【十神山城】
十神山城(とかみやまじょう)は
島根県安来市新十神町にあった日本の城です。
【城郭構造】
連郭式山城
【天守構造】
なし
【築城主】
松田氏
【築城年】
室町時代
【主な改修者】
松尾氏
【主な城主】
松田氏、松尾氏
【廃城年】
永禄9年(1566年)
【遺構】
郭
【指定文化財】
なし
【標高(比高)】
93m
【説明】
十神山城は、松田氏により築かれた平山城です。
応仁の乱で松田氏が追われてからは
尼子氏の支配する所となり、
中海の水運を抑える要衝として
尼子十砦の一つに数えられ、重要視されました。
【城の構造】
中海に突き出した半島状独立峰上に
築かれており、頂上の主郭に加え、
周囲に延びる尾根及び尾根続きの峰上に
複数の郭が設けられています。
いずれも削平は甘く規模も小さいです。
唯一南方に開く谷を囲む両尾根沿いには
山頂の本丸付近まで郭が続く
比較的堅固な構造となっており、
この谷筋付近に居館の存在が
想定されているとのことです。
【城の歴史】
室町時代、松田氏により築城されました。
応仁2年(1468年)、
山名氏に組した松田備後守が拠り
尼子清定に抵抗しましたが、
尼子氏に攻められて落城となりました。
永禄9年(1566年)、
児玉就忠の率いる毛利氏方の水軍に攻められて落城しました。
永禄12年(1569年)、
兵を挙げた尼子氏残党が拠る所となりました。
元亀元年(1570年)、
布部山の戦いで尼子勢が大敗を喫し、
諸城と共に十神山城も開城となりました。
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【所在地】
島根県安来市安来町十神
【松田氏】
松田氏(まつだし)は、
相模国足柄上郡松田郷に発祥した
藤原秀郷流波多野氏一族、
並びにそれから派生したと見られる室町時代に
備前国西部一帯に勢を張った家系、
室町時代に奉行衆として仕えた
丹後を拠点とする桓武平氏流の一族が知られています。
相模松田家本家は、
小田原北条氏に仕えた後に
加賀前田家に召抱えられ、
その分家は結城家、
徳川将軍家旗本になったとのことです。
鎌倉期には相模国内に残存した
波多野氏一族を統合する
惣領家であったと考えられています。
南北朝期から室町期にかけ、
惣領制が崩壊し、
有力庶子家・一族が本宗家から独立していきました。
神奈川県足柄上郡松田町松田惣領にはJRの松田駅があります。
【出雲松田氏】
松田氏は相模国波多野郷を発祥とする
波多野氏の一族で、
波多野義常の子、松田有経が
足柄上郡松田郷を得て松田の名を称しました。
そして松田有経の一族である
松田有基が秋鹿郡(あいかぐん)
(島根県(出雲国)にあった郡)を領して
日置氏と名乗りました。
【日置氏(へきし)】
日置氏は日御碕社家であり、
元々は渡来系帰化人の末裔で
大和朝廷では高級官僚の一族であったそうです。
更に、主に太陽祭祀に
関わりのある一族とされてきました。
その日置氏と繋がっている出雲松田氏は
やがて日置氏から
松田氏と名乗る様になったとされています。
時代は戦国期、
出雲国の国人となっており、
安来荘の地頭であったとのことです。
室町時代の後期には
島根郡の美保関等に
勢力を伸ばしていたそうです。
応仁元年(1467年)頃に
尼子氏と関係を結び、
その影響下に入ったとされています。
ただしその詳細な系譜は複数あって
現在では残念ながら不明な点が多いです。
<登山口まで>
JR安来駅 徒歩10分
【十神山の名の由来】
「出雲風土記」では研神(とがみ)山と呼ばれており、
十柱の神々をまつったことから
その名が由来するといわれています。
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