【水巻城】
天竜川の河岸段丘上に築かれた城です。
「遠江国風土伝記」によりますと、
水巻城は奥山氏の一族である
奥山美濃守定之が住すると言われていますが、
確証はないとのことです。
久頭郷(高根)城主奥山氏の一族である
奥山定茂が拠点としていました。
創建年代についてはあきらかになってはいません。
なお、城山の水巻というのは、
天竜川がこの附近で流れが
曲がることからきたということです。
城址は宥泉寺附近といわれていますが、
そこは十四世紀の代官屋敷跡と考えられており、
城址は諏訪神社より
高い地点にあったものと推定されています。
水巻城跡は江戸時代前期である
寛永の時代までは
存在していたらしいのですが、
寛永5年(1628年)、
宥泉寺の和尚琴充の時代に
古城跡に宥泉寺を移したと
書かれているとのことです。
けれども奥山由緒書には
天正4年(1576年)正月、
中部城主奥山美濃守をはじめ右馬助、
大隈守、左近将監が潰れ、
美濃守は子供と共に信州へ退却したと
いわれています。
また、徳川家康から
奥山惣十郎に宛てた所領安堵状に
「就今度忠節之儀、中部領三ヶ一並西手之内雲名村
(中略)只今取来候間(後略)」とあるとのことです。
中部領三ヶ一、只今取来候間とあるのは
中部奥山美濃守の所領の内
三分の一を惣十郎に宛てたのであり、
他の三分の二は片桐家正の所領とされたとみられています。
城跡とされている現地は、
現在道路工事中のエリアでもあり、
数年前まであった案内板が
撤去されてしまっています。
多分、このあたりだったと思われる場所を
撮影しました。
【所在地】
〒431-3908 静岡県浜松市天竜区佐久間町中部
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