【三笠城跡】
三笠城(みかさじょう)は
島根県雲南市大東町南村にあった日本の城です。
【別名】
牛尾城
strong>【城郭形態構造】
連郭式山城
【天守構造】
なし
【築城主】
牛尾氏
【築城年】
室町時代か
【主な城主】
牛尾氏
【廃城年】
元亀元年(1570年)か
【遺構】
郭、土塁、石垣、虎口、井戸
【説明】
三笠城(牛尾)城は、牛尾氏によって築かれた山城です。
牛尾氏が有力国人として
尼子家中で重きをなしたため、
同氏の居城である三笠(牛尾)城も
尼子十旗の一つに数えられました。
【城の構造】
両脇を深い谷で囲まれた尾根の先端付近に占地し、
最高所の三笠山までの尾根上に
郭が連なっているそうです。
山頂の郭には尾根筋側に土塁が存在しているそうで、
この郭が主郭と考えられています。
牛尾城の背後に続く尾根筋は
八雲山を経由して熊野城に繋がっているとのことです。
【城の歴史】
応仁の乱後、京極氏に従った牛尾氏により築城されました。
<天文11年(1542年)>
大内氏が出雲に侵攻すると、
牛尾幸清は月山富田城の守備に当りました。
<永禄6年(1563年)>
毛利氏が月山富田城に迫ると、
牛尾幸清と牛尾久信の父子は月山富田城に入りました。
<永禄9年(1566年)>
城内の兵糧が底を突き、
牛尾幸清と牛尾久信父子も毛利氏に降伏しました。
<永禄12年(1569年)>
挙兵した尼子残党勢に
牛尾久信の弟の牛尾幸信(牛尾弾正忠)が合流し、
三笠(牛尾)城を拠点としました。
こうして牛尾氏は同族ながら、
敵と味方に分かれてしまいました。
なお、三笠城は
十神山城と同じく
尼子再興軍の拠点となったとのことです。
スポンサーリンク
<元亀元年(1570年)>
布部山の戦いで尼子勢は惨敗を喫し、
三笠(牛尾)城も毛利輝元に攻められ落城しました。
牛尾幸信(牛尾弾正忠)は、
城内が火に包まれると、
妻子と共に火中に身を投じて果てた、とのことです。
※高平城は三笠城の出城とのことです。
※牛尾豊前守は牛尾久晴(牛尾幸清の弟)
の可能性があるそうです。
【所在地】
〒699-1206 島根県雲南市大東町南村
【駐車スペース】
登城への道沿いに2台分位の
スペースがあるようです。
そこから山頂までは約400mであるそうです。
ただし、駐車スペースまでの道が大変狭いそうです。
【尼子十旗】
尼子十旗(あまごじっき)は、
日本の戦国時代、出雲国を支配した
戦国大名尼子氏の本城であった
月山富田城の防衛線である
出雲国内の主要な10の支城のことです。
【尼子十砦】
また月山富田城と尼子十旗の間の繋ぎとして
築かれた主要な10の城砦が
尼子十砦(あまごじっさい)であるそうです。
【尼子十旗と尼子十砦の説明】
尼子氏は、本拠地である
月山富田城の防衛線として
10の支城を築いて家臣団を配置しました。
雲陽軍実記には
「惣じて尼子旗下にて禄の第一は白鹿、
第二は三沢、第三は三刀屋、第四は赤穴、
第五は牛尾、 第六は高瀬、第七は神西、
第八は熊野、第九は真木、第十は大西なり、
これを出雲一国の十旗と云ふ」
と記されているとのことです。
さらに、この十旗と月山富田城を繋ぐ拠点として、
築かれた10の城砦が尼子十砦と呼ばれているものです。
多くの尼子十旗・十砦が、月山富田城陥落もしくは
尼子再興軍討伐後に廃城となったそうです。
また、三刀屋城など一部の城は
一国一城令により廃城となったと考えられているそうです。
スポンサーリンク
【尼子十旗の城名と守将】
白鹿城:松田氏
三沢城:三沢氏
三刀屋城:三刀屋氏
赤穴城:赤穴氏
三笠(牛尾)城:牛尾氏
高瀬城:米原氏
神西城:神西氏
熊野城:熊野氏
馬木城:馬来氏(真木氏)
大西城:大西氏(だいさいし)
【牛尾氏】
鎌倉時代に信州諏訪の豪族神一族の
中沢真信が出雲国大原郡牛尾荘に入ったことから
始まるとされています。
この中沢真信信濃守の娘に、
玉造の湯氏初代の頼清の子である
清信が婿入りしています。
始めは諏訪氏を名乗りましたが、
やがては佐世氏を名乗り、
更に菅氏も名乗るようになったとの事です。
従って、中沢氏・菅氏・牛尾氏は
同族であるとのことです。
須我神社~日本初之宮で和歌発祥の地と伝わっています。かつては海潮(うしお)郷でした。
月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は天空の城、日本五大山城です。
玉造要害山城・城主の湯氏は、宇多源氏佐々木一族で、戦国の知将にて辣腕大名の亀井茲矩のご先祖です。
神西城~尼子十旗・城主の神西氏は武蔵七党の小野氏が先祖です。最後の城主は神西元通。
この記事へのコメントはありません。