【宇龍城跡】
【形態】
丘城(36m/34m)
(海城)
【遺構】
土塁、郭、井戸
【所在地】
島根県出雲市大社町宇龍
【築城年】
不明(戦国時代の可能性あり)
【城主】
不明(尼子氏又は毛利氏)
尼子氏配下の宇龍の国人
【廃城年】
不明
【遺構】
郭・土塁・堀切等
【城の説明】
宇龍城は宇龍港の西の小高い丘である
標高36m程の岩山に築かれており、
宇龍港を見下ろす構造になっています。
城が築かれている山は、
西の尾根続きを除き、
切り立った岩山であるため
天然の要害となっています。
主郭となる山頂には立虫神社が祀られています。
ここから北側一帯に曲輪らしき
遺構が確認できるそうです。
山上はデコボコした地形があり、
一部には大きな貯水池のような
へこみも確認できるそうです。
唯一、山上にアクセス可能なのは南西尾根で、
登城口階段状になっています。
この部分は現在宅地や畑などがあり、
堀切などの防御施設を確認することが
難しいようです。
【宇龍浦】
日御崎神社門前の東に位置する宇龍は、
島根半島西端に突きだした
リアス式海岸の浦の一つで、
島根半島海中公園の中心です。
入り組んだ湾と季節風から港を守る
権現島からなる天然の良港です。
「出雲風土記」には「宇礼保浦」とあり、
古来より通商港として栄えていた港町です。
【戦国期】
尼子氏がこの地を支配していた戦国期、
日御碕神社を領地の守護神として
宇龍の湊を直轄港にしています。
宇龍の湊には海外からの船も行き来しており、
特に唐船が来航した際には、
その際は宇龍に配置された
尼子氏の奉公衆を通して、
必要な物資を買い上げていたとの事です。
更に出雲で算出される鉄の積出を
宇龍港に限定して管理し、
舟役・勘過料として徴収していたとのことです。
やがて毛利氏の支配するところとなり、
毛利氏は水軍の補給地として、
更に整備や改修を行ったそうです。
【江戸時代以降】
近世まで斐伊川は川跡付近
(現在の一畑鉄道川跡駅付近)
から西に折れ、出雲大社門前の
杵築に流れ込んでいました。
現在のように斐伊川が
宍道湖へ注ぐようになったのは
江戸時代の寛永年間(1624年⇒1644年)と
言われています。
出雲の奥地で生産された「たたら鉄」は、
斐伊川舟運で杵築河口を経由して
この宇龍港に集められ、
他国へと積み出されていました。
出雲の製鉄が本格的に
他国へ知れ渡るようになったのも
この頃だとなっています。
ここから日本海を使って
北陸・因幡・伯耆方面などから
鉄を求めてやってくる多くの船で賑わったそうです。
江戸時代を通して宇龍は、
風待ち港として西廻り航路の廻船が寄港し、
藩蔵や遊女も置かれるほど繁栄していたのでした。
【重要な港町である証拠】
半島部の大半の地名が日御碕ですが、
この宇龍だけが独立した行政区分となっています。
その理由としては、
平安期までこの一帯すべてが
日御碕神社領であったのですが、
その後は宇龍だけが杵築大社(出雲大社)領と
なったことによります。
それは、いかにこの宇龍が
出雲国内で重要な港町であったかを
物語っている、という証拠なのだそうです。
日御碕神社・日沉宮と神の宮の上下二社から成る神社。桃山時代の面影を残す朱塗の社が美しい。
三笠山城・島根県~尼子十砦~山中鹿介が祈った三笠山の月の場所。
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