平安時代

直秀~町辻で風刺劇を披露する散楽の一員、散楽とは奈良時代に大陸から移入された大衆芸能の起源

鶴岡八幡宮 舞殿



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【直秀】

2024年NHK大河ドラマ
光る君へ」の公式サイトによりますと
町辻で風刺劇を披露する散楽の一員。
当時の政治や社会の矛盾を面白おかしく批判する。
その自由な言動に、
まひろと道長は影響を受ける。
一方で、本性のわからない謎めいた男でもある。
とあります。

毎熊克哉(まいぐま かつや)さんが
演じられます。

人物紹介のところにあった「散楽」。
気になったので調べてみました。

【散楽】

散楽(さんがく)とは、
日本の奈良時代に大陸から移入された、
物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、
人形まわし、踊りなど、
娯楽的要素の濃い芸能の
総称であるとのことです。
日本の諸芸能のうち、
演芸など大衆芸能的なものの
起源とされているそうです。

【歴史と移入期】
起源は西域の諸芸能と見られています。
何世紀にも亘って、
中央アジア、西アジア、
アレクサンドリアや古代ギリシア、
古代ローマなどの芸能が、
シルクロード経由で徐々に
中国に持ち込まれていきました。
それら諸芸の総称として、
更に宮廷芸能である雅楽に
対するものとして、
「一定の決まりのない不正規な音楽」
の意で中国の隋代に
「散楽」と名付けられたとされています。
けれども実際には
もっと古いのではないかと
いわれています。
周や漢の時代には既に
散楽と呼ばれる民間の俗楽(古散楽)が
行われていたとも言われているそうです。
後漢以降の時代には、火を吐く、刀を飲む、
水に潜り魚の真似をするなどの
奇抜な曲芸から、隋や唐では百戯とも
称されていました。

日本へは奈良時代に、
他の大陸文化と共に
移入されたそうです。
けれどもそれより以前に、
大陸から渡っていた可能性もあり、
いつの時代からかは断定することは
難しいとのことです。




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【日本における資料として】
日本における散楽の歴史を紐解く上で
資料となるのは、それが宮中で行われていた
時代の史書「続日本紀」や「日本三代実録」
などであるとのことです。
「続日本紀」には、天平7年(735年)に
聖武天皇が、唐人による
唐・新羅の音楽の演奏と
弄槍の軽業芸を見たという
記述があるとのこと。
これが、散楽についての
最初の記録とされています。
天平年間のいずれかに、
雅楽寮に散楽戸がおかれ、
朝廷によって保護される
芸能となったのことです。
天平勝宝4年(752年)の
東大寺大仏開眼供養法会には、
他の芸能と共に散楽が奉納されました。
東大寺
けれどもその庶民性の強さや猥雑さからか、
桓武天皇の時代、延暦元年(782年)に
散楽戸制度は廃止されたのでした。

【散楽戸廃止以降】
このように散楽戸制度は
廃止されましたが、
宮中で全く演じられなくなった
わけではなかったとのことです。
平安時代になりますと、
宴席で余興的に行われるようになりました。
例えば「日本三代実録」によりますと、
承和3年(837年)に仁明天皇が、
弄玉、弄刀
(今で言うジャグリングのような曲芸)
の散楽を演じさせたとの記録があるとのこと。
他にも「日本三代実録」には、
御霊会などの余興として
散楽が演じられたとする記述が
あるとのことです。
とりわけ元慶4年(880年)に
相撲節会の余興として
演じられた散楽は、
演者がほとんど馬鹿者のようで、
人々を大いに笑わせたとのこと。
当時の散楽師が曲芸だけでなく、
今の狂言に通じる
滑稽物真似的な芸も
していたことが窺える
貴重な記録であるといえます。




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【日本各地に広まる】
散楽戸の廃止で
朝廷の保護を外れたことにより、
散楽は寺社や街頭などで
以前より自由に演じられ、
庶民の目に触れるように
なっていきました。
そして都で散楽を見た
地方出身者らによって、
日本各地に広まっていった
とのことです。
やがて各地を巡り
散楽を披露する集団も
現れ始めたとのことです。
こういった集団は後に、
猿楽や田楽の座に、
あるいは漂泊の民である
傀儡師たちに、吸収、
あるいは変質していったともいえます。

【職業芸能として】
応和3年(963年)、
村上天皇により、
宮中では散楽の実演は
全く行われなくなりました。
以降、散楽という言葉に
集約される雑芸群は、
民間に広まった様々な
職業芸能に引き継がれて
いくことになります。
鎌倉時代に入ると、
散楽という言葉も
ほとんど使われなくなったとのことです。

【その後の系譜】
散楽のうちの
物真似芸を起源とする猿楽は、
後に観阿弥、世阿弥らによって
能へと発展していきます。
曲芸的な要素の一部は、
後に歌舞伎に引き継がれていきます。
滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、
独自の芸能文化を構築していきました。
奇術は近世初期に「手妻」となりました。
散楽のうち人形を使った諸芸は
傀儡(くぐつ)となり、
やがて人形浄瑠璃(文楽)へと
引き継がれていきました。
このように、散楽が
後世の芸能に及ぼした影響には
計り知れないものがあるのでした。

【「更級日記」に遊女の記述】
「更級日記」に遊女(あそびめ)の話が
出て来きます。
けれども江戸期から
戦前の遊女(ゆうじょ)と異なり、
芸能民に近い存在のようであったとのことです。
事実としてそのレベルは個人芸を越えた
興業レベルのものであったとのこと。
彼らの中にはもしかしたら貴族出身、
あるいは朝廷の保護を外されてしまった
散楽の者の子孫かもしれませんね。
もしかしたら、没落してしまい、
貴族を廃業(?)して
芸能の世界に入った人物も
いたかもしれません。
平安貴族の世界は中々ハードで、
身分や社会的地位は
決して安泰ではなく、
没落もあっという間であったそうです。
「平安貴族≒サバイバル
であったかもしれません。




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【「直秀」の役目は?】
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」の
「直秀」も出自は貴族であったかもしれませんね。
もしくは先祖が朝廷の保護を受けていた、
散楽戸制度時代に
籍を置いていたのかもしれません。
いずれにせよ、出自に何らかの
秘密がありそうですね。
そして職業柄(?)そのうちに
密命を帯びる役目を
負うのかもしれません。
あるいは職業通り(?)に
狂言回しの立ち位置かもしれませんね。
いずれにせよ、ドラマの構成上で
自由に立ち位置が変化する役どころでしょうね。

藤原道長~初めは目立たずも後に政権を掌握、「一家立三后」をなし「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠む。

一条天皇~「叡哲欽明」と評された賢王は笛の名手で皇后との「純愛」を育み、やがて平安王朝文化が開花。

藤原兼家~熾烈な権力闘争に勝ち、のちの藤原氏最盛期を築いた人物です。

円融天皇~政治に関与し兼家と疎隔・対立するも、藤原詮子との間に後の一条天皇が誕生します。

花山天皇~藤原氏の策略で19歳で出家、独創的な発想の持ち主で好色、観音巡礼が後に「西国三十三所巡礼」として継承。

藤原時姫~藤原兼家の妻で藤原道隆・道兼・道長・超子・詮子の生母、一条・三条両天皇の祖母です。

藤原道隆~藤原道長の長兄、容姿端正、明朗で豪快、気配り上手な優れた跡継ぎでしたが病で急逝します。

藤原道兼~父は藤原兼家、兄は藤原道隆、弟は藤原道長、待望の関白に就くも数日でこの世を去る。

藤原詮子~藤原道長の姉、国母となりやがて日本最初の女院となって、権力を握り政治に介入する。

藤原道綱~藤原道長の異母兄で母は「蜻蛉日記」の作者、おっとりとした性格で才に恵まれず。

藤原定子~朗らかで才気に満ち華やかで美しい女性、父道隆の死で状況は一変し若くして散る。

藤原彰子~真面目で努力家で控えめな少女は成長して国母となり政治力を発揮し「賢后」となりました。

紫式部~世界最古の長編小説とされる「源氏物語」を執筆した女流小説家で平安時代きっての才女。

清少納言~末娘で父親からとても可愛がられて育ち、定子に仕え世界最古の随筆である「枕草子」を執筆します。

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