【吐月峰柴屋寺】
吐月峰柴屋寺
とげっぽうさいおくじ。
今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺です。
天柱山や丸子富士を巧みに
取り入れた借景式の庭園は、
国の名勝・史跡に指定され、
京の東山を模した竹林から昇る
月の風景も優れた寺として知られています。
柴屋寺(さいおくじ)は、
静岡県静岡市駿河区丸子にある
臨済宗妙心寺派の寺院です。
山号は天柱山(てんちゅうざん)。
雅号は吐月峰(とげっぽう)。
本尊は十一面観音です。
この寺は、駿河国島田出身で
今川義忠にも仕えた
連歌師宗長(1448年⇒1532年)が
永正元年(1504年)に結んだ
草庵(柴屋軒)にはじまり、
今川氏親が寺に改めたものと
伝えられています。
江戸時代には江戸幕府から
朱印状を与えられていました。
【所在地】
〒421-0103 静岡市駿河区丸子3316
【電話番号】
054‐259‐3686
【利用料】
大人:300円
子供:200円
【営業・利用時間】
午前9時~午後5時
【定休日】
無休
【滞在時間の目安】
30~60分
【駐車場】
普通車:9台
大型車:3台
【トイレ】
綺麗な水洗トイレがあります。
【交通アクセス】
JR「静岡」駅から中部国道線バス
「吐月峰駿府匠宿入口」下車、徒歩10分程度。
※最新のバス運行情報をご確認下さい。
(車)
東名「静岡IC」から18分程度。
「静岡IC」
(経路) 静岡IC出口北進⇒南安倍左折⇒
国道一号線を西へ5㎞で吐月峰入り口。
約7キロ。
静清バイパス利用の場合、
「丸子IC」出口東へ500m。
新東名高速道路を利用する場合:
「静岡SAスマートIC」
(経路) 静清バイパス丸子藁科トンネル西進⇒
丸子IC出口左⇒すぐ吐月峰入り口。
【宗長】
宗長(そうちょう、文安5年(1448年)⇒
天文元年3月6日(1532年4月11日))は、
室町時代後期の連歌師です。
号は柴屋軒。
駿河国島田(現在の静岡県島田市)の出身です。
鍛冶職五条義助の子として生まれました。
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【宗長の生涯】
幼少時より今川義忠に出仕していました。
寛正6年(1465年)に18歳で出家して、
翌年の文正元年(1466年)、
今川義忠を訪ねて駿河に下った
宗祇と面識を持ちます。
その後、応仁の乱が発生すると
今川義忠に従って上洛しました。
その後も駿河にて今川義忠に仕えましたが、
今川義忠が戦死すると今川氏に
内紛が発生したのを機に駿河を去り上洛。
宗祇に師事して連歌を学び
水無瀬三吟百韻(長享2年(1488年))、
湯山三吟百韻(延徳3年(1491年))
などの席に列しました。
大徳寺の一休宗純に参禅、
大徳寺真珠庵の傍らに住み、
一休宗純没後は神奈備に近い
山城国薪村(現在の京都府京田辺市)
の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔いました。
【駿河に戻る】
明応5年(1496年)、
駿河に戻って今川氏親に仕えます。
文亀元年(1501年)、
宗祇が越後にいると知り
同地に赴き東国の旅に同行しましたが、
翌年(1502年)に宗祇は箱根湯本で倒れ、
その最期を看取ったのでした。
宗祇没後は連歌界の指導者となりました。
けれども、宗祇の草庵である種玉庵は
宗碩に譲って、彼自身は駿河に留まったのでした。
【幅広い交際】
有力な武将や公家との交際も広く
三条西実隆や細川高国、大内義興、
上杉房能とも交流を持ち
今川氏の外交顧問であったとも言われています。
【柴屋軒を結ぶ】
永正元年(1504年)、
斎藤安元の援助により
駿河国丸子の郷泉谷に
柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び、
京との間を往還して
大徳寺の山門造営にも関与しました。
【壬生綱重と歌を詠む】
永正6年(1509年)には
白河の関を見ようと下野に立ち寄った際に
下野宇都宮氏家臣の壬生綱重によって
鹿沼の館に招かれています。
そこで連歌会を開いたということです。
壬生綱重と宗長は同年齢であり、
親しみを込めて
「六十あまりおなじふたつの行末は君が為にぞ身をもをしまむ」
と歌を詠んだとのことです。
【今川氏親の側近として】
一方、今川氏親の側近として、
斯波氏や武田氏、上杉氏との戦いにも近侍。
特に武蔵野合戦の記述は
後世編纂の「今川家譜」にも引用されています。
また、足利義稙が将軍に復帰して
細川高国・大内義興の政権が
成立した直後の
永正5年(1508年)6月に宗長が上洛し、
翌月に今川氏親が
遠江守護に任じられており、
これは宗長が幕府への工作に
関与していた可能性が高いと見られています。
永正14年(1517年)の
今川氏と武田氏の講和にも深く関わりました。
【駿河を去るも・・・】
しかし、大永6年(1526年)2月、
大徳寺山門の落成を見ることを口実に
駿河を去って上洛し、
宗純ゆかりの地に終の住処を求めたのでした。
ところが京都は細川高国政権の
不安定化と共に戦乱が始まったため、
1年で駿河への帰国を余儀なくされます。
【駿府の状況の様変わり】
さらにその間に駿河では今川氏親が病死し、
駿府では今川氏親未亡人である
寿桂尼が実権を握り、
太原雪斎が外交顧問として
活動するなど状況は大きく変わっていました。
「宗長日記」において宗長と
今川氏親の後継者である
氏輝の交流を記したのは
享禄3年(1530年)の七夕と
九月十三夜の宴の記述のみに留まっています。
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【晩年】
その中で柴屋軒に引退して、
寂しい晩年を送ることになるのでした。
「急がば回れ」を唱えた人とされています。
代表作として句集「那智篭(なちごもり)」、
日記「宗長手記」、「宗長日記」があり、
ほかに「東路の津登(あづまじのつと)」、
「宇津山記」、「宗祇終焉記」があります。
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