【中久喜城】
中久喜城(なかくきじょう)は
現在の栃木県小山市中久喜にあたる
下野国寒川郡にあった
平安時代末期から戦国時代にかけての
日本の城です。
別名として亀城、栃井城、中岫城、岩壺城。
城跡は祇園城(小山城)跡・鷲城跡とともに
「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」
として、国の史跡に指定されています。
【別名】
亀城、栃井城、中岫城、岩壺城
【城郭構造】
平城
【築城主】
小山政光
【築城年】
久寿2年(1155年)
【主な城主】
小山氏、結城晴朝
【廃城年】
慶長6年(1601年)
【指定文化財】
国の史跡(小山氏城跡として)
【歴史・沿革】
中久喜城は、久寿2年(1155年)に
小山政光が築いたものとされています。
小山氏は武蔵国に本領を有し
藤原秀郷の後裔と称した
太田氏の出自で、
小山政光がはじめて
下野国小山に移住して小山氏を名乗りました。
【地理地形】
中久喜城は江川と西仁連川に挟まれた
舌状台地の南端に位置しています。
両河川は中久喜城の南で合流しており、
西仁連川がもたらす氾濫原が
南方に広がる要害の地でありました。
スポンサーリンク
【城の位置づけなど】
小山氏にとっては
下総国結城方面への備えの城であり、
鎌倉時代には下野国守護を務めた
小山氏の拠点のひとつとなりました。
けれども室町時代に入りますと
下野守護の座は高氏や下野宇都宮氏、
関東管領上杉氏に移り、
こうした流れに抵抗した小山義政は
康暦2年(1380年)から
永徳2年(1383年)にかけて
小山で反乱を起こし、この時に
小山方の拠点として
文献資料に記された鷲城、岩壺城、
新々城、祇園城、宿城の5城のうち、
岩壺城に相当するのが中久喜城と
考えられているとのことです。
【小山氏の再興】
小山氏は義政の乱で
鎌倉府の追討を受けて断絶となりましたが、
同族の結城家から養子を迎えることで
再興しています。
そののち安土桃山時代の
天正18年(1590年)に
小山高朝の子で、結城政勝の養子となった
結城城主結城晴朝がこの城に
隠居したという記録があるとのことです。
また、中久喜城がある舌状台地を
古くは「北山」と称したとのことですが、
天正年間に小山氏と
同族の結城氏の和解の際、
「中久喜」と改めたという伝承が残っています。
また付近には和談坂と呼ばれる坂があり、
この和解にちなむものであるといわれています。
以上のように、中久喜城は
祇園城、鷲城と並んで
小山氏の主要な居城であったと
考えられています。
慶長6年(1601年)に
結城氏が越前国へ
転封となったとともに、
廃城になったと考えられています。
【構造】
台地先端の通称「城の内」に、
長辺120m、短辺100m前後の
主郭を構え土塁をめぐらし、
さらにその北西の台地先端部分にも
土塁を構えています。
その東に万年寺跡があり、
「万年寺曲輪」と呼称されています。
【現状】
現在の中久喜城は、
水戸線によって分断されてしまっています。
城内に踏み切りがあるため
分断された城を行き来することは
可能ですが、中久喜城の位置が
わかりづらくなってしまっています。
1991年3月12日、
鷲城跡と祇園城跡が
国の史跡に指定されました。
指定名称は
「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡」です。
その時点では祇園城跡の
南久保曲輪の土塁の一部、
また、鷲城跡の本丸の一部が
未指定でありました。
2001年8月7日、
両城跡の未指定部分を
追加するとともに、
あらたに中久喜城跡を追加指定して、
史跡指定名称を
「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡 中久喜城跡」
に改めました。
【所在地】
〒323-0806 栃木県小山市中久喜43−9
【交通アクセス】
(電車)
JR水戸線「小田林」駅から徒歩約15分
(車)
東北自動車道「佐野藤岡」ICから約30分
【駐車スペース】
普通車1台位なら短時間停車は可能かも。
小山城~小山氏の始祖である小山政光が平安時代に築城、下野国最大の武士団を率いていました。
結城朝光~誇り高く抜け目ない政治力と巧みな弁舌で鎌倉幕府に重きを成していきます。
寒河尼(網戸尼)~源頼朝の乳母で結城朝光の母、女地頭となり長寿を全うしました。
結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。
網戸城と寒川尼墓~網戸郷の地頭となった寒河尼と築城した孫の網戸朝村。
この記事へのコメントはありません。