【石見・亀山城】
築城年代は定かではありませんが、
都野氏によって築かれたと云われています。
都野氏は藤原北家の宇都宮氏を祖と称し、
石見国二之宮の神主として
那賀郡都野郷に住み都野氏を称した事に始まります。
江の川の水運と江津の港の抑えが目的であったとされます。
南北朝時代は南朝方として活躍しています。
都野刑部少輔の時に毛利氏に従い、
その子である都野三左衛門家頼は
天正14年(1586年)の
豊前国宇留津城攻めで戦功を挙げ、
毛利輝元より感状を受けました。
さらに朝鮮の役では
毛利輝元に従って渡海し
蔚山にて討死しました。
家督は都野元勝が継ぎました。
【構造や地理地形】
江の川の河口の西岸にある
30m程の丘陵に築かれていたとの事です。
本光寺の東側の丘の上で
現在、鉄塔が建っています。
残念ながら遺構は定かではないそうです。
現地に行かれた方によりますと、
本光寺の墓地脇から
山上に通じている道があるそうです。
山の南側が最も高く、
その南端には法華塔があるとのことです。
【所在地】
島根県江津市(ごうづし)江津町本町
【都野氏】
都野氏(つのし)は、日本の氏族・武家。
摂関家藤原北家の流れをくむ
宇都宮氏の出とされ、
南北朝時代には
石見国二宮-多鳩神社の神主家として
那賀郡都濃(都野)に社領を有し、
その郷名から都野氏を名乗ったとされています。
以降、安土桃山時代まで領有していました。
【都野家頼】
都野 家頼(つの いえより)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で
毛利氏の家臣でした。
都野氏は石見国那賀郡都野郷
現在の島根県江津市を本拠とした国人です。
【別名】
通称:弥次郎→三左衛門
【墓所】
観音寺(島根県江津市江津町)
【主君】
毛利輝元
【氏族】
藤原北家宇都宮氏庶流都野氏
【父】
都野隆安
【妻】
正室:あちゃこ(吉川経家息女)
【子】
元勝
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【生涯】
石見国那賀郡都野郷を
本領とした国人である
都野隆安の子として生まれ、
毛利輝元に仕えました。
天正14年(1586年)の九州征伐に従軍し、
同年11月の賀来氏の守る
豊前国宇留津城攻撃では
小早川隆景や黒田孝高に従って武功を挙げ、
11月9日に毛利輝元から、
11月12日には吉川元長から感状を与えられました。
天正15年(1587年)から
天正19年(1591年)にかけて行われた
毛利氏の惣国検地において、
都野氏領は石見国那賀郡都野郷678石3升と
出雲国飯石郡仙導の内の286石9斗7升、
合計965石とされ、
天正19年(1591年)11月5日付で
穂田元清、福原広俊、渡辺長、林就長、
佐世元嘉、二宮就辰、内藤元栄、
安国寺恵瓊の連署の打渡状が与えられています。
【蔚山城の戦いで戦死】
慶長2年(1597年)から始まる
慶長の役では毛利秀元に従って渡海し、
朝鮮の蔚山における突貫工事での
蔚山倭城築城に加わりました。
けれども完成目前の同年12月22日、
明軍の先鋒である擺寨が指揮する
軽騎兵1000に急襲され、
同じく毛利氏家臣である
冷泉元満や
阿曽沼元秀と共に戦死したのでした。
【都野元勝が家督を継ぐまでの経緯】
都野家頼が戦死した時、
嫡子の都野元勝はまだ母(吉川経家息女のあちゃこ)の
胎内にいて生まれていませんでした。
そのため、毛利輝元は生まれた子が
男子であればその子に
都野家頼の後を継がせるとして、
慶長3年(1598年)2月2日付で
宛先に「都野」とのみ記した判物を先に与えます。
同年5月27日に改めて
「都野役熊(都野元勝)」に
都野家頼の後を継がせる旨の
判物を与えたということです。
なお、都野元勝は
慶長3年(1598年)の生まれです。
なお、生前に都野家頼は
石見国那賀郡江津において、
菩提所として曹洞宗の光福山普済寺を、
祈願所として真言宗の東光寺を建立し、
両寺に寺領を寄進していました。
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