【小幡景憲】
小幡 景憲(おばた かげのり、元亀3年(1572年)⇒
寛文3年2月25日(1663年4月3日)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての
武将及び軍学者でした。
小幡昌盛の三男で幼名は熊千代、
別名を孫七郎、勘兵衛と称していました。
法名は道牛。養子に小幡景松(かげとし)、
養女に庄田安勝(旗本3千0石)の
室(庄田安利母)がいます。
【小幡景憲の生涯】
元亀3年(1572年)、
甲斐武田氏の家臣で
足軽大将・小幡昌盛の三男として誕生しました。
「甲陽軍鑑」によりますと、
父である小幡昌盛は信濃海津城主である
春日虎綱を補佐して在城し、
後に武田信玄の旗本に転じ、
海津在番の後任は叔父である
小幡光盛が務めたということです。
父の小幡昌盛は武田勝頼期に死去し、
叔父の小幡光盛も武田氏滅亡後は
越後上杉氏に臣従しています。
小幡景憲は他の武田遺臣とともに
武田遺領を確保した徳川氏に仕えましたが、
文禄4年(1595年)に
突如として徳川秀忠のもとを出奔して
諸国を流浪したということです。
【関ヶ原の戦い・大坂の陣】
慶長5年(1600年の
関ヶ原の戦いでは、
徳川氏の家臣である井伊直政に属して
戦功を挙げたといわれ、
慶長19年(1614年)の
大坂の陣では豊臣氏に与しましたが、
内実は徳川氏に内通しており、
江戸幕府京都所司代の
板倉勝重に連絡していたということです。
戦後は再び徳川氏に仕えて
1500石を領しました。
のち、横田尹松の末子である
縄松(つなとし)を養子としました。
【甲州流軍学の創始者】
小幡景憲は甲州流軍学の創始者として名高く、
幾多の武士に教授したとされています。
特に北条氏長・近藤正純・富永勝由・
梶定良は小幡の高弟として名高く
「小幡門四哲同学」などと呼ばれています。
剣術にも優れて小野忠明から皆伝を受けています。
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【甲陽軍鑑】
江戸時代に成立した軍学書「甲陽軍鑑」は、
春日虎綱の甥である春日惣次郎が
書き残した口述を
田氏滅亡後に上杉家に仕えた
小幡光盛あるいはその実子または
子孫であると考えられる
小幡下野守が入手し、
原本が成立したと考えられています。
そして小幡景憲が入手し、
さらに手を加えて
成立したものと考えられています。
「軍鑑」の原本は存在していませんが、
元和7年の小幡景憲写本本が
最古写本として残されています。
寛文3年(1663年)に死去しました。
墓所は神奈川県厚木市の蓮生寺にあります。
【蓮生寺】
蓮生寺(れんしょうじ)は、
神奈川県厚木市にある日蓮宗の寺院です。
山号は宝塔山。本尊は一塔両尊四菩薩。
星下りとも称されています。
旧本山は中山法華経寺。達師法縁。
【蓮生寺の縁起】
文永8年(1271年)、
日蓮上人が鎌倉から
佐渡へ配流される際、
当地にあった
本間六郎左衛門尉重連の
宅地に滞在しました。
そうした中、
月に向かい法楽したところ、
邸宅内の梅樹に明星が降臨する
奇瑞が顕れました。
やがて本間六郎左衛門尉重連が帰依します。
(同様の伝えは妙傳寺・妙純寺にもあります)
日蓮の佐渡へ護送は
佐渡国の守護代であった本間重連が
担当したとのことです。
そして佐渡守護である
大仏宣時(北条宣時)に預けました。
日蓮は、佐渡・塚原の三昧堂にて
流刑生活を送りますが、
その裏には佐渡・本間氏の館が
あったそうです。
また年に一度程度は本間重連も
佐渡に渡っていたようです。
日蓮上人が赦免となり
文永11年(1274年)、
佐渡からの帰途当地に立ち寄り、
小湊を拝し両親に回向、
宝塔を積み上げ日蓮再誕の地として
寶塔山蓮生寺と命名したとのことです。
江戸期に、本間屋敷内にあった
三光山梅香寺を合併しています。
【横山党の一族である本間氏】
前述の妙傳寺(厚木市上依知2397)・
妙純寺(厚木市金田295)は
ともに本間六郎左衛門尉重連の
屋敷があった場所であるとのことです。
なお、本間氏は横山党の一族で
横山党の海老名季定(海老名源八季定)の
次男・海老名右馬允能忠が、
海老名郷南部恩馬郷本間村を与えられて、
本間能忠になったのが始まりとされます。
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【佐渡・本間家】
のち、佐渡・本間家は、
佐渡・雑太城を本拠として
佐渡での最大勢力となり、
いくつも支流(庶流)を排出しました。
【所在地】
〒243-0805 神奈川県厚木市中依知679
【甲州小幡氏】
甲斐武田氏に仕えた一族。家紋は「五枚根笹」。
遠江国の国人・勝間田氏の出身です。
先祖の系譜関係は不詳、
「寛政譜」では平良文流としています。
上州小幡氏の同族とする系図もありますが、
その伝承に疑わしい点が多く
別系統と同族の2説があります。
もとは遠江国勝間田でしたが、
今川義忠によって勝間田氏が討伐され
一族が離散したため、
小畠日浄(盛次)のときに甲斐へ入り
武田信虎に仕えたということです。
このとき「小畠」姓としました。
(今川家には小幡光重の一族、小畠久重がいました。)
「甲陽軍鑑」では、日浄が甲斐へ移ったのは
明応9年(1500年)であり、
足軽大将に任じられたとしています。
また、「寛政譜」では、
日浄は日蓮宗に帰依していたということです。
【小畠虎盛】
日浄の子・小畠虎盛も遠江出身で、
日浄とともに甲斐へ赴きました。
戦功から武田信虎の偏諱を受けて
「虎」の一字を貰い、
虎盛と名乗って「鬼虎」と称されたり、
武田信虎・信玄より授かった感状36枚、
身には41ヶ所にも及ぶ名誉ある
傷を負っていたとする伝承があります。
「甲陽軍鑑」によりますと、
虎盛は海津城(長野県長野市)の城代である
春日虎綱の副将として海津城に
配置されていたということです。
また、「甲陽軍鑑」では
虎盛は臨終の際「よくみのほどをしれ」と
9文字の遺言で子孫を戒めたということです。
【小幡昌盛】
「寛永伝」では虎盛の子・小幡昌盛の時に
武田信玄の命で「小畑」から
「小幡」と改姓したということです。
「甲陽軍鑑」によりますと、
小幡昌盛は虎盛と同様に
海津城代に配置されましたが、
武田信玄の旗本であることを望み
訴訟となり、武田信玄の子である
武田勝頼と信玄の側近・土屋昌続の
執り成しにより
旗本として取り立てられたということです。
永禄末年の「武田信玄陣立書」では
鉄砲衆として記載されており、
実際に旗本であることが確認されています。
天正10年(1582年)3月の
織田・徳川連合軍の武田領侵攻の際には
病床にあり、「甲陽軍鑑」「甲斐国志によりますと、
黒駒(笛吹市御坂町)付近まで赴きましたが、
3月6日に死去したということです。
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【武田家滅亡の小幡家】
武田氏滅亡後、小幡昌盛の長男である
昌忠は旗本となりましたが2代で断絶となりました。
次男である在直は徳川家臣・井伊直政に仕え、
彦根藩士となりました。
そして三男が小幡景憲となります。
【小幡光盛と小幡景憲】
日浄の子である小幡光盛は
小幡昌盛が旗本になったため
虎盛の遺領・同心を継承し、海津城に配置されました。
武田氏滅亡跡は織田信長に従属し、
本能寺の変後に越後国の上杉景勝に従属しました。
子孫は米沢藩主となった上杉家に仕えています。
【甲陽軍鑑】
光盛は春日虎綱・惣二郎が記した
「甲陽軍鑑」に加筆を行い、
後に小幡光盛の甥である小幡昌盛の
三男である小幡景憲に引き渡したということです。
小幡景憲は昌忠と同様に同じく旗本となり、
後に「甲陽軍鑑」を編纂し
甲州流軍学の祖といわれています。
武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。
武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。
土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。
徳川秀忠~江戸幕府2代将軍、幕藩体制の基礎を固め政権運営方針を次代に引き継ぐ。
井伊直政~徳川四天王の最年少、小柄で容顔美麗ながら井伊の赤鬼として勇猛果敢に生涯を駆け抜ける。
千石墻の砦~小幡信真の配下であった浅香播磨守重明が秩父地方の攻略時に築いた砦とのことです。
尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。
太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。
七沢城(神奈川県厚木市)~関東不双の案者らが築城したと伝わる扇谷上杉氏の要害です。
丸山城跡~横山党の糟屋氏の居館跡を伊勢盛時(北条早雲)対策で扇谷上杉氏が改修し築城しました。
日向薬師~日本三大薬師の一つで開山は奈良時代、薬師如来の霊場として信仰を集め源頼朝も自ら参詣しました。
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