)の
市制30周年記念事業として
土地の一部を取得し、
1997年(平成9年)3月13日に
刈谷市指定文化財(史跡)に指定した後、
1999年には市民に
開放する史跡として整備しました。
於大の座像や東屋のある庭園となっています。
その於大の座像の目線は、
置いていった我が子である
竹千代を思ってなのか
岡崎の方角に向けられているとのことです。
【交通アクセス】
名鉄「刈谷市」駅下車 徒歩15分程度。
【所在地】
〒448-0845 愛知県刈谷市銀座6丁目58−1
【駐車スペース】
普通乗用車1台分くらいあり。
ただし、帰りの運転や切り返しについては
それなりの運転技術を要します。
狭くてカーブが多いです。
刈谷城~元は「刈屋城」、水野忠政が築城、信元が後を継ぎ於大の方はこの城から岡崎に嫁いでいます。
於大の方~徳川家康の生母、戦国の動乱の中を逞しく生き抜いた女性です。
水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。
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