鎌倉殿の13人

八田知家~小田氏の始祖であり十三人の合議制の一人で源氏4代に仕えた人物です。

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八田知家

八田 知家(はった ともいえ)は
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将でした。
鎌倉幕府御家人です。
下野宇都宮氏の当主である
宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男です。

系図などによる異説としては
源義朝の落胤で、
母は宇都宮朝綱の娘である八田局で
初め朝家(読み同じ)と
名乗ったという記述もあります。
なお、源義朝の落胤説は
八田知家の姉、もしくは妹であった
「寒河尼」(さむかわのあま)が、
源頼朝の乳母を務めていたことが
理由のひとつと考えられています。

鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。
小田氏の始祖であり
小田城(つくば市)の築城者です。

【生誕】
康治元年(1142年)
天養元年(1144年)とする文献あり。

【死没】
建保6年3月3日
(1218年3月30日)

【別名】
筑後入道尊念、
朝家(別表記)、
八田四郎

【官位】
従五位下、
右衛門尉、
左衛門尉、
右馬頭、
筑前守

【幕府】
鎌倉幕府 十三人の合議制、
武者所、常陸守護

【氏族】
藤原氏、宇都宮氏

【父】
八田宗綱

【兄弟】
宇都宮朝綱、知家、寒河尼

【八田知家の生涯】
保元元年(1156年)の保元の乱では
源義朝側について戦い、功績をあげました。
治承4年(1180年)8月の
源頼朝挙兵に早くから参加しており、
同年には下野国茂木郡地頭職を
安堵されています。

寿永2年(1183年)、
野木宮合戦に参加しました。
元暦元年(1184年)8月の
源範頼率いる平氏追討軍に従軍しています。

文治元年(1185年)4月、
前年に源義経が無断任官で
源頼朝の怒りを買った際、
八田知家も右衛門尉に任官しており、
源頼朝から
「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、
怠け馬が道草を食うようなものだ」
と小山朝政と共に罵倒されています。
けれども八田知家は、
源頼朝への忠誠心は揺らぐことはなく、
熱心に仕えたとのことです。
そしてその熱意が源頼朝にも届き、
文治5年(1189年)7月の
奥州合戦では千葉常胤と共に
東海道大将軍に任ぜられたのでした。

八田知家は源頼朝に応えるべく
福島の浜通りから
奥州藤原氏を追い詰める戦功を立てたのでした。




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【常陸に本拠地を移す】
建久4年(1193年)、
曾我兄弟の仇討ちの混乱に乗じて
八田知家は、常陸国において
覇権を争っていた従兄弟の
多気義幹(たけよしもと)を
罠に嵌めようと、北条時政
と共に策を巡らせます。
そして八田知家は、
「多気義幹が謀反を起こそうとしている」
と鎌倉幕府に報告したのです。
それまで多気義幹の所領であった
常陸国(現在の茨城県)は没収され、
八田知家は、自身の本拠地を
下野から常陸へ移しました。
このときに八田知家は、
常陸守護に補任されました。

建久7年(11966年)には
降伏して捕らえられた平景清を
自邸に預かっています。

【十三人の合議制】
建久10年(1199年)、
源頼朝が没し、
後を継いだ2代将軍源頼家の専制を
抑えるために結成された
十三人の合議制の一人となります。
建仁3年(1203年)には
源頼朝の異母弟で
源頼家の叔父にあたる
阿野全成が北条氏とともに
反源頼家派を形成したことから、
先手を打って北条氏に対抗した
源頼家の下知により、
阿野全成を誅殺しました。

【最期】
そして八田知家は建保6年(1218年)3月3日、
77歳でこの世を去りました。
源義朝から鎌倉幕府3代将軍の源実朝まで
4代に亘って源氏に仕え、
忠誠心を貫き通した生涯でした。

【墓所】
八田知家の墓所は、
茨城県笠間市に位置する
「宍戸清則家」(ししどきよのりけ)
の墓地内にあります。

五輪石塔が2つ並んでおり、
向かって右側が八田知家、
左側が、八田知家の四男で
「宍戸氏」の始祖と伝わる
宍戸家政(ししどいえまさ)のお墓です。
八田知家に続いて宍戸家政が
この笠間の地を領し、
その子孫達もまた、
常陸守護や鎌倉幕府の御所奉行などに
任じられたのでした。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
市原隼人(いちはらはやと)さんが演じられます。

源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。

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千葉常胤~桓武平氏の流れをくむ千葉氏の中興の祖~鎌倉幕府成立に大きく貢献した人物です。

小田城跡(つくば市)~鎌倉初期に八田知家が築城し、戦国時代の小田氏15代の居城でした。

筑波山神社~万葉集にも登場する「筑波」~山頂からの眺め良し!日本史を見守ってきた山。

海老ヶ島城~室町時代に結城成朝が築城、子が海老原氏と名乗り、やがて結城氏と小田氏で城の争奪戦となり勝者は佐竹氏。

茂木城(桔梗城)~宇都宮一族の茂木氏の居城で現在は綺麗に整備されています。

赤見城~藤姓足利氏である足利俊綱が平安時代末期に築城、戦国期は赤見氏の城で400年の歴史があります。

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