【氏家直元】
氏家直元(うじいえ なおもと)は、戦国時代の武将。
氏家氏12代当主で、西美濃三人衆の一人。
出家後に名乗った「卜全」(ぼくぜん)の号でよく知られています。
最盛期には美濃国の三分の一を領し、
三人衆の中では最大の勢力を有していたとされています。
【氏家直元(卜全)の生涯】
始めは美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えていましたが、
斎藤道三によって土岐頼芸が追放された後は、
斎藤道三の家臣として仕えていました。
【斎藤道三を滅ぼす】
弘治2年(1556年)に、
斎藤道三と息子である斎藤義龍が争った時には、
斎藤義龍について斎藤道三を滅ぼしました。
そして斎藤道三と同盟を結んでいた
織田信長とは敵対します。
其の後約10年にわたって、織田信長と
各地で激戦を繰り広げていったとされています。
永禄4年(1561年)に斎藤義龍が病死すると、
その子である斎藤龍興に仕えていましたが、
斎藤龍興とは折り合いが悪かったと伝わっており、
斎藤龍興が家督を継ぐと、
氏家直元ら西美濃三人衆は
国政から遠ざけられたそうです。
【斎藤龍興逃亡す】
これまでも西美濃三人衆は、
美濃代表として、織田信長と激戦を交えながらも、
斎藤龍興には次第に、
不満を募らせていったともされており、
氏家直元が特に斎藤龍興と
不仲であったと伝えらえているそうです。
永禄10年(1567年)、
稲葉良通(稲葉一鉄)や安藤守就といった
西美濃三人衆と共に、
織田信長の稲葉山城攻めにおいて内通し、
斎藤龍興は逃亡していきました。
美濃はこうして織田信長の領地となり、
以後は織田氏の家臣として仕えました。
なお、この頃に卜全と号したそうです。
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【織田家家臣へ】
永禄11年(1568年)の
織田信長上洛の際にはこれに従い、
氏家直元改め氏家卜全ら西美濃三人衆は、
美濃筆頭衆として扱われたと伝わっています。
そののち、西美濃三人衆は、織田軍内において
共に行動することが多くなっていったそうです。
また、永禄12年(1569年)の
北畠具教が籠城する大河内城攻めや、
元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して、
一軍の大将として活躍していったとあります。
【氏家卜全の最期】
元亀2年(1571年)の
伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し、
織田軍が撤退する際に
殿軍(しんがりぐん)を務めましたが、
5月12日に美濃石津で
本願寺勢力と共に織田軍に抵抗していた
六角一族の佐々木祐成に討ち取られてしまいました。
享年は38歳とされていますが、
「美濃国諸旧記」には59歳で死去したと書かれています。
20歳以上もの年齢差がありますが、
後を継いだ、息子の氏家直昌の生年も不明であるため、
はっきりとはしていません。
なお、岐阜県海津市南濃町安江に
「卜全塚」という供養塔が今もあります。
家督は長男の氏家直昌が継いでいます。
【長男・氏家直昌】
氏家 直昌(うじいえ なおまさ)。
家督を継いだのち、
天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いでは
かつての旧主であった斎藤龍興を
討ち取るという武功を挙げました。
天正7年(1579年)、
荒木村重が稲葉貞通を攻撃した際、
堀川国満と共に撃退しています。
その後も石山合戦や荒木村重討伐などに参加して
武功を挙げました。
天正10年(1582年)に
織田信長が本能寺の変で横死した後は
羽柴秀吉とよしみを通じましたが、
天正11年(1583年)に病死しました。
跡を弟の氏家行広が継ぎました。
【次男・氏家行広】
氏家 行広(うじいえ ゆきひろ)。
天正11年(1583年)に氏家行広が家督を継ぎ、
美濃国三塚1万5000石に移封されます。
天正16年(1588年)、従五位下・内膳正に叙任。
その後、小田原征伐などで軍功を挙げ、
天正18年(1590年)、
伊勢国桑名2万2000石に加増移封されました。
【関ヶ原の戦い】
豊臣秀吉死後、慶長5年(1600年)の会津征伐では
徳川家康軍に合流するため東上中でしたが、
道中で石田三成挙兵の報を聞くと
家康に断りを入れた上で伊勢に帰還し、
豊臣秀頼が幼少であることを理由に
家康方・三成方いずれにも呼応せず中立の立場を取りました。
けれども桑名に西軍勢力が及んできたため、
中立の立場を維持できず、
やむなく弟の氏家行継と共に西軍に与し、伊勢路を防衛しました。
このため関ヶ原の戦い後、
家康の命で改易されて浪人となってしまいました。
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【大坂夏の陣】
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では
荻野道喜と変名を用い大坂城に入城して
豊臣氏に与して活躍しました。
徳川家康は氏家行広の器量を惜しんで
仕官を呼びかけたが応じなかったと伝わります。
翌年の大坂夏の陣のとき、
大坂城落城と共に自刃しました。
氏家行広の4人の子のうち三男以外は京に逃れましたが、
京都所司代の配下に捕らえられ、
同年7月、妙覚寺にて自刃に追いやられています。
三男のみは南光坊天海の弟子となっており、
助命されています。
なお、氏家行広の弟の氏家行継の子孫が、
関ヶ原の戦い後に熊本藩に仕え、
明治維新を迎えたとあります。
【氏家氏】
藤原北家宇都宮氏流の氏家氏がおり、
氏家直元はこの系統となるそうです。
【宇都宮氏】
宇都宮氏(うつのみやし)。
藤原氏一族の藤原北家の藤原道兼の曾孫を
称したとされている藤原宗円が、
源頼義、義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)での功により
宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、
宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字(名字)として
宇都宮氏を名のったことから始まったとされています。
けれども「宇都宮市史」や「姓氏家系大辞典」では、
宗円を藤原道兼の子孫とするのは後世の偽称で、
宇都宮氏は中原氏の出、
あるいは古代の毛野氏の後裔とされているなど、
諸説あるとのことです。
【氏家氏の起源】
宇都宮朝綱の子の公頼が
下野国の氏家郷に土着して本貫とし
氏家姓を名乗ったのが始まりと伝えらえています。
けれども、紀氏を出自とする
氏家公幹が
(長元元年(1028年)生⇒ 永長元年(1096年)没)
創始した氏家氏を公頼が継いだとする説もあるそうです。
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【南北朝時代】
氏家氏が歴史上において、
知られるようになるのは南北朝時代からです。
氏家重定・氏家重国は北陸地方の守護で
北朝方であった斯波氏の配下として、
南朝方の重鎮である新田義貞を討ち取るという功績をあげ、
恩賞を拝領し美濃に地盤を築いたと伝わっているそうです。
これが美濃氏家氏の始まりとされているとのことです。
さらに、氏家氏の一族はのちに奥州探題となった
斯波家兼とその子息(斯波直持、斯波兼頼)に従い、
奥州氏家氏や出羽氏家氏となったとのことです。
なお、下野国にとどまった氏家氏の一族は
南北朝時代に断絶したとされている、とのことです。
【美濃氏家氏の時代】
美濃氏家氏は、
美濃守護の土岐氏や
その守護代の斎藤氏と結びつくことによって、
大垣の地の周辺にその勢力を広げていったそうです。
【氏家直元の時代】
氏家直元(氏家卜全)の代に、土岐氏が追放され、
斎藤氏もまた弱体化すると、尾張織田氏に属し、
その家臣として勢力を保全していきます。
【陸奥氏家氏】
陸奥氏家氏は代々大崎氏の宿老とし、
岩出山城を領しましたが、
戦国時代になると大崎氏に
しばしば反抗的な姿勢をとるようになりました。
奥州仕置によって大崎氏が滅亡した後、
氏家吉継は伊達氏に仕えたもののまもなく没し、
氏家氏の直系は断絶しました。
のち遠縁の者によって家名が再興され、
明治維新まで存続したそうです。
【最上・羽州の一族】
羽州管領斯波兼頼が建てた最上氏の重臣、
氏家定直を始めとする一族は、
斯波兼頼が若年のおりに
後見を務めた氏家道誠の縁者が、
斯波兼頼に従って
出羽に入った後裔と見なされているそうです。
戦国時代、氏家守棟は、
最上義守や最上義光の家老として活躍していました。
けれども、子の氏家光棟は天正16年(1588年)の
十五里ヶ原の戦いで戦死したため嫡流は途絶え、
最上氏の一族成沢氏から光氏を迎え、
名跡を後に伝えたとあります。
最上氏改易後は、
子孫は毛利氏に仕え幕末まで続いたそうです。
【その他の氏家氏】
江戸時代の武鑑では、
下総国生実藩森川氏家中に
氏家氏が登場しているそうです。
また出羽国庄内藩及び
若狭国小浜藩酒井氏家中に氏家氏が
登場していた記述が見えるそうです。
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