2020年大河ドラマ「麒麟がくる」にて、まだ幼い明智光秀を補佐し養育したのが叔父の明智光安(あけち-みつやす)です。
西村雅彦さんが演じられます。
明智光安は1500年に、美濃・長山城主と考えられる明智光継の3男として生を受けました。
父・明智光継の長男で、明智光安の兄にあたる明智光綱の嫡男が明智光秀とする説があります。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀の父は明智光綱とする説をとっています。
また、明智光秀の母は、明智牧と言い、お牧の方である説を採用した模様です。
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しかし、斎藤道三が美濃・明智城を攻めたとされる際に、明智光綱は討死したとも言います。
1535年ともされます。
そのため、家督は、宗家の子である明智光秀が継ぐべきところでしたが、まだ幼少だったと言う事で、明智光安が光秀を後見する形で、明智家の当主を代行しました。
ただし、明智光安は美濃・明知城主である遠山景行と同一人物だとする説もありますので、明知城から明智城に移った関係で、明智姓に戻った可能性などもあります。
とくにく、史料があまり残っておらず、よくわかりません。
なにしろ、明智光秀の若い頃すら、よくわかっていないのですからね。
なお、明智家は、稲葉山城主・斎藤道三に小見の方を人質として出しています。
この小見の方は、成長すると斎藤道三の正室になっており、のち織田信長に嫁ぐ濃姫(帰蝶)をもうけました。
明智光秀が成人すると、明智光安は家督を譲ろうとしたようですが、明智光秀は辞退したともされます。
辞退させられた可能性も捨てきれませんが、明智家の権力は明智光安が握っており、1547年に、室町幕府の将軍・足利義晴に謁見すると、従五位下兵庫頭を得ています。
その後、明智光安は1553年に出家すると宗寂と号しました。
もしかしたら、この出家は隠居とも受け取れるため、明智光秀が家督を継ぐことになったのかも知れません。
そして、斎藤道三が、子の斎藤義龍と権力を巡って争いになると、明智光安は斎藤道三に従ったので、1556年、斎藤家の重臣・稲葉良通らから攻撃されました。
このとき、明智光安の弟である明智光久、明智家に従っていた三宅氏・藤田氏、妻木城主の妻木氏らは、総力にて明智城に立てこもったとされます。
しかし、揖斐光就・長井道利らの猛攻撃にて、城は落城となり、多くの一族が自刃して果てました。
このとき、明智光安の子とされる明智秀満が、明智光秀を託されて脱出したとも言います。
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こうして、明智家は美濃で勢力を失い、明智光秀は越前の朝倉氏を頼ったと言う事になります。
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