室町幕府

大森氏頼~兄弟親子の分裂を経て当主になり西相模で勢力をのばしました。居館跡(矢崎城)は紫雲寺です。 

大森氏頼居館跡(紫雲寺)



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大森氏頼】

大森 氏頼(おおもり うじより、
生年不詳 – 明応3年8月26日
(1494年9月25日))は、
室町時代から戦国時代の武将で
扇谷上杉家の家臣です。
大森氏当主でもあります。
相模国小田原城城主、
後に岩原城城主となりました。

【時代】
室町時代から戦国時代

【死没】
明応3年8月26日(1494年9月25日)

【改名】
与一⇒氏頼

【戒名】
寄栖庵主日昇明昇禅師

【官位】
信濃守

【幕府】
室町幕府

【主君】
足利持氏⇒上杉定正

【氏族】
駿河大森氏

【父】
大森頼春

【兄弟】
憲頼、高頼、
義兄弟:三浦時高

【妻】
三浦高明娘

【子】
実頼、藤頼、三浦高救室

【大森氏頼の生涯】
鎌倉公方と幕府】
生年は不明ですが、
父親である大森頼春が
応永29年(1422年)に
出家したとされているため、
それ以前の誕生であると考えられています。
初め弟である大森憲頼らと同じく
鎌倉公方である足利持氏に仕え、
永享の乱では足利持氏方として活躍していました。
足利持氏敗死後も、大森氏は没落することなく
勢力を維持していました。
けれども、享徳の乱以降は
子である大森実頼と共に
上杉方に属して活躍しており、
室町幕府8代将軍の足利義政に
年来の忠節を称賛されています。
一方で上洛を再三促されるなど、
鎌倉公方との関係が深い大森氏と
幕府との関係は不安定でした。
また弟である大森憲頼とその子大森成頼は
古河公方足利成氏方として活躍していたとされ、
大森氏は兄弟で分裂していたと見られています。

【大森氏当主へ】
太田道灌の助力により、
寛正5年(1464年)に
太田道灌に従って上洛して
足利義政の赦免を受け、
文明10年(1478年)5月には
相模国平塚城に籠った
大森伊豆守(成頼とされています)を攻略しています。
伊豆守が箱根山中に逃亡したことにより
大森氏の再統一と
大森氏当主の地位を手に入れています。
小田原城入城もこの頃と考えられており、
以後、上杉定正に仕え、
太田道灌と共に上杉定正を支える
扇谷上杉家の重臣として活躍していました。
なお、父である大森頼春が家督を譲ったのは
大森氏頼であるとのことです。




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【小田原入城後】
小田原入城後は、
嘉吉元年(1441年)に早川に海蔵寺
文安2年(1445年)に久野に総世寺を建立し、
大窪に津田織部忠正を招聘するなど、
城下に町場や職能集団を形成するように努め、
相模国西部の支配を確立させていきました。
鎌倉の名僧である玉隠とも交流があり、
延徳元年(1489年)に
箱根湯本に湯治に来た際には親しく交友し、
玉隠は漢詩を詠んだとのことです。

【第一の家臣としての活躍】
太田道灌が暗殺された後に
大森氏頼は扇谷上杉家中で
三浦・曽我・大森と称されるほどに
重きをなしていきました。
家中において重きをなし、
長享の乱における実蒔原の戦い
菅谷原の戦い、
高見原の戦いではいずれも
「大森寄栖庵入道」として
長尾景春らと並ぶ活躍が伝えられています。

【扇谷上杉家への不安】
一方で古河公方である足利成氏と
和議を結びながらすぐにこれを破棄するなど
上杉定正の政治手法は家臣の離反を
招くようになっていきます。
大森氏頼は扇谷上杉家の今後に不安を抱き、
「大森教訓状」と呼ばれる諫言状を
上杉定正に送ったとされています。
それはやがて的中し、
太田道灌亡き後、衰退し、
川越まで追いやられていくのです。

【晩年】
法華経に通じ、
法名に「日昇」と入るなど
日蓮宗との接点がありますが、
曹洞宗寺院を建立して手厚く保護しました。
また箱根神社を中心とした古義真言宗、
浄居寺を中心とした臨済宗とも
関係を深めるなど宗教面において
高い識見を有し、
また領地経営に生かしていきました。
後に嫡男の大森実頼に小田原城を譲って
自身は「寄栖庵」を名乗って岩原城を守りました。
明応3年(1494年)に死去しました。
既に嫡男の大森実頼には
先立たれていたので家督は
次男の大森藤頼が継いだのでした。

【大森氏頼館跡(矢崎城)】

平塚市岡崎にある曹洞宗のお寺である紫雲寺。
戦国時代初期には小田原城主であり
三浦道寸の祖父でもあった
大森氏頼が若い頃に住んでいた
居館があったとされています。
別名を矢崎城とも称するとのことです。
大森氏頼居館跡の標柱が建つ紫雲寺から
岡崎神社までがその範囲とされています。
また明治6年に、岡崎小学校の前身である
「進修館」が開校した処でもあります。

大森氏頼居館跡 石碑(紫雲寺)

【遺構】
土塁

【所在地】
〒259-1212 神奈川県平塚市岡崎3910 紫雲寺
岡崎城址より直線距離にして
500mほど下がった場所にあります。

【交通アクセス】
◆小田急小田原線「伊勢原」駅南口よりバス
(平89)(平90)(平91)(平92)
「平塚駅北口」行き⇒
「矢崎」停留所下車⇒徒歩15分程度。




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◆JR東海道線「平塚」駅北口よりバス
(平89)「東海大学病院」行き⇒
(平90)(平91)(平92)
「平塚駅北口」行き⇒
(平93)「伊勢原車庫」行き⇒
(平96)「矢崎」行き⇒
「矢崎」停留所下車⇒徒歩15分程度。

※「城所城址」と同じルートです。

【駿河大森氏】

大森氏(おおもりし)は、日本の氏族の一つです。
以下の系統があります。
◆駿河大森氏。
◆伊予大森氏。
◆常陸大森氏。

大森氏は駿河郡藍沢原の古い土豪であり、
大森氏の庶流として、
大沼・河合・菅沼・神山・沓間などが
知られています。
室町時代になると箱根別当職を
一族から輩出しています。

【出自について】
出自を藤原北家伊周流とする説があり、
伊周の子藤原忠頼、孫藤原惟康が、
正一位摂政関白藤原道隆の孫・曾孫、
正二位伊周の子・孫でありながら、
両者とも詳細が不明な人物です。
実際は駿河の古い土豪であり、
勢力を拡大するとともに
藤原氏の子孫を称したものと
考えられています。

【大森氏の台頭】
大森氏が台頭するのは
室町時代初期の大森頼春の代からです。
鎌倉公方に仕え、
上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、
上杉禅秀方であった中村党の
土肥氏・土屋氏を滅ぼし、
その勢力圏であった
相模・伊豆に勢力を広げていきました。

【大森氏の小田原進出】
永享の乱のでは足利持氏方に属して
幕府軍と戦い敗れましたが、
国人領主として勢力を保ちました。
けれども、享徳の乱以降の混乱期においては、
大森頼春の子供たちが分裂してしまいました。
兄の大森氏頼とその子の実頼と
弟の大森憲頼とその子の大森成頼との
二系統に分かれ対立となってしまいました。
結果的には太田道真・道灌の支援を受けた
大森氏頼系が勝利し、
大森憲頼系は箱根山中に逃亡しました。
その後大森氏頼系は扇谷上杉家に属し
重臣となって、小田原城を拠点として
勢力を広げ繁栄していきました。




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【大森氏の衰退と一族のその後】
その後の大森氏について、
通俗的には大森氏頼の子で
大森実頼の弟の大森藤頼の代に
伊勢盛時の手により
小田原城を落とされ没落したとされていますが、
史料の上ではつじつまの合わない部分も多く、
その経緯の詳細については不明となっています。

また扇谷上杉氏の勢力が弱まり、
山内上杉氏を頼る様になっていたため、
大森氏も山内上杉氏に転向したことが
永正元年(1504年)と推定される
「大森式部大輔」宛の
山内上杉顕定の書状写しが残されており、
その書状から見て取れます。

【大森氏の相続争い】
大森氏頼の死後、
相続をめぐって争いが勃発し、
そこに大森憲頼系の一族や
家臣たちも関与して、
大森氏が弱体化し、
そこに伊勢盛時が便乗して、
大森氏の分裂を更に画策して、
更にその時に起きた
後の世に
明応地震(めいおうじしん)と称される
自然の災害も利用して
小田原城を奪ったとする考えもあります。
小田原城を追われた大森氏はその後に
平塚の真田城に入ったとされています。
その後、静岡県小山町の乗光寺の記録では
文亀3年(1503年)没となっているそうです。

【明応地震(めいおうじしん)】
室町時代後期(戦国時代初期)の
西暦1498年9月20日
(明応7年8月25日)に
日本で発生した大地震です。
震央は北緯34.0度 東経138.0度。
地震の規模はM8.2~8.4
であったと推定されており、
東海・東南海・南海の3つの地震が
ほぼ同時に発生した、
三連動地震であったと考えられています。
別称として明応東海地震
(めいおうとうかいじしん)とも呼ばれています。
そして津波もかなり大規模なものであったようです。
津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、
波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、
伊勢、志摩で6~10mでした。
特に伊豆半島西岸や志摩半島では
局所的に大規模な津波が
襲来していたことがわかっています。
津波は鎌倉の鶴岡八幡宮参道にも襲来し、
古い記録によりますと
8~10mに達したそうです。
高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊したと
「鎌倉大日記(かまくらおおにっき)」
に記述されているとの事です。
「鎌倉大日記」は、
足利氏を中心とした作者不詳の年代記です。
南北朝時代末期頃の成立とされています。

また古文書の記録や伝承によりますと、
静岡県沼津市においては、
津波が斜面を駆け上り、
海抜36mを超える地点まで
達していた可能性があることが判明しています。

【「大森式部大輔」は誰?】
永正6年(1509年)及び
永正7年(1510年)に
山内上杉憲房が大森式部大輔宛に
礼状の書状を出しています。
大森藤頼は既に亡くなっているので、
「大森式部大輔」が大森藤頼の子供なのか
違う人物であるかはわかりません。
ちなみに大森藤頼の子供である
大森泰頼は甲斐に逃れた説があります。
そして1541年に甲斐・浅利にて
亡くなったとされています。
その後、大森藤頼の孫にあたる人物が
相模・寒川に戻ったという記録があります。

最も山内上杉憲房が出した書状が、
永正元年(1503年)以前の書状までは
軍事的な行動を促す内容が多かったとのことですが、
永正6年以降はそのような内容のものは
無いか見つかってはいない、とのことです。
永正元年頃といえば大森藤頼が没した年の頃です。
そして伊勢盛時と相模三浦氏の争いが激化する
永正8年永正9年の時期に
「大森式部大輔」史料から消えてしまっています。
その同じ頃に岡崎城合戦があり、
とうとう敗れた相模三浦氏の
三浦義同(三浦道寸)が新井城に退却しています。
なお相模三浦氏滅亡の際にともに
討ち死にした人物に「大森越後守」があり、
大森氏頼の弟である
大森高頼ではないかとされています。

【小田原北条氏の家臣「大森殿」】
長享の乱以降の扇谷上杉家の衰退と
相模における小田原北条氏の台頭に従い、
大森氏が没落していったことは事実ですが、
小田原北条家所領役帳には
「大森殿」と殿付きで呼ばれている人物があり、
大森氏の一族が小田原北条氏に
客分扱いとして従属していたと
考えられています。
甲斐で生まれ、後に相模・寒川に戻った
大森藤頼の孫で菊地泰次という人物がいます。
「菊地」姓に変えて相模に戻ってきています。
そして小田原北条氏の家臣になったともされています。
さらにその孫の代で「佐久間」姓に変わり、
その孫にあたる佐久間頼照の代で
関ヶ原の戦い」に遭遇し、
養父である佐久間勝之にともなわれて
徳川秀忠に謁見し、
徳川旗本大森氏として
家を再興したとのことです。




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【そのほかの家臣「大森氏」】
またこの「大森殿」以外にも
永禄10年(1567年)11月に
北条氏邦から印判状を与えられた「大森越前守」、
駿河日枝社神主「大森猿千代」、
天正13年(1585年)に
徳川家康の援軍として
北条氏房から派遣された「大森兵衛太夫」、
「小田原合戦」で小田原城に籠城した
「大森甲斐守」が存在しています。

【江戸時代の「大森氏」】
江戸時代に入っても徳川氏に仕え、
江戸幕府の寄合旗本として存続した者の他、
水戸、備中など各地で
大森氏子孫を名乗る家が存在したということです。

花岳城跡~平安末期に土肥一族の小早川氏が居館、室町期に大森頼春が築城したが伊勢盛時に奪われた。

生土城跡~大森氏が築城した支城~鎌倉公方・足利持氏が滞在したと伝わる中世の城。

足利公方邸跡(鎌倉)、鎌倉時代初期に足利義兼が構えた屋敷は足利尊氏も住みやがて激動の室町時代を迎えます。

扇谷上杉管領屋敷跡~扇谷上杉氏の遠祖は足利尊氏の叔父。鎌倉公方を補佐する関東管領家として鎌倉に居住。

曾我城跡~曾我兄弟が育った曽我氏の館。北条氏康に滅ぼされたが嫡流は足利将軍や徳川家に仕え出世した。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

真田城~神奈川県平塚市にある真田の郷、真田與一義忠(佐奈田義忠)について。

岡崎義実~代々源氏の家人で特に忠義心厚い人物。三浦一族だが中村党とも深い関係で真田与一の父親です。

長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

太田道灌~扇谷上杉氏の家宰で多彩で非凡な才能故に主君に疎まれ暗殺された悲劇の武将。

伊勢盛時(北条早雲・伊勢宗瑞)の登場~小田原北条初代~名門一族の出自で関東に覇を唱えに行く!

新井城址・相模三浦氏とは?伊勢盛時から3年間持ちこたえた断崖の要害

小田原城跡~小田原北条五代~近世城郭と中世城郭の両方の遺構が残る城。

相模沼田城~波多野氏の一族の沼田氏が築城し、後に大森氏の所領となる。

糟屋有季~糟屋(糟谷)氏の所領は伊勢原市一帯で横山党とも繋がりがあります。糟屋氏一族の城所城跡があります。

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