【鈴垂城】
「すずすじょう」、「すだれじょう」とも読むそうです。
築城年代は定かではないそうです。
尼子氏の家老である
亀井武蔵守安綱の居城と伝えられています。
永禄9年(1566年)、
その子亀井能登守秀綱のとき、
毛利の武将である
伯耆国尾高城主の杉原盛重におびき出されて
謀殺され、鈴垂城も奇襲を受けて
落城したということです。
其の後の永禄12年(1569年)、
尼子勝久を旗頭とする尼子再興軍は
忠山城から真山城への拠点を移し、
富田城奪還を試みるも達することができませんでした。
翌年の永禄13年(1570年)、
布部山の戦いで毛利軍と戦って敗北となります。
尼子勝久は真山城から鈴垂城へ移り、
しばらく滞在した後に
桂島から出雲を脱し京へ上ったということです。
【形態】
丘城(48m/48m)
【遺構】
土塁,郭,堀
【城主】
亀井氏
【別名】
名鈴垂山城,簾城
【所在地】
島根県松江市美保関町
【大同寺の五輪の伝説】
島根半島に、鈴垂城(すずたれじょう)という尼子方の
城がありました。
その城の城主は
亀井能登守安綱(かめいのとのかみやすつな)という人で、
狩をするのが大好きでした。
彼は、しばしば境水道を渡り、
弓ヶ浜の野山で狩を楽しむので、
土地の人ともすっかり仲良くなり、
とりわけ大庄屋の家に立ち寄り
酒盛りをしていました。
丁度その頃、毛利勢は尼子の主城であった
出雲の富田城を攻め落とそうと
機をうかがっていたのでした。
その為、亀井能登守安綱は狩どころではなくなり、
合戦の準備に大わらわとなりました。
そうしたある日のことです。
弓ヶ浜の庄屋から
「大漁だったので酒盛りでもしませんか」と誘われました。
日夜合戦の連日の準備に疲れていた
亀井能登守は、しばらくうつつをぬかしたいものと、
40人の家来と、
2歳になったばかりの息子である
清若丸(きよわかまる)を
乳母とともに連れて出向く事としました。
その情報を知った毛利側の尾高城主である
原播磨守盛重(すぎはらはりまのかみもりしげ)の軍勢は
酒盛りしていた庄屋の家を取り巻き、
ときの声をあげて一気に攻め込んでいったのです。
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亀井能登守安綱と家来は必死に応戦しましたが、
多勢に無勢です。
すぐに勝敗はついてしまい、
家来は次々と討ち死にしていきました。
それでも亀井能登守安綱は巧みに逃れ、
ようやく対岸の鈴垂城の見える所まで
逃げ延びてきました。
けれども敵の放った火矢のため
火を吹く天守閣を目撃し、
残った家来と共に自害して果てたのでした。
一方、乳母に抱かれた清若丸は
小磯双四郎(こいそまたしろう)
という重臣に守られ、暗闇に紛れて
大同寺まで逃げ延びてきました。
しかし、敵が境内にまで乱れ込んできたのを見て、
もうこれ以上逃げられないと判断した
小磯双四郎は、
2人を茂みの中に隠して
敵の中へ切り込んでいったのでした。
そうした尋常ではない様子に
僅か2歳の幼子とはいえ、
気配に気づいたようで
清若丸は、突然火がついたように
泣き叫んでしまったのです。
清若丸の泣き叫ぶ声で、
敵方の毛利勢に見つかってしまい、
乳母と共に切り殺されてしまいました。
若君たちの死を知った
小磯双四郎は烈火のごとく怒り、
寺の境内で後を追うように切腹して果てました。
その後悪い病気が流行り、
たくさんの人々が死にました。
「きっと双四郎の崇りだ」と、
人々は噂しました。
小磯双四郎の霊を祀るために五輪を建て、
毎年6月25日を小磯双四郎の命日と決め、
今でも手厚い供養が行われているとのことです。
「小磯大明神」というのぼりがたっています。
【大同寺の所在地】
〒684-0043 鳥取県境港市竹内町1571
【駐車場】
有り。
【大同寺・交通アクセス】
JR境線「余子」駅下車3分程
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