史跡・城跡

甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の譜代家老を務めました。

甘利氏館と扇子平山城



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甘利氏館】

築城年代は定かではありませんが
甘利行忠によって築かれたとされています。
甘利氏は甲斐国巨摩郡甘利荘発祥で、
武田信義の子、一条忠頼の次男である
行忠が甘利荘に住んで甘利氏を名乗ったことが始まりです。

甘利氏館跡

元暦元年(1184年)、行忠は一条忠頼とともに
源頼朝によって謀殺されました。

天文10年(1541年)、
武田信虎を駿河国に追放し
武田晴信を擁立した甘利虎泰が有名です。
甘利虎泰は天文17年(1548年)、
信濃国上田原での村上義清との合戦で討死し、
子である甘利昌忠が継ぎました。
現在は大輪寺の境内となっています。
この大輪寺は甘利氏の菩提寺で、
開基は甘利昌忠、
開山慶受院日国聖人は甘利昌忠の三男だということです。
中世武田時代の甘利郷領主甘利氏の菩提寺です。
代々武田家の股肱として板垣氏と共に
家老の職を務めた甘利氏の館跡に建ったお寺です。
甘利郷の庶民に慕われた事がわかる
甘利氏の甘利君遺徳碑があります。

【所在地】
〒407-0044 山梨県韮崎市旭町2990

【扇子平山城】

 
【形態】
山城
(618m/205m)

【遺構】
土塁、郭、堀城 




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築城年代は定かではありません。
「甲斐国誌」では、
甘利左衛門尉が物見を置いていたとあり、
甘利館の詰城と推測されています。
扇子平山城は旭山から東へ伸びた
尾根の一つに築かれています。

扇子平山城

扇子平山城は最高所に
土塁の付いた主郭があり、
その背後の尾根を大堀切で遮断しています。
主郭の東下にも浅い堀切があり、
その先に土塁や土壇と思われる
地形、堀状の凹みなどの
少し複雑な地形があります。
そこから下は急峻な切岸があり、
下方は緩やかな緩斜面地形で
端は平段となります。
北へ伸びた尾根には一条堀切があり、
その先に烽火台と標識のある
小さな曲輪が一つあるとのことです。

【所在地】
〒407-0045 山梨県韮崎市旭町

【甘利氏】

甘利氏(あまりし)は日本の氏族の1つです。
甲斐源氏の分家・甲斐一条氏の一族です。
甘利氏は甲斐源氏の武田一族の始祖である
武田信義の子で、甲斐国巨麻郡余戸郷に
比定されている甘利荘を本貫とした
一条忠頼の子行忠を始祖とします。
甘利行忠は甘利荘内に館を構えて
甘利氏を称したということです。
館跡は現在の山梨県韮崎市旭町上條北割の
大輪寺境内にあります。

元暦元年(1184年)6月14日]、
一条忠頼は鎌倉の源頼朝の刺客により誅殺され、
その子である甘利行忠も父に連座して
常陸国に配流され翌年4月に殺害されました。
源頼朝による甲斐源氏の
勢力削減策の一環とみられています。

甘利荘はこの際に接収されており、
鎌倉後期には北条得宗領となっています。
ただし南北朝期の訴状で、
甘利荘が一条忠頼の子孫に
返付されたことが先例にみえ、
甘利荘は北条領から
甲斐源氏一族に返却されたと
考えられていますが、
甘利氏の下に戻ったのかは
定かではありません。
「一条忠頼の子孫」も、
甘利行忠の子・行義を指すとも、
行忠の甥で甲斐一条氏(一条忠頼の家)の
名跡を継いだ一条信長かとも見られており、
定まってはおりません。

甘利氏館跡・扇子平山城の説明

「続群書類従」の「武田系図」によりますと、
甘利行忠の子・行義の後は、
頼高⇒頼行⇒宗信と続いていますが、
それ以降は不明となっているそうです。

その後、甘利氏は断片的に史料に登場します。
戦国時代には武田氏家臣の譜代家老で
「両職」を務めたと言われる甘利虎泰(備前守)、
甘利虎泰の子甘利信忠(昌忠)と
その子息・信頼、信忠の弟とされる
甘利信康(郷左衛門尉)、
武田勝頼に仕えた甘利信恒(三郎次郎、信康の子か)ら
甘利姓の人物が武田家臣として存在します。
ただし一族が甘利荘に拠ったかは不明瞭です。




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甘利信康は甘利虎泰の次男です。
天正3年(1575年)5月21日の
長篠の戦いにおいて戦死したということです。
甘利信康の子・信恒(三郎次郎)は
事跡不明ですが、「当代記」ですと
天正4年9月に遠江国小山の陣中で
殺害されたということです。

甘利信忠の子である甘利信頼(二郎四郎)は
永禄10年(1567年)に
甘利信忠が死去すると、
幼少であったため「甲陽軍鑑」では
米倉丹後守が「陣代」を務めたということです。
さらに甘利信康が
名代であったとも考えられています。
甘利信頼も長篠の戦いにも従軍し、
以後武田勝頼に仕えて活動しています。
「甲乱記」によりますと、
天正10年(1582年)3月の
武田氏滅亡の際には
大熊長秀・秋山摂津守とともに
離反した人物に「甘利左衛門尉」があり、
これが信頼を指しているとも
考えられているそうです。
その後の動向はわかってはいません。

【現代の子孫】
自民党の衆議院議員で、
麻生内閣では内閣府特命担当大臣、
第2次安倍内閣では
内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)に
就任した甘利明氏はこの一族の子孫を自称しています。

武田義清(源義清 (武田冠者))~常陸国出身で配流となった先の土地に根差して甲斐源氏の祖となりました。

武田氏館と湫尾神社~ひたちなか市武田は甲斐武田氏発祥の地でした。

武田信義~甲斐源氏であり武田氏の初代当主となり、武田信玄の遠いご先祖様です。

武田八幡宮~創建は平安時代、甲斐武田家の氏神として尊崇されてきました。

御所五郎丸~曽我兄弟の仇討事件で源頼朝の危機を救ったとされている人物です。

武田信成~武田信時の系統で安芸守護武田氏から甲斐国守護武田宗家となりました。

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

湯村山城~躑躅ヶ崎館の西の守りの詰めの城として武田信虎が築城しました。

土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。

土屋惣蔵昌恒~出自は金丸氏で武田家最後の家臣にて忠臣、子供は大名になります。

山本勘助晴幸屋敷~隻眼・片足不自由だが摩利支天のようだと称えられた軍師の屋敷跡。

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