【真珠院八重姫御堂】
中世に始まる曹洞禅林としての眞珠院は、
歴代の住僧たちによって、
近隣の寺を末寺として取り込み
壮大な寺院に発展しました。
山門を入ってすぐ右側には
八重姫の供養堂があり、
八重姫御堂といいます。
実は八重姫の本名は静姫というそうです。
伝承によりますと、
恋仲であった源頼朝を慕って
伊東から山を越え北条館を訪れた八重姫は、
源頼朝の心変わりを知り、
この寺の前にある真珠ケ渕に身を投じて果てたそうです。
そのお堂の一角には、小さな梯子がいくつも置かれています。
これは「梯子供養」と言って、
八重姫が入水した時にせめて
梯子一本あれば助けられたかもしれないという
村人の無念の気持ちから始まったものであるそうです。
また願い事が叶った時に
必ずお礼参りとして
梯子を奉納することになっているということです。
境内には正安4年(1302年)銘の
定仙大和尚塔、
建武2年(1355年)銘の宝篋院塔と五輪塔、
貞治2年(1363年)銘の阿弥陀如来磨崖仏
(いずれも町指定文化財)が残されています。
現在では護岸工事で
その面影を留めないほど変わってしまった
真珠ヶ淵に面するように真珠院はあります。
ただ、昭和33年9月26日の
狩野川台風の最高水位の碑を見ると
当時の真珠ヶ淵はこうだったのでは・・・と
思い起こさせてくれます。
また八重御堂の下の辺りには、
八重姫と共に命を絶った6人の侍女を供養する
「八重姫主従七女之碑」があります。
【所在地】
伊豆の国市中條145ー2
【交通アクセス】
伊豆箱根鉄道駿豆線
「伊豆長岡」駅から徒歩13分
【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
【八重姫と源頼朝】
「吾妻鏡」によりますと、
安元元年(1175年)、
当時の伊豆で親平家の豪族として勢力があった
伊東祐親は伊豆に配流となった源頼朝の監視をしていました。
その伊東祐親が源頼朝殺害を企て、
源頼朝が伊豆山神社へ逃げ込むという記録が残っています。
この原因について「曽我物語」では
次のような逸話が残されております。
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伊東祐親の三女(四女の説もあり)である
八重姫は評判になるほどの美貌の持ち主でした。
父である伊東祐親が京都へ大番役として
3年間上洛しているうちに、源頼朝と八重姫は
恋仲になり更には千鶴丸という男児までもうけたのでした。
やがて父親の伊東祐親が伊豆へ戻って事態を知り、大激怒!!
(そりゃーそうだわな・・。)
「今時に源氏の流人を婿に取るなら、
娘を非人乞食にやる方がましだ。
平家の咎めを受けたら何とするのか」と言い放ち、
まだ幼子であった千鶴丸を簀巻きにして
生きたまま川に沈めてしまったのでした。
(な、なんということを。でもこれには訳があるようです・・)
そしてその怒りの矛先を源頼朝に向けたのでした。
(それは当然でしょうね。父親の立場からしたら・・・)
【北条時政と政子】
けれども、伊東祐親の次男の伊東祐清は、
義理の母が頼朝の乳母であった関係で、
源頼朝に事態を告げて
父の追っ手から逃がしたのでした。
さらに伊東祐清は、
自分の烏帽子親
(元服時に仮親として、名を与える者)
に当たる北条時政の屋敷に
源頼朝を匿ってもらうことにしたのでした。
(嗚呼、八重姫にとってはそれが悲劇の始まり・・)
それが縁で源頼朝は北条政子の求婚を受け入れ、
北条時政も子(長女)が出来てしまったために
2人の関係を許したということです。
【八重姫の哀しみ】
一方、八重姫は父によって
源頼朝と強制的に離別させられ、
さらに我が子までも失ってしまったのでした。
それでも・・・八重姫は源頼朝のことが忘れがたく、
治承4年(1180年)に侍女を連れて屋敷を抜け出し、
源頼朝が匿われているという北条の屋敷を訪ねたのでした。
【そして・・・絶望】
それはあまりにも残酷なことでした。
この時になって初めて八重姫は源頼朝と
北条政子が結ばれており、
しかも殺された我が子と
同じくらいの年頃の娘までいることを
知ってしまったのでした。
八重姫は伊東の屋敷に戻ることはせず、
落胆と絶望の中、選択した行動は、
激流の渦巻く真珠ヶ淵へ身を投じる事でした。
【伊東祐親と北条時政とそれぞれの娘たち】
二人の「父親」の選択と行動が
それぞれの娘の行く末を
大きく分けてしまったとも考えられます。
伊東祐親はあくまでも平家に忠実で、
平家の権力と恐ろしさを京にいて
思い知らされていました。
(刷り込み?洗脳・・?もあり?)
一方、京から遠く離れた伊豆にいた
北条時政はこのとき、同じ平氏でありながら
権力や富を独占していた
平家に不満を抱いていたと考えられます。
そして北条時政は、
平家の敵である源氏の源頼朝に目をつけて
ひとつの未来の可能性を見つけたのでしょう。
伊東祐親にそうした野望などがあったのなら
もしかしたら後年、歴史には
「源頼朝の正室 伊東祐親の娘八重」
となっていたかもしれません。
ま、このあとの源頼朝の浮気には
泣かされるとは思いますが・・。
この二人の「父親」の選択は、
親として今を生きている
自分にとって大いに参考になります。
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伊東祐親は最後まで平家側につき自刃します。
源頼朝を逃がした次男の祐清も
結果的には父親と運命を共にしています。
八重姫のあまりにも哀しい最期には
実は異説も存在するのです。
それがより伝説性を帯びることになっていったのです。
【八重姫 (伊東祐親の娘)】
八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、
平安時代末期の女性です。
伊豆国伊東庄(現・静岡県伊東市)の豪族であり、
源頼朝の監視役であった伊東祐親の三女(四女説もあります)。
源頼朝の最初の妻とされており、
源頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母親です。
「曽我物語」によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、
在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた源頼朝。
伊東祐親が大番役で上洛している間に
伊東祐親の三女(四女説有り)である
八重姫と恋仲になり、やがて男子を一人もうけて
千鶴御前と名付けたとあります。
千鶴御前が3歳になった時、
大番役を終えて京から戻り、
このことを知った伊東祐親は大激怒。
「親の知らない婿があろうか。
今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、
娘を非人乞食に取らせる方がましだ。
平家の咎めを受けたらなんとするのか」
と平家への聞こえを恐れ、
家人に命じて自分の孫でもある千鶴を
轟ヶ淵に柴漬
(柴で包んで縛り上げ、
重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害し、
八重姫取り戻して同国の住人である
江間の小四郎に嫁がせたのでした。
さらに源頼朝を討つべく郎党を差し向けます。
が、源頼朝の乳母であった比企尼の三女を
妻としていた伊東祐親の次男である祐清が
源頼朝に身の危険を知らせ、
源頼朝は伊東祐清の烏帽子親である
北条時政の邸に逃れたのでした。
北条時政の下で暮らすようになった源頼朝は、
やがて北条時政の長女の政子と結ばれます。
その後の八重姫の消息が、
入水自殺したとも、
北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、
様々に伝えられているのです。
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尚、「源平闘諍録」によりますと、
源頼朝の計らいで千葉氏庶流で相馬氏初代となる
相馬師常と結ばれたとあるそうです。
【江間の小四郎さんとは?】
さて、伊東祐親が嫁がせたという江間の小四郎さん。
北条義時の通称と同じですが、一応別人とされています。
この時北条義時は13歳だから、という理由からです。
・・・そもそも北条義時は自分の孫、ですからね。
八重姫と義時は叔母と甥の関係ですから。
ちなみに政子の母は伊東祐親の娘ではないようです。
従って政子と北条義時は異母姉弟、ですね。
で、八重姫を無理矢理嫁がせたという
江間の小四郎さんとは誰???
「江間」は北条氏の所領の地。
北条氏関係の誰かに嫁いだ・・ということでしょうか。
実は北条義時は江間の初代だった可能性も
あったようなので・・・。
なんかややこしくなってきました。
世間はなんて狭いのでしょう。
【源頼朝と伊東祐親の確執】
八重姫と千鶴御前に関する記述は
「曽我物語」や軍記物語の「源平闘諍録」のみで、
源頼朝の流人時代を記した史料はなく、
伝承の域を出ないとのことです。
けれども、鎌倉幕府編纂書である
「吾妻鏡」の治承4年10月19日
(1180年11月8日)条と
養和2年2月15日(1182年3月21日)条に、
安元元年(1175年、頼朝29歳)の9月頃、
伊東祐親が源頼朝を殺害しようとした所を、
次男の伊東祐清がそのことを告げて、
源頼朝が走湯権現に逃れたこと、
挙兵後の源頼朝に捕らえられた伊東祐親が
恩赦によって助命される所を
「以前の行いを恥として」と
自害したことが記されているとのことです。
このことから源頼朝と伊東祐親の間には
何かしらの因縁や確執があったのではと
考えられるとの事です。
【源頼朝のふたまた・・・】
一方、伊東祐親が激怒し、源頼朝を襲撃した原因として
以下の説もあるそうです。
実は源頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向でした。
しかし、源頼朝が伊東祐親の縁戚である
北条時政の娘の政子とも
関係していたことを知ってしまったからということです。
更に、
曾我兄弟の仇討ちの発端となる
工藤祐経による河津祐泰(伊東祐親の子)殺害には
源頼朝が伊東祐親への報復として、
工藤祐経に協力した可能性があるとも唱えられています。
【上記の説への独り言】
源頼朝は、政子と結婚してからも
他の女性と逢瀬を重ねているし、
政子が妊娠している時にも他の女性宅へ
通っていたくらいですからね・・・。
異母弟の源義経に対しての嫉妬や疑心暗鬼の高さを見ても
妙に納得してしまう説なのであります・・。
伊東市音無町には源頼朝と八重姫が
逢瀬を重ねたという音無の森の音無神社、
八重姫が千鶴丸を祀ったとされる最誓寺などがあります。
【千鶴丸の生存説】
千鶴丸にも生存説があります。
表向きは亡くなったことにして、
別の場所に逃がしていた説です。
写真なんてない時代、
千鶴丸の姿や顔は
一部の人間にしかわからないですものね。
女塚史跡公園に記されていた
甲斐源氏に託した説や、
奥州に逃がした説、
川に沈めたけど、生還して
生き延びた説等です。
本当の話として八重姫と千鶴丸、
共に生き延びたんだよ、という事を願っています。
亡くなった6人の侍女さんたちのためにも・・・。
2022年に放映予定のNHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
新垣結衣(あらがきゆい)さんが演じられます。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
伊東佑親~源頼朝の配流地の監視役で八重姫の父であり、北条義時・曽我兄弟・三浦義村の祖父。
伊東佑清~八重姫の兄で曽我兄弟の叔父、親交のあった源頼朝を父から助けるが平家方につく。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
女塚史跡公園~八重姫の5人の侍女たちの終焉の場所と伝わる処です
音無神社~源頼朝が八重姫との逢瀬を重ねた伝承の地~ひぐらしの森で待ちわびて音無の森で密会♪
最誓寺(伊東市)~伊東家のお墓及び千鶴丸の菩提寺として~伊東七福神巡りは寿老人です。
葛見神社~神の手のような巨大なクスノキが鎮座する伊東家守護の古社で樹齢は全国第2位!
日暮八幡神社~源頼朝が八重姫に会うために待ったひぐらしの森~日暮遺跡(弥生時代)の場所でもあります。
稚児ケ淵~頼朝と八重姫の子・千鶴丸が沈められたと伝わる場所~松川の上流です。
伊豆山神社~頼朝が伊東祐親より逃げ込み、政子との逢瀬を重ねた伊豆の地名の発祥の地
蛭ヶ小島~源頼朝が20年間過ごし北条政子と夫婦となった配流地~
江川邸及び旧韮山代官所跡、世襲代官の江川家は900年続く清和源氏で日本の歴史に関わっています。
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