鎌倉殿の13人

平知盛~入道相国最愛の息子、一門の最後を見届け散り行く様は歌舞伎になりました。

海 碇



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【平知盛】

平 知盛(たいら の とももり)は、
平安時代末期の平家一門の武将です。
平清盛の四男です。
母は継室の平時子で、
時子の子としては次男となります。
同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいます。
世に新中納言と称されました。

【生誕】
仁平2年(1152年)ごろ

【死没】
寿永4年3月24日(1185年4月25日)
享年34

【別名】
新中納言

【墓所】
赤間神宮、
横倉山(高知県高岡郡越知町)

【官位】
権中納言、従二位

【主君】
二条天皇⇒六条天皇⇒
高倉天皇⇒
安徳天皇および後白河院

【氏族】
桓武平氏維衡流(伊勢平氏)

【父】
平清盛

【母】
平時子

【兄弟】
重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、盛子、
重衡、完子、知度、清房、御子姫君、他

【妻】
正室:治部卿局

【子】
知章、増盛、知忠、知宗、中納言局

【生涯】
【平家全盛期】
仁平2年(1152年)、
父である平清盛が35歳の時に
継室・時子を母として生まれました。
同母兄の宗盛は6歳、
異母長兄の重盛は15歳でした。
翌年に祖父である忠盛が死去し、
平清盛が平家棟梁となりました。

【平治の乱で勝者】
平治元年(1159年)正月に
8歳で従五位下となります。
同年12月の平治の乱で
平清盛が勝者となり、
平家一門と共に栄進していきます。

東大寺境内

【武蔵守】
翌年の永暦元年(1160年)2月、
平家の戦功として東国の重要な武蔵国が
平清盛の知行国となり、
平知盛が武蔵守となりました。
その後再任して8年間にわたって同職にあり、
治承4年(1180年)以降は
武蔵国の知行国主となって
長年同国を支配し、
多数の平氏家人を獲得しました。
武蔵は元々は河内源氏の勢力が強い地域であり、
平知盛の武将としての才能・人間的魅力が
大きく作用したと見られています。




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【父・清盛の期待】
兄の平重盛と平宗盛は後白河院に対して
優柔不断であったため、平清盛は
平知盛に期待をかけたらしく、
25歳の頃「入道相国最愛の息子」
(「玉葉」安元2年12月5日条)と呼ばれています。
安元2年(1176年)7月に
平家と朝廷の調整役であった
建春門院が死去した事で、
平清盛と後白河院との間で確執が生じ、
その兆候は12月の蔵人頭の人事をめぐり、
「無双の権勢」の平知盛を超越して
後白河法皇近臣の藤原光能が
蔵人頭に就任した事に表れています。
翌年の安元3年(1177年)正月に
従三位。
同年6月、鹿ケ谷の陰謀が起こります。

【妹・徳子が安徳天皇を出産】
治承2年(1178年)10月、
同母妹である徳子が
言仁親王(のちの安徳天皇)を出産し、
12月に立太子しました。
翌年の治承3年(1179年)2月、
藤原殖子を母とする高倉天皇の
第2皇子・守貞親王(のちの後高倉院)が誕生し、
平知盛に養育が任され
妻の治部卿局が乳母となりました。

【異母兄の平重盛の死】
治承3年(1179年)閏7月、
平家棟梁であった平重盛が死去し、
平知盛は異母兄の死にあたり
春宮権大夫を辞任しています。
なお、9月には復帰しています。
同母兄である平宗盛が新たに棟梁となり、
平知盛は同母弟である平重衡と共に
平宗盛を補佐するようになります。

【治承三年の政変】
その3ヶ月後の11月14日、
後白河院との対立が頂点に達した平清盛は
数千騎の兵を率いて治承三年の政変を起こし、
後白河院政を停止、名実共に権力の頂点に立ちます。

【治承・寿永の乱】
治承4年(1180年)2月21日、
高倉天皇が譲位して
言仁親王(安徳天皇)が即位し、
高倉院政の元、
平知盛は軍事部門の担当である
御厩別当に就任しました。
(「玉葉」3月4日条)。
5月8日夜から平知盛は
「万死に一生」の重病となり、
10日に平清盛が福原から
上洛して見舞っており、
12日には平癒しています。
平家物語」で源平合戦の英雄として
描かれる平知盛ですが、
平家全盛期の公達としての官歴は
同母兄弟に比べてそれほど
目覚ましいものはなく、
足跡が比較的地味なのは、
病持ちであったことに
一因があるのではないかとの
見方もあるとのことです。

【以仁王の挙兵と鎮圧】
同時期に4月頃から進行していた
以仁王の挙兵が起こり、
平清盛の上洛はその対処もあったと見られ、
5月15日には以仁王の配流が決定されました。
21日に平知盛は
園城寺攻撃の大将軍の一人となります。
反乱は平家の精鋭家人と大将の
重衡・維盛らの派遣により短時間で鎮圧。

【福原遷都と源頼朝の挙兵】
しかし山門の不穏な動きなど
京の軍事的緊張は続き、
6月2日、平清盛による
福原遷都が強行されました。
8月、源頼朝が挙兵し、
10月の富士川の戦いで
平維盛率いる平家軍は敗北を喫します。
平清盛は各地で相次ぐ反乱に対処するため、
遷都から半年で都を平安京に戻し、
平知盛は数千の兵を率いる平宗盛と共に
安徳天皇を守護して京に戻りました。

【近江攻防・美濃源氏の挙兵】
同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した
平清盛の命により、平知盛は甥である平資盛と共に
大将軍として出陣し、京近郊の反乱軍を鎮圧しました。

【南都焼討】
同時期に平重衡による南都焼討があり、
治承5年(1181年)2月までに
畿内の反家氏勢力は鎮圧されました。
翌年の治承5年(1181年)2月、
平清盛の命令で東国追討も命じられましたが、
この時に病に倒れて京都に戻らざるをえなくなり、
大将は平重衡に交代となりました。

東大寺

【東国鎮圧に向けて】
平重衡の東国追討使は
鎮西(九州)の情勢悪化により、
鎮西への派遣に変更されます。
平清盛は東国鎮圧に向けて
平宗盛を畿内惣官職として
総力戦体制の構築を計り、
閏2月上旬には平宗盛を総大将として
東国追討軍の派遣が
予定されていました。




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【平清盛の死】
しかしながら、
その準備の最中の2月26日、
平清盛が病に倒れて平重衡の鎮西及び
平宗盛の東国追討軍派遣は中止。
治承5年(1181年)閏2月4日、
平清盛が死去しました。
その遺言は一門最後の1人まで
源頼朝と戦えというものであったそうです。

【軍事の実権を掌握し続ける】
平家の棟梁である平宗盛は
平清盛の強硬路線を否定して
後白河院に政権返上を申し出ますが、
朝廷による反乱源氏軍との和平案は拒否、
軍事の実権は依然として平家が握り、
実力による反乱鎮圧に固執する事になります。
これは平家内では主戦論が大勢を占めており、
一門結束のために平清盛の遺言に従う
必要があった事を物語っているとのことです。
3月、墨俣川の戦いで平家軍が勝利します。

【反乱鎮圧を図るも】
平宗盛は4月に原田種直を太宰権少弐に補任し
8月には家人の平貞能を鎮西に派遣して
反乱鎮圧を図ります。
東国では城助職・藤原秀衡
地方の有力武士を国司に任じて
反乱鎮圧を働きかけましたが効果はなく、
8月から10月にかけての北陸追討も失敗。
10月の平家遠征軍の編成では
最も重要な洛中守護には
棟梁である平宗盛のもと、
叔父の教盛・経盛・頼盛と知盛が担当しました
(「玉葉」10月10日条)。
この時、平宗盛とともに洛中に留まった者が
政権中枢にあったと考えられています。
各地の反乱勢力が割拠する最中の7月頃、
鎌倉で東国経営に専念している源頼朝から
後白河院に密使が送られ、
平家との和平を提案されましたが、
平家は平清盛の遺言を盾に拒否しています。
この年の後半から、
養和の大飢饉により一時事態は
膠着することになります。

【倶利伽羅峠の戦いでの壊滅的な敗北】
西国の飢饉の状況が落ち着いてきた
翌年の寿永2年(1183年)4月、
京の食料の生命線である北陸道平定のため、
平維盛を大将として平家の総力を結集した
大軍を派遣します。
けれども5月の倶利伽羅峠の戦いで
壊滅的な敗北を喫し、
木曾義仲ら反乱軍は勢いを得て京を目指して
進撃してくる事になります。

【木曾義仲らを迎え撃つために】
7月半ば、平家軍は京を目前にした
木曾義仲ら反乱軍を迎え撃つため、
一門を畿内各所に派遣し、
平忠度は100騎の軍勢で丹波国へ、
平資盛・平貞能は1000騎で宇治田原に、
平頼盛は山科へ、
平知盛は平重衡と共に2000騎の軍勢で
勢多に向かいました。
しかし摂津国の多田行綱が反乱軍に同調して
西日本への海上ルートを封鎖する動きを見せると、
平宗盛は包囲される前に
伝統的平家の地盤である西国へ下向して
態勢を立て直す方針へ転換します。
7月24日、各地に派遣されていた諸将は
都に呼び戻されます。

【一門都落ち】
寿永2年(1183年)7月24日夜半、
都落ちを目前にして、
平家の正統性確保に
同行が必須であった
後白河法皇が比叡山に逃亡し、
事態を予想せず法皇を取り逃がした
平宗盛は茫然自失であったということです。
25日、平家一門は六波羅や西八条邸を焼き払い、
安徳天皇・建礼門院・三種の神器を擁して
都を落ちていきます。
法皇を取り逃がしたことで、
平家は官軍から一転賊軍として
追討を受ける立場となり、
8月6日、平時忠を除く
一門の官職は剥奪されました。
その後、備前国児島を経て
8月下旬に原田種直の協力のもと、
鎮西(九州)の大宰府に入ります。

【讃岐国屋島】
しかし他の在地豪族の
緒方氏・臼杵氏・菊池氏は
平家に合力せず、
逆に反平家の緒方惟栄らの攻撃を受けて
大宰府を退却し、10月20日に
九州を離れ四国・讃岐国屋島に入りました。
この時、譜代の有力家人で
鎮西に影響力があった平貞能が
離脱するなど、
小松家(平重盛)系統の一族や
家人の平家本隊からの離脱が
起きるようになりました。

【平家反撃】
規模は縮小されつつあったものの、
瀬戸内海の制海権を握る平家は
田口成良の協力のもと
屋島に本営を起き、
平知盛は全軍の総指揮官として
体勢の立て直しを図ります。
閏10月1日、平家追討の院宣を受けて
西国へ下向した木曾義仲を水島の戦いで破り、
京へ追い返しています。

【一ノ谷】
11月29日の室山の戦いでも
源行家を破り、
後白河院・木曾義仲の対立、
源頼朝が派遣した鎌倉軍の上洛など
京が混乱する中、
勝利に勢いづく平家軍は
福原の東方生田の森、
西方の一ノ谷に山陽道を遮断する
城郭を構え、平清盛の三周忌を前に
福原へ集結しつつありました。

【宗盛と知盛の方針の違い】
四面楚歌の木曾義仲は
平家に和睦の使者を送ったのですが、
平家方はこれを拒否しています。
平家内でも京奪還を目指して
即時上洛を訴える平知盛と、
それを押し止める平宗盛とで
口論に及んだということです。

【木曾義仲の死】
寿永3年(1184年)1月19日、
木曾義仲は上洛した
鎌倉軍の手勢によって粟津の戦いで敗死しました。

【平家追討の続行】
1月26日、平家は福原に入り、
都の奪還を目指して上洛する噂が広まります。
朝廷では平家との和議と追討で
意見が二分されましたが、
後白河院と院近臣ら強硬派の意見によって
平家追討は続行され、29日、
源範頼源義経が在地武士を組織して
西国へ向かったのでした。




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一ノ谷の戦いと成立しなかった和平交渉】
2月7日、一ノ谷の戦いで
平知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、
源範頼率いる鎌倉方大手軍を迎え撃ります。
しかし一ノ谷側で搦手の源義経軍の逆落としを受けた
平家軍は混乱に陥り、生田側の軍も撤退して
海上に逃れたのでした。
この戦いの敗北で平家は平知盛の嫡男知章を初め、
一門の有力武将を多数失う甚大な被害を受け、
弟平重衡は捕虜となりました。
平宗盛が朝廷に送った書状によりますと、
平家側は神器の返還をめぐる
和平交渉で後白河院から
休戦の命を受けていたにも関わらず、
鎌倉軍の奇襲を受けたため大敗に及び、
平家軍を油断させる院の奇謀によって
多大な被害を被ったという内容でした。
2月10日、朝廷との間で
平重衡の身柄と引き替えに
神器返還の交渉が行われましたが、
和平案は成立せず、3月に平重衡の身柄は
鎌倉へ送られたのでした。

【屋島での致命的な敗北】
寿永3年(1184年)8月、
鎌倉から源範頼を総大将とする
平家追討の大軍が派遣されます。
一ノ谷で大きな打撃を受けましたが、
平家軍は讃岐国屋島に
城郭を築いて再起を図っています。
二箇所に陣を結び、平宗盛が屋島にあり、
平知盛は彦島に軍営を置きました。
平知盛は九州の兵を率いて門司関を固め、
半年に渡って追討軍の九州・四国上陸を阻止しました。
けれども、平知盛が彦島に釘付けとなっている間の
寿永4年(1185年)2月19日、
屋島の戦いで源義経の急襲を受け、
動揺した平宗盛はほとんど
戦闘を行う事なく安徳天皇と
共に海上へ逃れ、
平家は瀬戸内海の制海権掌握に
重要な拠点であった屋島を失う
致命的な敗北を喫してしまうのでした。

瀬戸内海(周防大島)

【追い詰められる平家一門】
さらに源範頼軍が1月末に在地武士の
緒方氏・臼杵氏の協力を得て
九州・豊後国に上陸し、
2月1日には平家方であった
原田種直を討ち取っており、
彦島に追い詰められた
平家一門は海上で孤立してしまいます。

【最後の決戦・壇ノ浦】
寿永4年(1185年)3月24日、
壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と
最後の戦闘に及びます。
田口成良ら四国・九州在地武士の
寝返りにあい、
追い詰められた平家一門は
入水による滅びの道を選択します。
安徳天皇、二位尼らが入水し、
平家滅亡の様を見届けた平知盛は、
乳兄弟の平家長と
手を取り合って
海へ身を投げたのでした。
享年は34歳でした。

【承久の乱と守貞親王】
妻の治部卿局は東宮として
同行していた守貞親王と共に生き残り、
都へ戻りました。
壇ノ浦から36年後、
承久の乱によって後鳥羽院が
鎌倉幕府に敗れて配流となり、
幕府によって守貞親王の皇子が
後堀河天皇として擁立され、
父である守貞親王は後高倉院として
院政を行う治天の君となっています。




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碇知盛
自害にあたり、平知盛は碇を担いだとも、
鎧を二枚着てそれを錘にし、
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」
と言い残して入水したとも伝えらえています。
共に入水後遺体となるか、
あるいは生きたまま浮かび上がって
晒し物になるなどの辱めを受けるのを
避ける心得であったとのことです。

これに想を得た文楽及び歌舞伎
「義経千本桜」の「渡海屋」および
「大物浦」は別名
「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、
平知盛が崖の上から碇と共に
仰向けに飛込み入水する場面が
クライマックスとなっています。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
岩男 海史(いわお かいし)さんが演じられます。

平清盛~平家の黄金期を築いた棟梁~先見性と革新的思考で時代を切り開き後世に託す。

平宗盛~最後の平家の棟梁~偉大なる父の跡はいばらの道だらけ、イクメンで家族思いのパパでもありました。

平維盛~平清盛の嫡孫で桜梅少将と称される美貌の貴公子でしたが、最期は自ら散ります。

源義経~戦略家且つ戦術家であった若き天才~その悲運な生き様はやがて伝説となった。

源範頼~ひそやかに育てられ、兄の源頼朝のために尽力するも嵌められて消えてゆく

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

後白河院(後白河院天皇)(後白河法皇)「治天の君」の地位を保持した「日本一の大天狗」の異名をとる人物。

木曾義仲(源義仲)河内源氏の一族で源頼朝とは従兄弟、美男子で信義と情を備えていたが武骨で公家文化には疎かった

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