城跡

三好長慶~最初に天下統一を成し遂げた武将~大阪一帯を見渡せる飯盛山城

三好長慶像



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三好長慶

三好長慶(みよしながよし)は、
戦国時代の武将。
畿内・阿波国の戦国大名
室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。

細川政権を事実上崩壊させ、
室町幕府将軍・足利義晴
足利義輝共々京都より放逐し、
三好政権を樹立しました。
その後は足利義輝、六角義賢、
畠山高政らと時に争い、
時に和議を結び畿内の支配者として君臨しました。
最初の天下統一を成し遂げた武将です。

<三好長慶公 肖像画>
三好長慶像 肖像画

【生誕】
大永2年2月13日(1522年3月10日)
【死没】
永禄7年7月4日(1564年8月10日)
【墓所】
聚光院(京都市北区)

【生い立ち】
山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、
永正3年(1506年)に細川澄元に属して
阿波国より上洛した三好之長の曾孫です。
三好実休安宅冬康十河一存、野口冬長の兄。
正室は波多野稙通の娘、
継室は遊佐長教の娘です。
三好義興の父となります。
通称は孫次郎、
官位は従四位下伊賀守、筑前守、
後に修理大夫です。
史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で
彼の名が多く残っています。
現代の地元ファンからは、
尊敬と親しみを込めて諱の長慶を
「ちょうけい」と呼ばれることもあるそうです。
役所にある三好長慶の像

父親の三好元長は細川晴元配下の有力な重臣で、
主君である細川晴元の仇敵であった
細川高国を滅ぼした功労者でした。
本国阿波だけでなく
山城国にも勢力を誇っていましたが、
その勢威を恐れた細川晴元達及び一族の
三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した
一向一揆によって、
享禄5年(1532年)6月に殺害されました。
当時10歳の三好長慶は両親と共に堺にいましたが、
一向一揆襲来前に父と別れ、
母と共に阿波へ逼塞しました。

【一向一揆との和睦】
細川晴元が三好元長を殺害するために
借りた一向一揆の勢力はやがて
細川晴元でも抑えられなくなり
享禄・天文の乱となりました。

そのため天文2年(1533年)6月20日、
三好長慶は一向一揆と
細川晴元の和睦を斡旋しました。
当時12歳の三好長慶が
和睦を周旋したと伝わっています。
交渉自体は名を借りて
代理の者がした可能性もあるとのことです。

この直後に元服したとされています。

8月に本願寺と分離していた
一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、
三好長慶は一揆と戦って
摂津越水城を奪回しました。
翌年の天文3年(1534年)になると
本願寺に味方して8月11日に細川晴元軍と戦い、
10月には潮江庄(尼崎市)で
細川晴元方の三好政長と戦いましたが、
河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、
年少であるという理由から
許されて細川晴元の下に帰参しました。




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その後は細川晴元の武将となり、
天文5年(1536年)3月に
細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る
摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。
この時は木沢長政の下に逃れ、
木沢長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、
徒立勢ばかりだった一揆軍を
7月29日までに全滅させました。

【勢力拡大】
天文8年(1539年)1月15日、
三好長慶は細川晴元の供をした時、
尾張国の織田信秀から前年に献上されていた
鷹を与えられました。
10日後の25日に三好長慶は
細川晴元を酒宴に招き、
その席で室町幕府の料所である
河内十七箇所(守口市)の代官職を
自らに与えるように迫りましたが、
細川晴元は聞き入れず、
三好長慶は直接幕府に訴えたとあります。
この料所の代官は元々は
父が任命されていましたが、
その死後には三好長慶の同族ながら
政敵であった三好政長が
任命されていたのでした。

幕府の内談衆である大舘尚氏は
三好長慶の要求を正当としましたが、
不首尾に終わりました。
そこで三好長慶は1月の上洛時に
2500の人数を率いていたため、
この数と石山本願寺法主・証如の後ろ盾を得て入京し、
細川晴元は閏6月17日に退京して高雄に移り、
細川元常や細川晴賢ら一族を呼び集めました。

足利義晴は畠山義総や武田元光などの諸大名に
出兵を命じる一方で六角定頼と共に
三好長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、
夫人の慶寿院と嫡子の足利義輝を八瀬に避難させました。
この混乱で京都の治安が悪化し、
三好長慶は足利義晴から
京都の治安維持を命じられたのです。

白川の町並み

これまで三好氏の当主は
あくまでも阿波を本拠とし、
畿内において政治的あるいは
軍事的に苦境に立つと
四国に退いて再起を期す事例はありました。
けれども三好長慶はこの入城以降は
生涯阿波に帰国することなく、
摂津を新たな本拠とするのでした。
この後の三好長慶は摂津守護代となり
幕府に出仕するようになりましたが、
陪臣の身で将軍までも周章させて
摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、
主君の晴元に脅威を与えるほど
三好長慶の実力は強大なものとなっていたのでした。

天文9年(1540年)から
天文10年(1541年)の間、
一説では、丹波国の波多野稙通(秀忠)の娘を
妻に迎えたとあります。

下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く
越水城を支配する三好長慶の影響力は次第に
下郡の国人や百姓に及びつつありました。

【太平寺の戦い】
細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して
将軍である足利義晴と細川晴元を追うなどしたため、
河内守護代の遊佐長教は木沢長政が擁立した
河内守護の畠山政国を追放して
その兄である畠山稙長を迎え、
三好長慶に味方することを表明しました。
このため翌年の天文11年(1542年)3月17日、
木沢長政は畠山稙長のいる
河内高屋城を攻撃しようとして太平寺で戦うも、
政長・長慶の援軍が加わった
遊佐長教に敗れ討死しました。

【石山本願寺が認めた長慶】
太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、
細川高国の従甥に当たる細川氏綱が
畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、
翌年の天文12年(1543年)7月25日に
堺を攻撃しましたが、
細川元常の家臣・松浦肥前守、日根野景盛らに
敗れて和泉国に逃れていきました。
三好長慶は8月16日に
細川晴元の命令で堺に出陣、細川氏綱と戦っています。
この頃になると三好長慶の実力は
石山本願寺にも一目置かれており、
天文13年(1544年)6月18日に
父の13回忌法要の費用が証如から
三好長慶に送られています。

石山本願寺 推定地

天文14年(1545年)4月、
細川高国派の上野元全らが細川氏綱に呼応、
丹波から進軍して山城井手城を落とし、
上野元全の父・上野元治も
槇島まで進出したため、
細川晴元は大軍を率いて出兵し、
三好長慶も従軍して山城宇治田原で戦いました。
その直後、岳父の波多野稙通の
支援要請に応じて丹波に出兵し、
細川氏綱派の内藤国貞が籠もる
丹波世木城を7月25日に
包囲して27日に落としました。
細川氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため
当面の間政権は安泰となりました。

【摂津の奪還】
けれども翌年の天文15年(1546年)8月、
畠山稙長の後を継いだ
畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、
氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して
細川晴元排除の動きを見せると、
三好長慶は8月16日に
細川晴元の命令を受けて越水城から堺に入ります。
しかし堺は20日に河内高屋城から出撃した
細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に包囲され、
準備不足であり戦況不利を悟った三好長慶は
会合衆に依頼して軍を解体し、
細川氏綱らも包囲を解いて撤兵します。
この後も細川氏綱らの攻勢が続いて
細川晴元・三好長慶は敗北を重ねましたが、
三好長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、
十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、
足利義晴は12月に近江に逃れて
嫡子の足利義輝に将軍職を譲り、
三好長慶は三好実休や
阿波守護の細川持隆らと共に
摂津原田城や三宅城の
三宅国村などの将軍方の城を落とし、
摂津を奪い返しました。




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そして天文16年(1547年)7月21日、
舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、
敗報を聞いた足利義晴が細川晴元・六角定頼と和睦、
三好長慶・実休は8月に河内で
細川氏綱・遊佐長教軍と対陣しましたが、
翌年の天文17年(1548年)4月、
両者は定頼の斡旋で和睦、
三好長慶は5月に越水城へ帰城しました。

なお、三好長慶はこの頃、
遊佐長教の娘を継室に迎えています。
先の和談における
政略結婚であったとも言われています。

【細川晴元・三好政長との対立】
天文17年(1548年)7月に
三好政長を討とうとします。
理由は
(1)
三好政長と息子・三好政勝の不祥事であるとする説。
(2)
父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いた。
(3)
三好政長の婿である摂津国人・池田信正
細川晴元に切腹させられ、
遺児で政長の外孫に当たる
池田長正が後継に置かれたことが
他の摂津国人達の反感を買い、
三好長慶が反政長派に推された。

三好政長は晴元からの信任が厚く、
越水城で三好長慶が開いた軍議では
細川晴元が三好政長を庇うのであれば、
細川晴元も敵とする事を決議したとのことです。

【江口の戦い】
かつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び、
細川晴元に反旗を翻し、
因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け
三好政勝が籠城する榎並城を包囲しました。
三好長慶の行為細川は晴元方の六角定頼から
「三好筑前守(長慶)謀反」とされました。
翌年の天文18年(1549年)2月、
三好長慶の本隊が出陣、4月から細川晴元・三好政長が
三好政勝救援のため摂津に向かい、
三好長慶軍と三好政長軍が摂津で対陣すると、
細川晴元は三宅城へ、三好政長は江口城に布陣して
近江の六角軍の到着を待とうとしましたが、
三好長慶は江口城の糧道を絶ち、
弟の安宅冬康・十河一存らに別府川に布陣させました。
六角軍は6月24日に山城の山崎に到着しましたが、
その当日に江口城で戦いがあり、
三好長慶は三好政長ら主だった者を
800名も討ち取ったとのことです。




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【三好政権の誕生】
江口の戦い後、細川晴元と三好政勝らは
摂津から逃亡し六角軍も撤退、
細川晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて
近江国坂本に逃れていきました。
三好長慶は細川晴元に代わる主君として
細川氏綱を擁立し、
7月9日に入京しました。
其の後15日に細川氏綱を残して摂津へ戻り、
細川晴元派の伊丹親興が籠城する
伊丹城を包囲しました。
天文19年(1550年)3月、
遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定しました。
これにより細川政権は事実上崩壊し、
三好政権が誕生することになったのです。

【主君、将軍との対立】
近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、
天文19年(1550年)2月、
京都東側の慈照寺の裏山に中尾城を築きましたが、
5月に義晴が亡くなった後は
6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、
徹底抗戦の構えを見せました。
両軍は小規模な戦闘に終始していましたが、
三好長慶は近江にも遠征軍を派遣して
足利義輝らを揺さぶり、
退路を絶たれることを恐れた足利義輝は
11月に中尾城を自ら放火して、
坂本から北の堅田へ逃亡してきました。
この間の10月に三好長慶は
足利義輝に和談を申し込みましたが、
細川晴元及び足利義輝らの面目からか
この時は不首尾に終わっています。
将軍も管領も不在になった京都では
三好長慶が治安を維持し、
公家の所領や寺社本所領を保護しながら
足利義輝や細川晴元らと戦っていました。

【三好長慶暗殺未遂事件】
天文20年(1551年)3月7日と14日の
2回にわたって三好長慶は
暗殺未遂事件に遭遇しています。
1回目の犯人は挙動不審な態度から
すぐに逮捕・処刑され、
2回目の犯人は将軍近臣の進士賢光で、
「言継卿記」によりますと、
進士賢光の遺恨で三好長慶を襲撃し
手傷を負わせましたが、
失敗して即座に自害したということです。
この混乱に乗じて将軍方の三好政勝と香西元成が
事件翌日の15日に丹波宇津に侵入しています。
また5月5日には三好長慶の岳父である
遊佐長教も自らが帰依していた
僧侶の珠阿弥に暗殺される事件が起きました。

【相国寺の戦い】
このような事態を見てか、
7月には三好政勝・香西元成を主力とした
足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、
三好長慶は松永久秀
その弟の松永長頼(内藤宗勝、丹波守護代)
に命じてこれを破っています。

【和議の成立と実力者としての地位】
このため六角定頼が和議を斡旋しましたが、
翌年の天文21年(1552年)1月2日に死去したため、
後継者の六角義賢が引き継いで交渉を進めていきました。
そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って
出家する代わりに三好長慶は
細川晴元の幼児である聡明丸(後の昭元)を取り立てること、
足利義輝の上洛を条件にして和議が成立しました。
足利義輝は1月28日に上洛し、
三好長慶は2月26日に上洛して
御供衆の格式を与えられ、
細川家々臣から将軍家直臣になりました。
そして幕府は将軍の足利義輝、管領は細川家当主の氏綱に、
実権を握る実力者である三好長慶という構図になりました。




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【丹波攻め】
ところが細川晴元が京都奪回のために軍を興し、
これに波多野晴通が加担したため、
三好長慶は4月25日に丹波八上城を包囲した所、
従軍していた芥川孫十郎などが
波多野に味方したため、
5月23日に包囲を解いて越水城に撤退しました。
またこれで聡明丸を京都に置いておく事に不安を感じ、
6月5日に越水城へ移しています。
10月に三好長慶は再度丹波を攻め、
細川晴元に味方する諸将と戦いました。
11月にも細川晴元党の動きはありましたが、
小規模な戦闘か放火程度で終わっていました。

八上城・遠景

【足利義輝の和睦の破棄】
天文22年(1553年)閏1月、
足利義輝の奉公衆らは
三好長慶排除のために細川晴元と通じ、
しばらくして三好長慶は和議を結ぶも、
その際に奉公衆から人質をとりました。
2月27日に三好長慶は
細川晴元と戦うために丹波へ出陣しましたが、
3月には足利義輝自身が
三好長慶との和約を破棄して
東山の麓に築いた霊山城に入城しました。
合わせて帰参していた芥川孫十郎が
再度反乱を起こして摂津芥川山城へ籠城、
丹波・摂津・山城から三方向に
脅威を抱えた三好長慶は
松永久秀に命じて細川晴元方の軍を破りました。
7月に三好長慶が芥川山城を包囲している最中に
足利義輝が細川晴元と連合して入京を計画しましたが、
三好長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると
細川晴元軍は一戦もすること無く敗走し、
足利義輝は近江朽木に逃走しました。
三好長慶は将軍に随伴する者は
知行を没収すると通達したため、
随伴者の多くが足利義輝を見捨てて
帰京したとのことでした。

【芥川山城に居城する意図】
以後5年にわたって足利義輝は朽木に滞在しました。
京都は事実上三好長慶の支配下に入りました。
三好長慶は芥川山城を
兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、
芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城としました。
越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、
芥川山城は細川高国・細川晴元の時代を通じて
摂津上郡の政治的拠点から
細川政権の畿内支配の拠点に上昇しつつあり、
三好長慶もその拠点を引き継いだのでした。
また、禁裏と交渉を行ない、
土塀の修理なども行なっていました。
以後、
三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、
天文23年(1554年)に三好長逸
播磨に出兵するなど軍事活動も積極的でした。

【北白川の戦い】
永禄元年(1558年)6月、
足利義輝は細川晴元や
三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、
将軍山城で三好軍と交戦しました。

しかし戦況は叔父の三好康長を始め
三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる
四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで
三好方の優位となり、
六角義賢は足利義輝を
援助しきれないと見て和睦を図ります。
この時の和談は11月6日に成立し、
足利義輝は5年ぶりに帰京しました。

【幕政の実権を掌握】
この時三好長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に
足利義輝を出迎えています。
以後の三好長慶は幕府の主導者として、
幕政の実権を掌握したのでした。

【畿内を制する】
永禄年間初期までにおける
三好長慶の勢力圏は摂津を中心にして
山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨
などに及んでいました。
他には近江・伊賀・河内・若狭など、
影響力を持っていたとのことです。

【勢力圏NO.1の大名】
当時、三好長慶の勢力に匹敵する大名は
相模国の北条氏康くらいでした。
しかし関東と畿内では、
経済力・文化・政治的要素などで
当時は大きな差があったため、
三好長慶の勢力圏の方が
優位だったと見なされています。

【全盛期】
この全盛期の永禄2年(1559年)2月に
織田信長がわずかな供を連れて上洛していますが、
三好長慶とは面会せずに3月に帰国しています。
4月には上杉謙信(当時は長尾景虎)が
上洛していますが、
三好長慶は上杉謙信と面識があり、
6年前の上洛では
石山本願寺に物品を贈りあったりしたことも
あったとのことです。
けれども、
この時の上洛では面会は無かったとのことです。




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この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、
新たに守護代に任命された
安見宗房(直政)が
永禄元年(1558年)11月30日に
畠山高政を紀伊国に追放するという事件が起こっています。
これを見て三好長慶は松永久秀を
永禄2年(1559年)5月29日に
和泉国に出兵させましたが安見方の根来衆に敗北、
松永久秀は摂津国に撤退し、
三好長慶も松永久秀と合流して6月26日に
2万の大軍で河内に進出しました。
そして8月1日に高屋城、
8月4日に飯盛山城などを落とし、
畠山高政を河内守護として復帰させ、
安見宗房を大和国に追放して
自らと通じた湯川直光を守護代としました。
また、安見宗房追討を口実に
松永久秀は大和へ進軍、
河内と大和の国境付近に
そびえる信貴山城を拠点として
大和の制圧を開始しました。

信貫山城跡(遠景)

【細川・畠山家も屈する】
細川家家中においても
三好氏の権力は頂点を極めました。
この永禄2年(1559年)は
三好長慶の権勢が絶大となり、
三好長慶の嫡男である三好慶興が
将軍の足利義輝から「義」の字を賜り
義長と改めています。
なお、後に義興と改名しています。
この頃にはかつての管領家である
細川・畠山の両家も
三好長慶の実力の前に屈し、
永禄3年(1560年)1月には相伴衆に任命され、
1月21日に三好長慶は修理大夫に、
三好義興は筑前守に任官しました。
1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、
財政難の朝廷に対して献金も行なっています。
2月1日には三好義興が御供衆に任命されています。

【飯盛山城へ】
永禄3年(1560年)、
三好長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移しました。
芥川山城は息子の三好義長(義興)に譲渡しました。
居城を飯盛山城へ移した理由については、
「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、
加えて、大和国への進軍も円滑に行える」
という根拠が指摘されているとのことです。
また、三好氏の本領は阿波国ですが、
飯盛山であれば堺を経由して
本領である阿波への帰還もより迅速に、
楽に出来るという理由もあったと指摘されています。

飯盛山城址の碑

<飯森山城からの眺め>
飯盛山城跡からの眺め

【河内国の激変】
この永禄3年(1560年)に
河内国の情勢が激変しました。
三好長慶の支援で守護に復帰した
畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して
再び安見宗房を復帰させたためで、
三好長慶は畠山高政の背信に激怒し、
畠山高政と義絶し、
7月に東大阪市一帯で畠山軍と戦って勝利しました。
7月22日には八尾市一帯で安見軍を破り、
高屋城を後詰しようとした
香西・波多野軍、根来衆なども
丹波から来援した松永長頼が破りました。
このため10月24日に飯盛山城の安見宗房が、
10月27日に高屋城の畠山高政が
ぞれぞれ降伏開城して
三好長慶は河内を完全に平定しました。

高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、
三好長慶は飯盛山城を居城にしました。
また畠山家の影響力が強かった
大和に対しても松永久秀に命じて
この年に侵略させ、
11月までに大和北部を制圧して
松永久秀に統治を任せたのでした。

【勢力圏の更なる拡大】
永禄4年(1561年)3月30日には
足利義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、
5月6日に足利義輝の勧告で細川晴元とも和睦、
摂津普門寺へ迎え入れました。
また嫡子の三好義興はこの年に
従四位下・御相判衆に昇任するなど、
三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続きました。
この年までに三好長慶の勢力圏は
先に挙げた8カ国の他、
河内と大和も領国化して10カ国に増大し、
伊予東部2郡の支配、
山城南部の支配なども強化しています。
この三好長慶の強大な勢力の前に
伊予の河野氏など多くの諸大名が
三好長慶に誼を通じていました。

【長慶の衰退と晩年】
このように絶頂期を迎えた三好長慶ですが、
やがて衰退が始まっていくのでした。
それは永禄4年(1561年)4月からだと言われています。
それは長年長慶を支えてきた
弟の十河一存の急死でした。




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【久米田の戦い】
十河一存は和泉岸和田城が持城であったので
そのために和泉支配が脆弱となりました。
その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、
細川晴元の次男・晴之を盟主にすえ7月に挙兵し、
南北から三好家に攻撃をしかけたのでした。
この戦いは永禄5年(1562年)まで続き、
3月5日にはもう一人の弟である
三好実休までもが畠山高政に敗れて戦死しました。

けれども京都では
三好義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、
一時的に京都を六角軍に奪われながらも、
三好義興・松永久秀らは
安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、
5月20日の教興寺の戦いでは
畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放しました。
そして河内を再平定し、
六角軍は6月に三好家と和睦して退京しました。
なお、この一連の戦いで三好長慶は
出陣した形跡は無く、
三好軍の指揮は三好義興・松永久秀と
安宅冬康らが担当していました。

どうやらこの頃、
三好長慶は病にかかっていたと推測されています。
最も病にかかったのは、
永禄4年(1561年)頃とも推測されています。
以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、
河内高屋城主には三好康長が任命されて
支配圏の再構築が行なわれたのでした。

永禄5年(1562年)8月には
幕府の政所執事である伊勢貞孝が
畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、
9月に松永久秀・三好義興の率いる
三好軍によって伊勢貞孝は討たれました。
永禄6年(1563年)1月には
和泉で根来衆と三好軍が激突し、
最終的には10月に三好康長との間で和談が成立します。
大和でも松永久秀の三好軍と
多武峯宗徒の衝突があり、
また細川晴元の残党による反乱が
2月からかけて起こるなど、
反三好の動きが顕著になってきたのでした。

【嫡男の死去】
さらに永禄6年(1563年)8月には
嫡男である三好義興が22歳で早世します。
唯一の嗣子を失った三好長慶は
十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えました。
本来であれば十河一存の死後に
十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、
彼の生母が関白を務めた九条稙通の娘であり、
その血筋の良さが決め手であったと推測されています。
12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、
この少し前には細川晴元も病死しており、
三好政権は政権維持の上で
形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になりました。

【細川氏綱に関しての見解】
ただし、細川氏綱については、
有力な支持者であった内藤国貞が健在であった
天文22年(1553年)までは
三好長慶よりも上位にあり、
その後も足利義輝や細川晴元に対抗するために、
三好長慶に政治的権力を譲る代わりに
摂津の守護としての立場を保持したものであり、
傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする
見解も専門家の間では指摘されているとの事です。

【弟・安宅冬康の暗殺】
永禄7年(1564年)5月9日、
三好長慶は弟の安宅冬康を
居城の飯盛山城に呼び出して
誅殺してしまいました。
松永久秀の讒言を信じての行為であったとの
見解ではありますが、
この頃の三好長慶は相次ぐ親族や
周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、
思慮を失っていたと見られています。
そして安宅冬康を殺害した後に、
松永久秀の讒言を知って後悔し、
病がさらに重くなってしまったと
伝わっているそうです。

【三好長慶の最期】
6月22日には嗣子となった三好義継
家督相続のために上洛していますが、
23日に足利義輝らへの挨拶が終わるとすぐに
飯盛山城に帰っている事から、
三好長慶の病はこの頃には
既に末期的だったとの見解があるようです。
そしてそれから11日後となる7月4日、
三好長慶は飯盛山城で病死しました。
享年は43歳でした。

【松永久秀の不穏な動き】
三好義継が若年のため、
松永久秀と三好三人衆である
三好長逸・三好政康岩成友通が後見役として
三好氏を支えましたが、
やがて松永久秀は独自の動きを見せはじめ、
永禄8年(1565年)から
永禄11年(1568年)までの3年間、
内紛状態に陥ってしまいました。




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【織田信長の登場と三好政権の崩壊】
その後、松永久秀の側に鞍替えした
三好義継と松永久秀は、
新たに台頭した織田信長と
彼が推戴する足利義昭に協力していきます。
三好三人衆はやがては織田信長に敗れ、
三好政権は崩壊となりました。
その後、三好義継と松永久秀も織田信長と対立し、
結局は滅ぼされていくのでした。

織田信長の台頭

【飯盛山城】

飯盛山城(いいもりやまじょう)は、
大阪府大東市及び四條畷市にある日本の城跡です。
標高315.9mの飯盛山に築かれた日本の城(山城)です。
2017年年(平成29年)4月6日、
「続日本100名城」(160番)に選定されました。
別名として「飯盛城」とも称されています。

<飯盛山城 縄張り図>
飯盛山城 縄張り図

【飯森山城の歴史的価値】
日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、
飯盛山城は重要な位置を占めるとされています。
河内と大和との間には生駒山脈が南北に走り、
これが国境となっています。
飯盛山城は、
その生駒山脈の北西支脈に位置している
飯盛山に築かれています。

飯盛山城 遠景

中世の山城としては、
かなり大きな部類に属し、強固な要塞でした。
全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、
70以上の曲輪が確認されています。

<飯盛山城址案内図>
飯盛山城址 案内図

【戦国時代】
天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、
家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構えます。
この時に臨戦的陣城から
恒久的な居城に改修されたと推測されています。

【飯盛城の戦い】
足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、
束の間の平和が訪れようとしていました。
けれども、
細川高国を討滅させたという
大きな軍功を挙げていた
三好元長と木沢長政の対立が、
新たな戦乱を引き起こしていたのでした。

【三好元長VS木沢長政】
対立の発端は、河内を巡る主権争い、
守護代の木沢長政が
守護の畠山義堯(義宣)から
守護職を奪い獲る企てが
発覚したことにあると見られています。
享禄4年(1531年)8月、
怒りをあらわにした畠山義堯は
三好元長の一族である
三好勝宗(三好一秀)に頼んで
飯盛山城を攻めましたが、
木沢長政からの援軍要請を受けた
細川晴元によって
撤兵命令を下されたため、
三好勝宗は一旦兵を収めました。
けれども、
翌年の享禄5年(1532年)5月、
態勢を整えた畠山義堯と三好勝宗は
飯盛山城を再攻し、
三好元長にも増援を要請しています。
そこで木沢長政も再び
細川晴元に援軍を要請しましたが、
畠山・三好連合軍の攻囲を
排除させるには至らなかったとのことです。

【山科本願寺に要請】
そこで自軍での武力排除を断念した細川晴元は、
山科本願寺の法主証如に
一揆軍の蜂起を要請しました。
この背景には三好元長が肩入れする
本願寺の対立宗派・法華宗へのライバル意識を
巧みに利用したものと見られています。

【山科本願寺・証如の蜂起】
17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった
「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、
同年6月5日に山科本願寺から大坂に移動し、
摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけました。
これに応じた門徒は、
総勢3万兵に及ぶ大軍だったとも
伝わっているそうです。
6月15日に、
飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、
三好勝宗を含む200余兵も討ち取り、
退却する畠山義堯も追撃し
6月17日には自害に追い込んだとのことです。




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【一揆軍の脅威】
なおも6月20日、
三好元長の逃げ込んだ
和泉顕本寺を取り囲んだ
一揆軍には各地より続々と
新たな門徒が集結したため、
10万兵まで膨れ上がったとも伝わっています。
そこで三好元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた
一揆軍の脅威により細川晴元は勝利し、
木沢長政も命を拾いましたが、
蜂起を収束させない一揆軍の暴走が
天文の錯乱に発展していくのでした。

【三好長慶の居城】
その後、木沢長政も太平寺の戦いで
父の仇であった三好長慶に
討ち取られてしまいます。
木沢長政亡き後、
城主になったのが
交野城の城主であった安見宗房です。
安見宗房は畠山高政の家臣でしたが、
自ら河内の守護代を名乗り、
主君の畠山高政を紀伊に追放してしまいます。
永禄2年(1559年)、
三好長慶は畠山高政を援けるべく兵をあげ、
安見宗房は大和に敗走しました。
畠山高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、
河内への進出を阻止すべく、
敵対した安見宗房を正式に守護代に任命し、
再び飯盛山城に配置しました。
この処置に憤慨した三好長慶は
畠山高政の居城高屋城を攻囲し、
援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、
畠山高政・安見宗房は共に堺へ敗走します。
翌年の永禄3年(1560年)11月13日、
三好長慶は飯盛山城に入城しました。
この時から三好長慶は飯盛山城を居城と定め、
大規模な改修作業を実施し、
現在の城郭になったと推測されているのです。

【教興寺の戦い】
翌年の永禄4年(1561年)、
畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、
飯盛山城の支城となっていた
三箇城を攻め落とし、
さらに翌年の永禄5年(1562年)の
久米田の戦いで三好長慶の弟である三好実休を討ち取り、
同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始されましたが、
背後から三好長慶の弟である安宅冬康や
松永久秀の援軍が襲いかかり、
三好長慶も狭撃して畠山軍を撃退しました。

【廃城】
長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に
畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、
永禄6年(1563年)8月、
一人息子の三好義興が22歳で急死します。
ついで翌年(1564年)、
弟の安宅冬康も流言によって自殺させると、
三好長慶自身も病に取りつかれてしまい、
同年7月24日、4343歳で他界しました。
御体塚曲輪跡には
死後3カ年ほど仮埋葬されていたと伝えられています。

【高屋城の戦い】
その後三好義継や三好三人衆が
飯盛山城を治めていましたが、
織田信長により摂河平定が行われると
三人衆も軍門に下り、
飯盛山城は畠山秋高の所有となりました。
遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害されると、
これに激怒した織田信長の攻撃を受けて
遊佐信教は没落し、
天正4年(1576年)に落城して廃城となりました。

【城郭】
飯盛山城の縄張りとして、
最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、
南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、
東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪が築かれています。

【本曲輪】
高櫓曲輪は、25m×15mの削平地があり、
楠木正行の銅像の建っている
その北側に本曲輪があります。
その下に山城では珍しい石垣があります。

<楠木正行公の像>
楠木正行公の像

その本曲輪下以外にも石垣がありますが、
これは土塁止め程度と推測されていますが、
この本曲輪下の石垣は滝谷、
東側からの防御用の可能性も
指摘されているそうです。
三好長慶が、かつて居城としていた
芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、
三好長慶の改修時に築かれた
可能性があるそうです。
但し山城での石垣は珍しいので、
三好長慶の改修時ではなく、
織田信長の落城後に再構築した可能性も
指摘されているとのことです。




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飯盛山は大阪府内でも
有名なハイキングコースとなっています。
山頂からのすこぶる眺望もよく、
平日でも数多い登山を楽しむ人々がいます。
城内にもいくつかのハイキングコースが設定されており、
河内地方では珍しい
二重堀切が存在していましたが、
山道の拡張によって破壊され、
遺構が良好に保存されにくくなってしまいました。
また、飯盛山は森林ボランティアの人々が
下草刈りや立ち枯れ木の処理、
植樹活動を展開し、
山林を保持しようとしています。
けれども、曲輪内にも植林されており、
将来的には遺構の破壊に繋がるのではないかという
意見もあるのです。

【城跡へのアクセス】
【電車】
JR西日本 片町線 四条畷駅
JR西日本 片町線 野崎駅 (大阪府)
【車】
阪神高速道路 東大阪線 水走出入口⇒国道170号
近隣に駐車場無し。

【近隣の駐車場】
飯盛山 楠公寺 (いいもりさん なんこうじ)
楠公寺

【所在地】
〒574-0011
大阪府大東市大字北條2377-11
【電話番号】
072-877-0792
【アクセス】

JR片町線「四条畷駅」東口より車で10分

近鉄バス「竜間」より徒歩35分

<楠公寺 駐車場>
楠公寺の駐車場

<楠公寺入り口及びお手洗い>
楠公寺入り口 トイレ

<地図>

【徒歩】
四条畷駅⇒ 約10分⇒四條畷神社⇒ 約50分⇒飯盛山頂
野崎駅 (大阪府)⇒約10分⇒
慈眼寺 (大東市)⇒約50分⇒ 飯盛山頂
など

なお、2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では
山路和弘(やまじかずひろ)さんが演じられます。

東大寺大仏殿の戦いについて~松永久秀&三好義継VS三好三人衆&筒井順慶&池田勝正~

松永久秀~三好長慶に忠義を誓った人物~官僚であり武将として時代の中心で活躍するも信貴山城にて死す。

細川晴元~名門・細川吉兆家の血筋ゆえに覇権争いの波乱万丈の生涯となる

筒井順慶・松永久秀のライバルで、与力であり友人でもあった明智光秀に味方しなかった人物

石山本願寺~11年にも及んだ石山合戦~織田信長VS本願寺顕如及び浄土真宗

三箇城~畠山義就が築城されたと伝わる城~河内キリシタン本拠地で明智光秀に味方した三箇氏の居城

波多野三兄弟と八上城~七度の攻防戦があった城~光秀によって陥落、波多野氏とは?

興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯

小笠原長清~弓馬四天王と称され、武家の有職故実を伝える小笠原一族の始祖です。

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