【江島(絵島)囲み屋敷】
伊那市高遠町の高遠城下には、
高遠歴史博物館に隣接する形で
「江島囲み屋敷」があります。
江戸時代に起こった、
世に言う「江島事件」の江島(絵島)が、
大奥から流されたのがここ高遠の地であり、
この囲み屋敷は、昭和42年に、
当時の資料をもとに復元されたものです。
【高遠歴史博物館】
<開館時間>
午前9時から午後5時
(最終入館時間 午後4時30分)
<入館料>
一般:400円
団体(20名以上):300円
高校生以下、および18歳未満の方の入館は無料になります。
<休館日>
月曜日・祝日の次の日
(休日の場合は開館しています。)
12月28日から1月3日
展示替え・資料整理の日
【交通アクセス】
◆中央自動車道
諏訪IC⇒国道152号を経由 約50分。
伊那IC⇒国道361号を経由 約30分。
◆JR飯田線
伊那北駅⇒JRス高遠線 約25分
高遠駅下車⇒タクシーで約5分、もしくは徒歩約20分。
<駐車場>
バス10台
普通車30台程度
(観桜期のみ有料となります)
<日本100名城スタンプについて>
高遠城は日本城郭協会主催
「日本100名城スタンプラリー」に登録されております。
高遠城のスタンプ設置場所は、
高遠町歴史博物館です。
【所在地】
〒396-0213 長野県伊那市高遠町東高遠457
【電話】
0265-94-4444
現地所要時間:20~30分程度。
(博物館内も含めて)
【江島生島事件】
江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、
江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が
歌舞伎役者の生島新五郎らを
相手に遊興に及んだことが引き金となり、
関係者1400名が
処罰された綱紀粛正事件です。
絵島生島事件、絵島事件ともいわれています。
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【事件の経緯】
正徳4年1月12日(1714年2月26日)、
時の徳川家第七代将軍である
徳川家継の生母である
月光院に仕える御年寄の江島は、
主人の名代として
同じ年寄の宮路と共に
上野・寛永寺、芝・増上寺へ
前将軍家宣の墓参りに赴きました。
その帰途に懇意にしていた
呉服商後藤縫殿助の誘いで
木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。
歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて
生島の芝居を見ました。
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて
宴会を開きましたが、
宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまいました。
大奥七ツ口の前で通せ通さぬの
押し問答をしている内に
この事が江戸城中に知れ渡り、
評定所が審理することになりました。
けれども審理する理由は
門限に遅れたことではなく、
大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっており、
判決には門限は重要視されなかったのでした。
【大奥の派閥勢力】
当時の大奥には、
7代将軍家継の生母である
月光院を中心とする勢力と
前将軍家宣の正室である
天英院を中心とする勢力がありました。
月光院が徳川家継の学問の師である
新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、
大奥では月光院側が優勢でした。
ただし江戸幕府の公式史書である
「徳川実紀」及び、
間部詮房の「間部日記」の記録には、
当時の大奥の首座は天英院、
月光院は次席であったことが
記されており、
天英院の首座の地位は
徳川吉宗が八代将軍就任後も
変わってはいなかったのでした。
【事件後】
【処罰】
評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・
大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって
関係者が徹底的に調べられ、
それにより大奥の規律の緩みが
次々と明らかにされたのでした。
江島は生島との密会を疑われ、
評定所から下された裁決は
死一等を減じての遠島(島流し)でした。
この採決に対して月光院の嘆願により、
さらに罪一等を減じて
高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。
連座して、旗本であった
江島の異母兄の白井勝昌は
武士の礼に則った切腹ではなく斬首、
弟の豊島常慶は重追放となりました。
江島の遊興相手とみなされた生島は
三宅島への遠島、
山村座座元の五代目山村長太夫も
伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。
この巻き添えを食う形で
江戸中にあった芝居小屋は
簡素な造りへ改築を命ぜられ、
夕刻の営業も禁止されました。
このほか、取り巻きとして
利権を貪っていた大奥御殿医の
奥山交竹院とその弟の水戸藩士、
幕府呉服師の後藤とその手代、
さらには材木商らも遠島や
追放の処分を受けるなど、
大奥の風紀粛正のために
多数の連座者が出され、
最終的に50人近くの人が罰せらたのでした。
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【江島と生島のその後】
江島は27年間の幽閉(閑居)生活の後、
寛保元年(1741年)に61歳で死去しました。
生島新五郎は寛保2年(1742年)2月、
徳川吉宗により赦免され
江戸に戻りましたが、翌年小網町にて
73歳で死去したとのことです。
なお、別の説では
享保18年(1733年)に
流刑地の三宅島で死去したとする説もあり、
墓も三宅島にあるとのことです。
では江戸にもどったのはどなた?
あらら・・・ミステリー!
【影響】
この事件により天英院側が優勢となり、
2年後の正徳6年(1716年)に
徳川家継が亡くなると、
天英院が推していた
(月光院が推していたとする説もある)
紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となりました。
【文学と芸能】
この事件については、
大正元年(1913年)、
長谷川時雨の台本「江島生島」が
歌舞伎座で初演されました。
昭和28年(1953年)、
東京新聞に連載された舟橋聖一の小説
「絵島生島」が巷で評判となり、
事件のあらましが
世の人々に広く知れ渡るようになりました。
以降、多くの小説家が
この事件をテーマに小説を執筆、
また他にも長唄に詠まれたり、
最近では映画やテレビドラマにも
取り上げられています。
【事件にまつわる諸説】
当時の江戸城大奥には
天英院派と月光院派の
二大勢力がありました。
よって本事件は月光院の失墜を狙った
天英院の陰謀であったとささやかれています。
しかしながら事件後における
月光院の影響力や、
大奥勢力の相関関係などが不明であること、
また天英院による謀議を
裏付ける史料もないため、
憶測の域を出ていません。
この陰謀説に関しては
小説や映画などから生まれた
創作である可能性もあるとのことです。
・・・ま、「我々がやりました」
なんて証拠など残さないでしょうに。
はめられた方が悪い、ということでしょうね。
やられるまえにやる、
やられたら倍返し!ということで。
「陰謀論」は実に都合の良い言葉なのです。
特に権力側にいる人間が
「陰謀論」「デマ」と連呼する場合は
まずは疑いますな。
江島が生島を長持の中に入れて大奥に忍び込ませ、
逢瀬を繰り返したという話がありますが、
俗説で、当時の史料には
書かれてはいないとのことです。
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しかも近年の研究では、江島と生島、
二人の間には幕府から疑われるような
関係はなかったと考えられているとのこと。
当時の大奥の主導権争いに
巻き込まれたという説や、
逼迫した財政を立て直すために
利用されたとの説もあります。
どちらにせよ、
2人が情を通じていたというのは
幕府によってでっちあげられた
話に過ぎないということです。
・・・いつの世も変わりません。
【絵島】
絵島(えじま、天和元年(1681年)⇒
寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、
江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。
名前は「江島」が正しいとされています。
歌舞伎役者・生島新五郎とともに、
江島生島事件の中心人物です。
本名は「みき」とのこと。
【絵島の生涯】
天和元年(1681年)、
甲府藩士・疋田彦四郎の娘として誕生しました。
三河国に生まれ、江戸で育ちました。
実父・彦四郎の死後、
母が旗本である
白井平右衛門久俊に再婚したため、
その養女となりました。
はじめ尾張徳川家、
次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、
藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)が
江戸幕府6代将軍になるとともに大奥入りします。
徳川家宣の側室で
7代将軍・家継の生母である
お喜世の方(左京の方・後の月光院)に仕え、
その右腕とも言われていました。
正徳4年(1714年)、
月光院の名代として
前将軍・家宣の墓参りのため
奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。
その帰途、木挽町
(現在の東京都中央区東銀座界隈、
歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に
立ち寄って帰城が遅れ、
門限に間に合わなかった咎で
評定所の審理を受けることに。
山村座の役者であった
生島新五郎との密会を疑われ
拷問にかけられましたが、
彼女は自白しなかったとのことです。
死罪を減じての遠島(島流し)と
裁決が下りましたが、
月光院が減刑を嘆願したため、
信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流されました。
また、連座者として旗本であった
異母兄の白井平右衛門勝昌は斬首、
弟の豊島常慶は重追放の処分を受けました。
【囲み屋敷での暮らし】
江島は屋敷に幽閉され、
朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、
酒、菓子類を口にすることを禁じられ、
衣服も木綿のもののみと
定められた生活のなか、
お経などを読んで時を過ごしたということです。
しかし、大奥在籍のころから
信仰していた日蓮宗の蓮華寺に
行くことは許されたとのことです。
大奥のことを一切口にしなかったほどの
清廉な姿勢によって、
後に高遠藩の藩主に
一目置かれるようになったということです。
現在では高遠城址公園に隣接した
伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、
江島が幽閉された建物が復元され
絵島囲み屋敷として公開されています。
往時は老中の指図で
城下から一里離れた非持村火打平にありました。
一見、普通の屋敷のように見えますが、
庭に面した格子戸は
「はめ殺し」で開けられず、
唯一の出入り口の脇には
詰所が設けられ監視人が配置され、
板塀の上には二重の忍び返しがあり、
外部と完全に隔離されていました。
つまり、事実上監獄であったのです。
手紙のやりとりも許されなかったということです。
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享保7年(1722年)、
高遠藩主内藤頼卿が
江戸家老の野木多宮に
絵島の赦免嘆願書を届けさせ、
翌年月番老中安藤信友から
内藤家の江戸藩邸に
「非公式ながらこれを許可する」
という達しがあったとのことです。
そのため高遠城内での起居が
比較的自由になり、
囲い屋敷の周囲の散歩が認められ、
藩主や内藤蔵人の厚意で
月に何度か登城し、
城に勤める女性たちの
躾の指導をするようになったとのことです。
そして、27年間の幽閉(閑居)生活の後、
寛保元年(1741年)に
風邪をひいて全身がむくみはじめ、
それが元になって死去したとのことです。
墓所は高遠の蓮華寺にありますが、
大正5年(1916年)に
高遠を訪れた田山花袋に発見されるまで、
永らく放置されていたとのことです。
後に東京の歌舞伎関係者によって
墓を囲む玉垣が奉納されました。
法名は「信敬院妙立日如大姉」。
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