【成東城】
成東城(なるとうじょう)は、
千葉県山武市成東町にあった日本の城です。
【別名】
鳴戸城
【城郭構造】
平山城
【築城主】
印東四郎師常
【築城年】
応永年間(1394年⇒1427年)
【主な改修者】
千葉勝胤、石川康通
【主な城主】
印東氏、成東氏、石川康通、青山忠成
【廃城年】
元和6年(1620年)
【遺構】
空堀、土塁
【成東城について】
当地に勢力を張った千葉氏の家臣である
印東四郎師常(南郷師常)により、
応永年間(1394年⇒1427年)に
築城されたと伝わっています。
その後成東城は一時廃止となりましたが、
享禄3年(1530年)、
千葉勝胤により再興され、
その子胤定が入り、
成東八郎を称したと伝えられています。
天正18年(1590年)、
小田原征伐の際に成東城も落城し、
その後二万石を以って
成東に封じられた
石川康通、青山忠成等が入城しました。
元和6年(1620年)、
青山氏が岩槻城に移封され、
成東城も廃城となりました。
【成東城の構造】
作田川右岸の独立丘陵上に占地し、
空堀および土塁により大きく
五つに区画されていました。
主郭は愛宕神社が祀られる
丘陵東端の郭と考えられており、
台地に繋がる二方に土塁、堀が巡り、
北西および南西に虎口が開きます。
主郭北西には二郭が設けられ、
西側に土塁が設けられています。
この二郭の土塁は南に伸び、
主郭西方では主郭の土塁と合せ
二重土塁を構成しています。
二郭の西方には空堀を経て
三郭が置かれ、北西面に
土塁が設けられており、
西端は櫓台状に広くなっています。
二郭および三郭の周りには、
台地方面に空堀が巡っています。
また、三郭西方では
主郭西方と同様堀が二重となっており、
その内外側の空堀は北に伸び、
台地を遮断していました。
以上の三郭が主郭部となります。
台地北東端には
複数の腰郭が設けられ、
本行寺付近から主郭に至る
城道を守る構造となっています。
また、台地西端には横堀が巡り、
台地全体に城域は
拡がっていたものと
考えられています。
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【遺構】
外郭部は宅地として開発されています。
三郭および二郭外側の堀を含む
外郭部の遺構は失われましたが、
主郭、二郭、三郭、
および腰郭が良く残っています。
また、台地西端に設けられていた
横堀の一部も残っています。
【成東城跡公園・所在地】
〒289-1326 千葉県山武市成東2652
【駐車場】
成東城跡公園の駐車場があります。
4台くらい駐車できます。
<注意事項>
春夏秋など暖かい時期は
草木がかなり生い茂るので
虫よけスプレーを持参し、
長袖の羽織ものや帽子着用が望ましいです。
またできれば明るい時間帯で
複数での登城をお勧めします。
眺めは比較的良いとのことです。
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