鎌倉殿の13人

津幡城~平維盛が砦を築き、富樫氏が戦い、上杉謙信が布陣、前田利家が末森城の合戦の軍議を開いた城。

津幡城跡(物見砦)



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【津幡城】
津幡城(つばたじょう)は
加賀国加賀郡(のち河北郡)津幡
(現・石川県河北郡津幡町清水)に残る、
古代の日本の城で平城となります。
昔から交通の要衝でした。
現在は石標のみが建てられています。

<津幡城跡の一角にある施設>
津幡ふるさと歴史館
◆無料駐車場有り
【所在地】
〒929-0326 石川県河北郡津幡町清水リ1−1

【歴史】
平維盛が寿永2年(1183年)、
倶利伽羅峠の戦いの際津幡川に面した、
小高い丘に砦を設けたことに始まります。
建久元年(1190年)には、
井上庄の地頭津幡隆家が居城としていたそうです。

<津幡城跡 物見台へ
津幡城跡 物見台へ

観応2年(1351年)には、
富樫氏春がこの城で、桃井直常軍と戦っています。

天正4年(1576年)から
一向一揆が立て籠もっていましたが、
天正9年(1581年)、
織田方の柴田勝家らによって落城しました。

天正12年(1584年)、
佐々氏と前田氏の間に緊張が高まると、
前田利家が再び築城しました。
弟の前田秀継に守らせていました。
同年9月、
末森城包囲中の
佐々軍攻略の軍議をここで開いたとされています。
これは末森城の戦いの呼ばれる戦でした。
天正13年(1585年)、
前田秀継が木舟城に移ると廃城となりました。
現在は、津幡小学校となっているそうです。

【所在地】
〒929-0326 石川県河北郡津幡町字清水リ1−1




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【富樫氏】
富樫氏(とがしし)は、
藤原利仁に始まるといわれる氏族です。
室町時代に加賀国(現在の石川県南部)を
支配した守護大名でした。

【概要】
代々加賀国に勢力を張り、
加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる
八介の一つの富樫介を称した一族です。
家紋は天帝(北極星)と
北斗七星への信仰(妙見信仰)から
八曜紋を用いています。
替紋として鹿角紋。

現在の野々市市に館を構えていたとされています。
「野々市じょんから」は、
富樫氏の治世を称えた17番まで
歌詞のある民謡です。
「義経記」、能の「安宅」、
歌舞伎の「勧進帳」で有名な富樫に比定される
富樫泰家は、この富樫氏の人物であるそうです。

富樫高家が、建武2年(1335年)、
加賀国の守護職についていましたが、
加賀守護職を望む有力者が多く、
その地位は不安定であったそうです。
至徳4年(1387年)に富樫昌家が没すると、
管領である斯波義将が、
実弟の斯波義種を加賀守護職に任じ、
その没後はその息子の斯波満種に継がせるなど
実に30年近くにわたって
富樫氏は守護職を奪われていたのでした。
けれども、将軍足利義持の側近である
富樫満成が応永21年(1414年)に
斯波満種を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、
更に残り半国(北部)も
一族の富樫満春(昌家の甥)に与えられたのでした。

応永25年(1418年)に
冨樫満成は有力守護との政争に敗れて殺されますが、
冨樫満春が冨樫満成の地位を継いで
加賀一国の守護職となったのでした。
以後、富樫政親が長享2年(1488年)、
長享の一揆と呼ばれている
高尾城で加賀一向一揆に攻め滅ぼされるまでが
富樫氏の加賀国支配時期となるそうです。
冨樫政親が死んでからは、
一揆により名目上の守護として
富樫泰高が担ぎ出されました。

その後、富樫泰高の孫である富樫稙泰が
本願寺の内紛と絡んで発生した
大小一揆で小一揆に加担して敗れ、
守護の地位を追われて富樫家は
更に衰退したのでした。
元亀元年(1570年)に
冨樫稙泰の次男である富樫晴貞が
織田信長と組んだため、
一向一揆に討ち取られました。
後を継いだ冨樫晴貞の兄である富樫泰俊も
天正2年(1574年)に討ち死に、
生き残った冨樫泰俊の子である富樫家俊は
佐久間盛政に仕え、後藤弥右衛門と改名しながらも
富樫家を存続させたとのことです。
子孫は加賀藩の十村肝煎の役目を
明治維新まで受け継いだのでした。

現在、明治維新まで続いた富樫家は無くなり、
直系の男子は山中家となっており、
次いで本田家となっています。

【十村肝煎】
とむらきもいり。
金沢藩の十村組の長。

十村制(とむらせい)は、
江戸時代に加賀藩の
第3代藩主前田利常が制定した農政制度です。
地方の有力な農民を十村として懐柔し、
いわば現場監督として利用することで、
農村全体を管理監督し、
徴税を円滑に進める制度でありました。
改作法施行にあたって、
十村はその業務範囲を広げ、
加賀藩・富山藩・大聖寺藩における
農政の実務機関としての役割を十全に果たしたのでした。

【倶利伽羅峠の戦い】

倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、
または、砺波山の戦い
(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、
平安時代末期の寿永2年5月11日
(1183年6月2日)に、
越中・加賀国の国境にある
砺波山の倶利伽羅峠
(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で
源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦です。
治承・寿永の乱における戦いの一つです。

【経過】
治承4年(1180年)、
以仁王の平家追討の令旨に応じて
信濃国で挙兵した源義仲は、
翌年の治承5年(1181年)に
平家方の城助職の大軍を
横田河原の戦いで破り、
その勢力を北陸道方面に大きく広げたのでした。
寿永2年(1183年)4月、
平家は平維盛を総大将とする
10万騎の大軍を北陸道へ差し向けました。

平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、
木曾義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされました。




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【般若野の戦い】
けれども5月9日明け方、
加賀国より軍を進め般若野
(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)
の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、
木曾義仲軍の先遣隊である
木曾義仲四天王の一人である
今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、
平盛俊軍は退却してしまったのでした。

一旦後退した平家軍は、
能登国志雄山
(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に
平通盛、平知度の3万余騎、
加賀国と越中国の国境の砺波山に
平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の
二手に分かれて陣を敷いたのでした。
5月11日、
木曽義仲源行家、楯親忠の兵を
志雄山へ向け牽制させ、
木曾義仲本隊は砺波山へ向かったのでした。
木曾義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごし、
平家軍の油断を誘い、
今井兼平の兄で木曾義仲四天王のもう一人である
樋口兼光の一隊をひそかに
平家軍の背後に回りこませたのでした。

平家軍が寝静まった夜間に、
木曾義仲軍は突如大きな音を立てながら
攻撃を仕掛けたとのことです。
浮き足立った平家軍は退却しようとしましたが、
退路は既に樋口兼光に押さえられていたのでした。
大混乱に陥った平家軍7万余騎は
唯一敵が攻め寄せてこない方向へと
我先に逃れようとしましたが、
そこは倶利伽羅峠の断崖でした。
平家軍は、将兵が次々に谷底に転落し、
とうとう壊滅してしまいました。
平家は、木曽義仲追討軍10万の大半を失い、
平維盛は命からがら京へ逃げ帰ったとのことです。

この戦いに大勝した木曾義仲は
京へ向けて進撃を開始し、
同年7月に遂に念願の上洛を果たしました。
大軍を失った平家は防戦のしようがなく、
安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びていきました。

【火牛の計】
「源平盛衰記」には、
この攻撃で木曾義仲軍が
数百頭の牛の角に松明をくくりつけて
敵中に向け放つという、
源平合戦の中でも有名な一場面があります。
けれどもこの戦術が実際に使われたか否かは、
専門家の中では疑問視する意見が
多く見られるとのことです。

このくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた
「火牛の計」の故事を下敷きに
後代潤色されたものであると考えられています。
この元祖の「火牛の計」は、
角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、
突進する牛の角の剣が
敵兵を次々に刺し殺すなか、
尾の炎が敵陣に燃え移って
大火災を起こすというものです。

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